第5話 ドイツへ
「淡雪ちゃん、しっかり!」
月平の部屋の入口にへたり込んでガタガタと震える淡雪の両肩を力強くつかんだのは、隣家の赤瀬松風だった。月平の様子を見に白瀬家に来たところで、淡雪の絶叫を聞いて二階へと駆けつけたのである。
松風の目にもその凄惨な光景は焼きついた。天井から吊り下がり揺れる親友の姿。それは瞬く間に硬い氷柱になって見えてくる。その心が凍りに凍りついた末に迎えた姿。泣き叫ぶ淡雪の心も凍っていく様子が見える。松風もこの時から、人の凍った心が見えるようになった。
その直後に、異変に気づいた店の者たちが二階に駆け上がってきたが、淡雪も松風もそこからはしばらく記憶がない。
人間にとって最も悲しい出来事は、我が子が親の自分よりも先に亡くなってしまうことではないだろうか。白瀬餡次はたった一週間のうちに、妻と二人の子を失った。その悲嘆は量り知れぬ大きさであった。しらせ堂本舗は職人や店員たちの奮闘でなんとか平常運転を取り戻してはいたが、店主の餡次が平常心を取り戻すにはしばらく日数が必要だった。
残された淡雪もまた、いつもの心を失っていた。周囲の人々の凍った心が常に見えるという異様な状態は、淡雪の精神を蝕む。特に父餡次の心の氷の分厚さは異常で、威厳高く気丈に振る舞う姿が逆に切なく、なんと声をかけていいのかも分からない。
しらせ堂本舗の長い歴史は徹底した男系思想。これまでに娘婿を迎えた前例もなく、女性が菓子職人の作業室に入ることも許されないほどであった。餡次は娘の淡雪には優しいが、家業に関しては特に何も期待していない。淡雪には家業については何も託されない。
それだけに淡雪は、自分のわがままがきっかけで長兄外郎が事故死したこと、自分が近くについていながら次兄月平は自ら命を絶ったことで、父から少なからず恨まれているのではないかという思いで、心が押しつぶされそうになっていた。
家業には期待されていなくても、自分にも何かできることがあるのではないか。勝手にそう思った淡雪は、不得意だった勉学にひたすら励む。
その努力の甲斐あって、高校の成績は次第に上昇。やがて東京の国立女子大学の栄養学科に合格する。以前の淡雪の低成績からは考えられない快挙であった。
国立女子大に入学して東京で一人暮らしを始めた淡雪。食品に関する勉学ならば家業にも何か役に立つだろうと考えた淡雪は、応用栄養学、食品科学、栄養教育学など、幅広い科目を自主的に学んでいった。東京には大手飲料メーカーに就職した松風も住んでいるが、頼ることはなかった。
淡雪が二十歳になった時。松風から呼び出された。
カフェで会うと、松風は一通の手紙を手渡してきた。
「実は最後に月平くんに会ったあの夜。月平くんは手紙を書いて僕に渡したんだ。妹が二十歳になったら、この手紙を手渡してほしいって。それまでは決してこの手紙は見せないでくれって」
「えっ、月平お兄ちゃんが……」
「淡雪ちゃん、ごめん。僕はそれを聞いて、月平くんは自分の行く道を決めて長崎に帰り、淡雪ちゃんが二十歳には東京にいるだろうと踏んで、東京の会社に行く僕にサプライズとしてその決意を伝えさせようとしてると思ったんだ。だから安心して月平くんを一人にして隣りの家に帰ってしまった。あの時、僕は月平くんから目を離すべきじゃなかったんだ。本当にごめん」
松風は頭を下げた。淡雪はゆっくりと首を振る。月平が命を落とした原因は全て自分にあると、淡雪は信じているからである。
愛する兄が自分に遺した遺書が、ここにある。思い切って封を開ける。
そこには、月平の字による短い文章があった。
『自分は自分の夢を切り自分の信じる道を絶つを選ぶ。
淡雪、君は君の夢を見つけ君の道を行け。外郎兄さんもきっとそう願う』
迷いのないような力強い月平の字体。
松風の前でこの手紙に向かった時にはもう、月平の心は硬く決まっていたのだろう。
淡雪と松風はその月平の最期の手紙を前に、カフェで閉店時間まで泣いた。
大学二年の冬休み。淡雪はドイツへ旅行をすることに決める。小学生の頃からドイツで修行したいと言っていた月平が、よくドイツの本を見せながら淡雪に説明していたことが思い出される。
「外郎兄さんはドイツの城で言えば、ノイシュヴァンシュタイン城のような人だ。すごく華があって、中身もすごくて、誰からも注目される。僕はその近くにあるホーエンシュヴァンガウ城みたいになれればいいかな。目立たないけれども味がある。そんな存在がいい」
「えー、私もそういうのがいいなー。近くに淡雪みたいなお城はないのー?」
「だったらほら、すぐ近くのフュッセンの街に、ホーエス城というお城があるよ。ノイシュヴァンシュタイン城に比べれば小さなお城だけど、ロマンチック街道の終点にある歴史の深いお城なんだ。日本人観光客とかには知られてないけど、ヨーロッパのお城好きには好かれている。淡雪はこんな城だったらどうだ」
「それがいいー。ロマンチック街道の終点なんてステキ。行きたい!」
「僕がドイツに修行に行ったら、呼んであげるよ。全部見に行こう」
何度も繰り返したそんな会話。ずっと気になっていたフュッセンのホーエス城。それを見に行きたい衝動に強烈に駆られていた。
その冬、淡雪は兄の遺書を握り締めて、ドイツへと飛んだ。
(つづく)




