第3話 悲劇
九州の長崎街道は、シュガーロードと呼ばれている。
江戸時代の日本は鎖国政策下にあったが、長崎の出島だけはオランダや中国との交易が許されていた。
当時は砂糖も貴重な輸入品。長崎から持ち込まれた海外の砂糖は、長崎街道から日本国内へと運ばれていく。長崎街道とは肥前長崎から豊前小倉、現代でいう長崎市から福岡県北九州市まで通じた街道だが、その沿道には様々な菓子が生まれていった。長崎カステラ、諫早おこし、小城羊羹、佐賀ぼうろなど現代に続く銘菓も数多い。
その起点、長崎にある「しらせ堂本舗」は、江戸時代中期から続く二百五十年の歴史を持つ老舗和菓子店である。その隣地に軒を連ねる赤瀬茶舗と共に、長崎市の茶道に関わる者にも長く愛されてきた。長崎では知人の家に行くには最適の手土産、クレーム対応の訪問時には定番の手土産とも言われている。
しらせ堂本舗の十四代、当代店主の白瀬餡次もまた代々の先祖に劣らぬ優れた菓子職人である。高き誇り、そして長き歴史の老舗の暖簾を次世代へ受け渡す使命感を強く持つ。自身の名に餡の字を持つように、生まれた三人の子全員にも和菓子にちなんだ名前をつけたほどである。
長男の名前は、外郎。しらせ堂本舗の人気商品の一つである蒸し菓子の外郎の名をそのままつけた。
外郎は餡次の英才教育の甲斐あってか、その名前のおかげなのか、幼い頃から和菓子が大好きで、細かい甘さや食感を見分ける天才的な舌を持っていた。長男として和菓子屋を継げる宿命を喜び、中学を卒業するとすぐに店に入り、後継者としての本格的な修行を始めた。
外郎と七つ離れた次男の名前は、月平。同じく店の人気商品である中華菓子の月餅から名付けられた。
明るく人懐っこい兄の外郎に比べ、月平は幼い頃から無口でおとなしかった。心を閉ざしていたが、月平は先天性の近視であることがようやく分かり、眼鏡をかけたところ視界が開けて生まれ変わった。月平は自分の世界を開いた眼鏡の素晴らしさに魅了される。図鑑でヨーロッパに眼鏡マイスターという職業があると知ると、それが将来の夢となった。
次男月平と三つ離れた妹の名前は、淡雪。これも同店の人気商品の一つである和菓子の淡雪から名付けられた。淡雪とは寒天や卵白で作る、舌に溶けるほどに柔らかい羊羹菓子である。
十離れた長兄の外郎は早くから修行に明け暮れていたため、淡雪と遊んでくれるのはもっぱら次兄の月平であった。
隣家の赤瀬茶舗にも兄弟があり、長男の赤瀬和敬は白瀬外郎と同い年で、同じく家業を継ぐ運命にあった。次男の赤瀬松風も白瀬月平と同い年。松風は毎日のように月平と淡雪の兄妹と遊んでいた。淡雪の家に飾っていた三人の写真は、十四歳の頃に兄月平と松風と一緒に撮ったものだ。
松風と淡雪が月平の部屋で遊んでいると、店で修行中の長男外郎が練習で作った試作品をおやつに差し入れることが常だった。
「外郎兄ちゃんが作った淡雪、美味しい!」
「外郎さんはすごいなあ。お店に出してるものと変わらないよ」
淡雪と松風は特に、外郎が作る淡雪を喜んだ。口に入れるとふわりと甘く溶ける優しい食感。淡雪は自分の名前の由来になったこのお菓子がお気に入りだった。菓子はこんなに人の心を温かく幸せにするものなのかと思った。また松風も和菓子の奥深さに魅了されて、菓子職人という仕事に興味を持つようになった。
「外郎兄ちゃん、次もこれがいい! 次も淡雪作ってー」
「ああ。かわいい妹のためなら、兄ちゃんは何だって言うこと聞くぞー」
明るい外郎はいつも、淡雪に屈託のない優しい笑顔を見せた。
淡雪が十五歳で地元の高校に合格した時、成績の良かった白瀬月平と赤瀬松風はともに同じ東京の難関国立大学に合格した。月平は工学部、松風は農学部と別々の学部だが、仲良く二人暮らしをすることになった。
遊び相手の月平と松風が長崎からいなくなると、淡雪は生活に張り合いがなくなってきた。
高校一年生のある日、テニス部の練習が終わって、厚かましくも「疲れたから車で迎えにきてー」と自宅に連絡した。
仕方なく長兄の外郎が仕事の手を止めて車を運転し、運転免許を持っていない母はついでに夕飯用の買い物をしようと同乗した。
悲劇はその直後に起こった。
外郎と母の乗った車が大型車に衝突され大破。二人はその衝撃で即死。帰らぬ人となった。
有能すぎる後継者と愛する妻を突然同時に失った父餡次の悲嘆と哀傷たるや、とても見るに堪えられるものではなかった。
(私が……、私があんな電話をしなければ……!)
淡雪はたった数十分の復路を横着したことで起こった悲劇に、心臓が押し潰されそうな辛い気持ちになる。「かわいい妹のためなら何でもするよ」という外郎の優しさにつけ込んだ、思春期のほんのちょっとのわがまま。それがこんな取り返しのつかない事態を引き起こすなんて。淡雪は割れそうに痛む頭を抱えた。
淡雪に他人の凍った心が見えるようになったのは、この時からである。父の餡次の心は、誰よりも大きな氷に覆われていた。
「外郎くんと並んで家業を継いで祝い合うのが夢だったんだ……」
外郎と大の仲良しだった隣りの赤瀬和敬も、その心は大きく氷に閉ざされている。次代の店主を心待ちにしていたしらせ堂本舗の菓子職人たちも、健在だった母方の祖父母も、淡雪の目の前の人たちは誰もが重く冷たい凍った心を抱えて苦しんでいる。
そんな氷の塊が見えるたびに、淡雪は精神がおかしくなっていった。
そして悲劇の連鎖は、さらに飛び火し大きな凄惨劇を生む。
(つづく)




