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第9話 等々力渓谷


挿絵(By みてみん)



 等々力渓谷(とどろきけいこく)は東京二十三区内で唯一の自然渓谷である。南の多摩川(たまがわ)に注ぎ込む谷沢川(やざわがわ)が武蔵野台地を侵食して作り出した谷で、ここの湧水の流れ落ちる音が「(とどろ)く」ことから「等々力(とどろき)」の地名が生まれたとも言われている。


 東急大井町(おおいまち)線の等々力駅から徒歩三分ほどの場所にゴルフ(ばし)という名の鉄橋がある。その(たもと)の階段から谷底に降りることができ、渓流に沿って長い遊歩道が整備されている。猛暑の時には渓谷内部は崖上に比べて気温が五度近く低いため、絶好の避暑スポットとなっている。



「いい所だね。こんな自然豊かな場所が、東京の区部にあるなんて……」


「うん。私もすごく好きで、よく散歩してる」



 鬱蒼(うっそう)と茂る木々を見上げて歩く松風(まつかぜ)淡雪(あわゆき)。休日はかなり混み合う遊歩道も、平日は閑散として川のせせらぎも耳に聞こえる。九州生まれの二人には、都会の喧騒を忘れられるこの静寂がどこか懐かしい。


 フェニックスビールの新作CMの撮影が、エルフィにて行なわれた。宣伝部の片倉直哉(かたくらなおや)にエルフィを紹介した赤瀬松風は、その撮影を見届けてから退職日までの有給消化に入った。加嶋悠里子(かしまゆりこ)の狂気的な求愛も、片倉が釘を刺して以来なくなった。退職した後は、松風は九州長崎へと帰る。


 この日の昼、有給休暇中の松風がエルフィにやって来た。



「淡雪。松風と渓谷にでも行ってこい。店はあたしたちに任せてさ。ほら、いいから早く行け」



 氷見子(ひみこ)はシュネーバルと水筒が入ったバスケットを淡雪に持たせ、パートタイマーの奥様方と一緒に淡雪と松風の背中を押して店外へと放り出した。みんなの配慮に苦笑しながら、二人は仕方なく等々力渓谷を歩く。



和敬(かずたか)さんは何て言ってるの」


「兄貴は励ましてくれてるよ。近くで働けるのも嬉しいみたいだし、僕の仕事はいずれ兄貴の仕事とも関わることもあるだろうからって」


「そうだね……。ふふっ」



 そう言うと、二人はつい先ほどの店での出来事を思い出して、自然に笑いが浮かんだ。大企業を辞めて菓子職人を目指すという松風に対して、氷見子はまた数日前のように、



「この店には菓子職人は足りてるんだからな。ここに入り込もうなんて安易に思うなよ。いくら天才のあたしと知り合えたからって、あたしに弟子入りして教えを乞おうなんて考えんなよ」



と凄んだ。厳しいフランス修行を経験した氷見子なりの激励だったのだろう。だが、氷見子は完全に勘違いをしていた。



「えっ、菓子職人って、和菓子の職人かよ! ……って言ったあの時の氷見子さんの顔ったら。ふふふっ」



 淡雪は思い出し笑いが止まらない。氷見子は勝手に松風が自分と同じ洋菓子の道に来ると思い込んでいたようだ。松風が目指しているのは、和菓子の職人なのだ。


 二人は日本庭園までやって来た。有名な渓谷の斜面を生かして造園された格調高い庭園。上部には広い芝生広場もあり、ピクニックを楽しんでいるファミリーやカップルの姿もちらほらと見える。二人は手頃なベンチに並んで座ると、籐籠からシュネーバルを取り出して頬張る。



「淡雪ちゃんのシュネーバル、本当に美味しいな……。人を喜ばせられるこんな素敵なお菓子が、僕にも作れるんだろうか……」



 松風は食べかけのシュネーバルを見つめながら、つぶやく。その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。淡雪はそっと松風の背中に手を当て(さす)る。



「松風くん、泣かないでよ……。お菓子職人、夢だったんでしょ。あの時の"贖罪"だなんて思っちゃダメだよ……絶対。松風くんは悪くない」


「うん、ごめん……。次は僕が、あの時から凍ったままの淡雪ちゃんの心を、解かしてあげる番なんだ」


「えっ……」



 松風の言葉に、背中をさする淡雪の手が止まる。



「もしかして……、松風くんにも……」


「黙っててごめん。僕もあの時から、人の凍った心が見えるんだ。今も氷に閉ざされ続けてる、淡雪ちゃんの心も」


「……」


「僕は淡雪ちゃんの心を救いたい。だから、がんばるよ」



 松風は微笑んで見せた。だが、松風は淡雪の目を見てくれない。人の凍った心を見通せる松風もまた、淡雪の氷の心を見るたびに、氷柱が揺れるあの日の凄惨な映像が脳裏に浮かび頭痛に刺されるのだろう。


 淡雪の両眼からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。それは、松風のやさしさに凍った心が少し解けたからなのか、あの日の思い出してますます悲しみが増大したからなのか、淡雪には分からない。


 二人は多くは語らなかった。しかし、心は通じ合っている。ジャンルは違えど共に菓子の道を歩む同志になったのだ。お互い健闘を心から願っていることは、言葉に表すよりも深く、互いに届いていた。




 数日後。フェニックスビールを退職した赤瀬松風は、東京の住まいを引き払い故郷長崎へと帰っていった。


 店先を箒で履いていた淡雪は、曇り空を見上げる。羽田空港に見送りには行かなかったが、激励と応援の気持ちが視線の先に飛んだ。





(第三部 完 /第四部へつづく)





※現在「等々力渓谷の遊歩道」は、倒木等のために全面通行止めになっており、全面開通はまだ先かと思われます。日本庭園には入れます。このお話はフィクションです。



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