第8話 意識朦朧
片倉の推測を聞き、淡雪は唖然とする。あの実直な松風が性被害に遭っているとギュッと心臓が押しつぶされそうな感覚に襲われたが、耐えながら片倉に訊き直す。
「それは……、どういう……」
「赤瀬に退職の理由を聞いた時、やってはいけないことをやったかもしれない、って落ち込んでて」
「やってはいけないこと……」
「あいつは一人で抱え込む性格だから、詳しく話してくれなくて分からなかったけど、さっきの様子を見てなんとなく合点が行きました。加嶋ならやりかねない。赤瀬はあの女に犯されたんじゃないかと思います」
片倉の口調はとても冗談を言っているようではない。見た目はチャラいが、とても後輩想いのようだ。片倉は「あの女」について語る。
加嶋悠里子は片倉直哉と同期入社。中堅女子大の卒業生だが、高偏差値大学の出身者を食い漁りたいタイプらしく、エリートの集まるフェニックスビールに入社するや、有能社員に片っ端から言い寄っていたという。
特に既婚者や恋人を持つ男性を堕とすのが最上の愉悦らしく、その男性が妻や恋人より自分を選んで勝利を確信すると、途端に興味がなくなり打ち棄てて別の男に移る。加嶋悠里子はそんな魔性の女である。
「加嶋の今の狙いが赤瀬なんだろう。赤瀬は酒が弱いから、無理に強い酒を飲まされたか、もしくは薬か何かで意識を失わせ、またがって事に及ぶ。そして妊娠させられたと後から騒ぐ」
片倉が説明していると、氷見子が割り込んで訊いた。
「なんでそう言い切れるんですか」
「オレも同じことをされたから。ケダモノなんですよ、加嶋」
片倉はかなりの大ごとを平然と言った。数年前に同期飲み会で可愛いカノジョと付き合っていると片倉が自慢すると、加嶋悠里子はカノジョに対抗意識を燃やして擦り寄ってきて、片倉の家に上がり込んできた。しばらく飲んで片倉がトイレに立ち、お湯を沸かそうとすぐキッチンに戻ろうとしたら、悠里子が片倉の飲み物に何か粉のようなものを入れているのが目に入ってしまった。
怪しいと思い、飲んだふりをして意識朦朧を演じて倒れ込んでみたら、悠里子は片倉のボトムスに手をかけまたがってきた。後日「妊娠した。責任を取れ」と言ってきたが、片倉には終始記憶がある。悠里子の主張が嘘だらけ矛盾だらけだと判明し、悠里子は懲りて片倉に近づかなくなった。だが他の男に同じことを繰り返し、やがて赤瀬にたどり着いたのだろう。
「あの女、お腹の子の話とかしてませんでしたか」
「してました……」
「恐らく同じ手口です。でも意識を保ててたオレと違って、赤瀬はまんまとやられたかもしれない。加嶋のほうはオレが確認して対処しますから、淡雪さんには赤瀬のことを任せたい。あいつ、淡雪さんは昔から妹のように大事な存在だと言ってましてね。淡雪さんになら心を開くかもしれない」
「は、はい……」
頭を下げる片倉に、淡雪は何度もうなずいた。松風の中に見えた大きな氷に覆われた心は、転職の悩みだとばかり思っていた。だが事態はもっと深刻なようだ。淡雪は松風を救いたい気持ちに駆られる。
結局、松風が電話を終えて席に戻ってくると、空気を読む気がない氷見子が超ストレートに加嶋悠里子のことを尋ねたので、松風は観念して、今の状態を吐露した。
片倉の言うとおり、悠里子が家にやってきて酒を飲まされ、そこから朝までの記憶がなかった。体調からして射精に至った感覚が朝にはあった。悠里子から矢継ぎ早に責任を追求され、返答に困っているうちに、悠里子は勝手に婚約者気取りになっているのだという。
松風は昔から菓子職人になってみたいという夢があり、退職して夢に挑戦するかどうかを悩んでいる時期だった。好きでもない同僚と関係を持ってしまったことで、会社に迷惑をかけたと勝手に責任を感じ、退職の意思はより強まった。
「それに僕は……。妹のようだったあの淡雪ちゃんがこんなに立派に菓子店を経営しているのを見て、励まされたんです。僕も夢を追おうって」
松風はつぶやくように語る。誰とも目を合わせずうつむいているのは、全員に迷惑をかけてしまったことで心苦しく思っているからだろう。
松風は常に人のことを考え、人のために動いてきた人間だ。自分のことは後回し。そのことは幼い日々を一緒に過ごしてきた淡雪はよく覚えているし、片倉もその利他の人柄で内気すぎるのに営業成績がやたらいいことをよく知っている。そんな松風が、ようやく他人のためでなく「自分のため」に決断をしている。
そこに加嶋悠里子とのことがあり、自分のことはさておき、悠里子とそのお腹の子のことを考えなくてはならなくなり、混乱していた。久しぶりに淡雪に会いにきたのも、何か救いの道を求めていたのかもしれない。
淡雪は自分を恨んだ。「私たちのことを気遣ってのことなら、そういうのやめて!」と松風を突き放してしまった、あの日の自分を。
後日、片倉直哉が加嶋悠里子を問い詰めたところ、悠里子が松風の意識を奪って襲ったという推測は正しかったことが判明した。事には及んだが、妊娠したというのは嘘だった。片倉は松風に性被害の告訴の協力を申し出たが、松風は全てを忘れて夢に向きたいと、首を振った。
その月のうちに、赤瀬松風は退職願を提出した。
(つづく)




