第5話 関係
女性客はカウンター台からつかみ取ったナイフを前に向けようとしたが、すぐに淡雪が進み出てその右手首をグッとつかみ、カウンターに押しつけてその動きを封じる。
「お客さま、お菓子の切り分けは私たちにお任せください」
淡雪は真剣な眼差しでスーツ姿の女性客に語りかける。その言葉に怒りが込み上げたのか、女性客は淡雪の手を力で押し戻そうとしたが、その瞬間に後方から羽交い締めにされ、首筋に鋭い道具を押し付けられる感触が走った。
「そこまでにしときな。首をブスリと行くよ。六花、こっちに来い」
厨房から出てきた白いコックコート姿の氷見子である。女性客の両腋の下から両腕を固めながら女性客の耳元で冷たい声で脅しつけ、カウンター奥に立ち往生している六花に顎で合図する。淡雪に右手を、氷見子に背中を取られている女性客の横を、六花はすごすごと通り抜ける。
「氷見子さん、それ、ゴムへら……」
「言うな」
氷見子は顎で六花を後方へ下がるよう指示する。六花が厨房へ退避し、淡雪がナイフを奪ったことを確認すると、氷見子は女性客をカウンター裏から引きずり出してカフェスペースへと追いやった。
「じゃあ淡雪、警察に連絡」
「待って氷見子さん。ここは私に任せて」
淡雪は氷見子を制した。女性客からは本当に自分たちを刺そうという気概を感じず、脅しのパフォーマンスだと分かっていたからだ。
氷見子が手にしているゴムへらを見て舌打ちし肩で息をしている女性客に、淡雪は臆することなく構えて尋ねる。
「お客さま、私がちゃんとお話を聞きますから。松風くんに何かありましたか。私は彼とは実家がご近所さんの幼馴染ですが」
「これ以上松風に手を出したら、私はあなたを赦さない」
「何のお話ですか。お客さまはどちら様ですか」
冷たく見下ろしてくる女性客に、淡雪は動じることなくその目を見つめる。氷見子と六花はカウンターの脇で淡雪を見守っている。
「私は松風の婚約者よ。お腹には子どももいる。私たちは幾多の艱難辛苦を乗り越えて、ようやく結婚するの。それを邪魔するというのなら、私はあなたに容赦はしないわ」
女性客はますます眉をしかめて淡雪を睨みつける。淡雪は返す。
「……そうでしたか。初耳でした。先ほど申し上げたように、私は彼とはただの幼馴染です。どうして私がお二人を邪魔すると思われているのですか」
「松風の中には、まだあなたへの想いがあるからよ。あなたと写った写真も、いまだに大切そうに家の棚に飾ってある」
女性客の話を聞き、氷見子は淡雪の家で見たフォトフレームの中の三人の写真を思い出す。松風もまたあのような淡雪との写真を、大切に自宅に置いているのだろう。確かに婚約者ともなれば、幼馴染と言えども自分以外の女子との写真を大切にしているのを見るのはいい思いはしないだろう。松風というのは女心が分からない残念イケメンなんだろうな、と氷見子は勝手に推測する。
淡雪も写真のことを知っているのか、冷静に言い放つ。
「三人で写った写真ですよね。私も家に飾ってます。でも、写ったもう一人は私の兄で、松風くんとも親友です。お気になさるほどのことでは」
「あなた、松風と寝たことあるの」
「ですから、私たちはそういう関係ではありません」
「松風、私と愛し合っている時にも、あなたの名前をうわ言で言ってたわ。それが赦せない。だから、どんな女か確かめに来たのよ」
奥で六花は赤裸々な話に頬を染めて、口に両手を当てている。氷見子はなぜか興味津々で目を爛々と輝かせながら、「あの松風、どんなプレイしてんだよ」と面白そうに呟いている。
二人が意外に思ったのが、淡雪が至極落ち着いていることだった。そんな話になると、無垢で初心な淡雪ならすぐに狼狽えるものだが、全くそんな様子がない。それほどまでに松風のことを信頼しているのか、よっぽど松風に異性としての魅力を感じていないのか、どちらかだろうと思う。女性客も全く淡雪が動じていないことに苛立ちを感じ始めている。
「松風は、今の大事な仕事まで辞めようとしてるのよ。あなたにも関係してるってのは分かってる。あなたが焚き付けてるんでしょ」
「私も先日聞いたばかりです。お客さまの思い過ごしかと」
「そんなわけないでしょ。二人の愛の証の新しい命をようやく授かって、これから幸せな結婚をする相手の心の中に、別の女性の存在があるってこと、どれだけ辛いことなのか、あなたに分かるの?」
女性客は凄んだが、淡雪はキッパリと言い放つ。
「分かりません。私はむしろ、そんな言いがかりが平気でできるお客さまに、心底怒りを覚えています」
「はあ? あんた、どんだけ調子に乗る女なのよ!」
淡雪の強い一言に、女性客は憤怒の形相を露わにし、淡雪の黄色いシャツの胸ぐらを強くつかんで引き寄せた。
(つづく)




