第2話 淡雪の異変
松風と呼ばれたその男性は、淡雪の案内でカフェスペースのテーブル席に腰を下ろす。淡雪がブレンドコーヒーとシュネーバルをトレイに載せて供した時に、閉店時間となった。
その男性は淡雪に話があったようで、淡雪が向かいに座る。六花は外の立て看板を店内に入れ、レジ締めを行なう。閉店作業が一通り済むと、厨房の片付けを終えた氷見子と一緒にカウンター裏で潜望鏡と化していた。
「これがシュネーバルか……。美味しいなあ。こんなステキなお店も出して、すごいよ、淡雪ちゃん」
男はサクサクとしたシュネーバルを口にし、感心する。淡雪は何を思っているのか、気まずそうにうつむいている。
「ありがと……。それで松風くん、話って何……」
「あ、うん」
松風はコーヒーを一口ぐいと呷ると、姿勢を正した。一つ咳払いをすると、苦笑しながら目線を横にやる。
「えっと……。なんか話しづらいな……」
松風の目線の先には、いつしかカウンター裏にいた潜望鏡の二人がテーブルの縁まで進出していた。中腰でも目の前だから全く隠れきれていない二人は、松風と目が合って「あっ」と声を出した。
氷見子は潜水艦を諦めて立ち上がり、図太く訊く。
「あーもう。淡雪、誰だよこの人」
「……赤瀬松風くん。実家のお隣りの幼馴染なの。あっち行っててよ……」
淡雪は簡単に紹介をすると、恥ずかしそうに手で二人を払う。氷見子と六花はまたカウンター裏に戻る。
(松風さん……って珍しい名前ですね。苗字かと思ってた)
(あたしも。でもあいつら、赤瀬と白瀬でお隣りさんなのかよ。紅白饅頭みたいだな)
二人はひそひそと言い合いながら、再び潜望鏡となって淡雪を見守る。
松風は思い切った表情で、淡雪に話を切り出した。
「僕、今の仕事を辞めようと思うんだ」
「え……。じゃあ、実家に戻って和敬さんを手伝うの?」
「いや、兄貴は僕がいなくてもしっかりやってるから大丈夫。僕はやっぱり、菓子職人を目指そうと思う。だから……」
「……私たちのため?」
「違う」
「……私たちのことを気遣ってのことなら、そういうのやめて!」
淡雪はいきなり声を荒げた。その直後、強烈な頭痛が襲いとっさにこめかみを手で押さえる。
ピキピキピキッ……。
淡雪の脳裏に、あの日の記憶の映像がまた映し出される。
……薄暗い空間の中。氷柱のようなものが、上から吊り下がってゆらゆらと揺れている。その下の畳には丸椅子が転がる。その光景を見て、淡雪は膝から崩れ落ちて畳の上にへたり込む。
『いやぁぁぁぁっ!』
両手で頭を抱えて泣き叫ぶ淡雪。そこに一人の若い男性が駆けつける。幼馴染の、赤瀬松風である。
『淡雪ちゃん、しっかり!』
ガクガクと身を震わせる淡雪の両肩をつかんだ松風は、正気を取り戻そうと揺さぶる。淡雪は内なる心が、いや全身が冷たい氷に覆われていく感覚に包まれていく……。
「……!」
「どうした淡雪!」「淡雪さん!」
淡雪の異変に気づいた氷見子と六花が、慌ててカウンター裏から飛び出してきた。松風も淡雪の異常を目にして咄嗟に立ち上がる。淡雪は頭を押さえながらも、皆を心配させないように手を振って落ち着かせようとした。
淡雪はこの手の頭痛はいつもならすぐ立ち直るものだが、今回は頭を強く押さえて眉をしかめたまま。明らかにいつもと様子が違う。
氷見子が淡雪の背中をさすりながら、松風を顎で示す。
「おいあんた。今日のところは帰ってくれないか。淡雪のことはあたしたちが何とかするから」
「は、はい……」
「それと、この店には菓子職人は足りてるよ。あんた、その年齢でこれから菓子職人を目指すってのかよ。別に悪くはないが、中途半端な気持ちならやめときな」
「……淡雪ちゃんを、よろしくお願いします」
松風は淡雪を心配しながらも、氷見子の小言に何も言い返すことなく、小さく頭を下げると鞄を持って店を出て行った。
しばらくすると淡雪は落ち着きを取り戻していったが、それ以上詳しいことを聞ける雰囲気ではなかった。
だが、淡雪の凍った心が見える氷見子には気づいていた。淡雪の辛い過去にあの赤瀬松風という男が大きく関わっているということに。
(つづく)




