第1話 潜望鏡
「ひ……、氷見子さん……。誰なんですか、あれ」
「あ、あたしが知るかよ」
「もしかして、淡雪さんの彼氏とか? ほら以前、好きな人がいるって」
潜望鏡のように中腰でカウンターから顔を半分出し、カフェスペースのテーブル席で向かい合う男女を凝視している霜山六花は、胸をドキドキさせながら、横で同じ姿勢を取っているコックコート姿の女性に耳打ちする。
「認めてくれてない人がいるって言ってたあの話か? そんな威厳ある男には見えないけどな。ストーカーかなんかじゃないか?」
柊氷見子も興味津々でカウンター裏の潜望鏡と化している。頭に載るコック帽の高さで、もはや潜水中とも言えないが。
向かい合う男女は、どちらも気まずいのか恥ずかしいのかうつむいている。女性は店主の白瀬淡雪。もう一方は淡雪よりも二つ三つ年上に見える、スーツ姿の爽やかな男性だ。しばらく無言の時間が続いた。
世田谷区の閑静な住宅街・等々力の一画にある、小さなシュネーバル専門店「エルフィ」。
ある冬の日に白瀬淡雪がたった一人でオープンし、数日後に柊氷見子が転がり込み、その翌週には霜山六花が手伝い始めた。その頃は全くお客が来ない至極閑散とした店だったが、四ヶ月も経つと、あの全くお客が来ない閑古鳥の状態が遠い過去に思えるように、洋菓子店エルフィは少しずつ忙しくなっている。
用賀のドイツパンの人気店「ベッカライ・シュトレームング」と、九品仏の老舗洋菓子店「ペルル・ドゥ・イヴェール」。区内の著名な二店にエルフィのシュネーバルが置かれ始めたことは、エルフィにとっては安定収入の確保につながり、精神的に大きな支えとなった。
加えて両店とも「等々力のエルフィのシュネーバル」と店名を伝えるポップを掲げてアピールしてくれているため、「あの店で見て来ました」というお客様もエルフィに増えてきている。
開店当初からちょくちょく顔を出してくれていた近所の主婦も、面白そうだからとパートタイムで仕込みや会計を手伝いに来てくれるようになった。今は専業主婦ではいるけれど、実は子どもが生まれる前は調理師だったとか、実は簿記一級を持っている、といった有能な女性が近場の邸宅には結構いるのだ。
等々力第一高校の二年生だった霜山六花は、三年生に進級している。約束だった三ヶ月の試用期間を終えると正式にアルバイトとして採用された。いまや接客や清掃だけでなく、生地のカッティングや球状の成形などいくつかの工程で、調理の手助けができるようになってきている。六花はもともと家でお菓子作りをしていたらしく、なかなか手際が良かった。しかも仕事をしながら、テストの成績も校内一位をキープしているという。
また、六花の元クラスメイトでドイツに転校していった望月恵玲奈の力も大きい。「餅月エレナ」のペンネームでコンテンツプラットフォームのMemotteに、ドイツで出会った様々な店のシュネーバルのことを記事にしていた。「どの店も美味しいけど、日本で食べたエルフィのシュネーバルが一番美味しかった!」という文言が踊る。
その記事を「独女独子」という名の人物が自記事の中で薦めた。昨年のMemotteの「創筆大賞」で「最低賃金ギリギリOLが貯金して、ドイツ各地の古城ホテルに泊まりまくった話」という作品がエッセイ部門のメディア大賞を受賞し、出版化を果たした作者である。独女独子はドイツ関連の記事を見つけてはピックアップし、ドイツ好きのユーザーには絶好の情報源となっているのだが、その独女独子が「餅月エレナ」のシュネーバルの記事を絶賛。「ドイツで見たあのシュネーバルを味わえる店が等々力にある」と、それを見たドイツ旅行経験者が次々にやって来るようになった。ドイツ贔屓の人たちだから、その愛好度も購買量も半端ない。
こうして、エルフィは次第に活気付いていった。
そんな春のある日、閉店間際のエルフィにやって来たのが、例のスーツ姿の男性だった。
カランカランとドアベルが鳴り、淡雪と六花が挨拶の声を上げる。
「いらっしゃいませ」
言い終わるや、淡雪はその客の姿を見て声を失う。
清潔感のある短髪、スラッと引き締まった身体にフィットしたダークブルーのスーツ。程よく手入れされた黒革のビジネスバッグにブラウンの革靴。優しげなサラリーマン風の若い男性は、ペコリと首で挨拶をする。
「お久しぶり、淡雪ちゃん……」
「松風……くん……」
(つづく)




