第11話 遺言
氷見子の全身が硬直する。日本の洋菓子界の巨匠・成海蓮司が自分の名前を知っていて、しかも永遠に採用の意思はないと強く突き放された。全てを否定されたような絶望感が襲ってきて、またも心が氷で重くなっていく。
だが成海は誤解を与えないようにと、すぐに言葉を続けた。
「氷見子くん。それは、キミのお父さんの遺志だ」
「……え?」
「キミのお父さん、柊さんは農水省の食関連のイベントでたびたびお世話になってね。うちの店にもよく来てくれていた。キミが製菓学校に入校した時、柊さんが言ったんだ。娘は成海さんの店で修行したいと飛び込んでくるかもしれない、その時は絶対に断ってくれと。学ぶなら近場のペルル・ドゥ・イヴェールにしようと安易に考えるような娘なら、将来はないってね」
「親父が……」
「だがキミは早々にフランスに渡り、アンジェのオルテンシアに入っただろう? うちなんかとっくに眼中になかった。お父さんは呆れた娘だと言っていたが、内心は喜んでいたはずだよ。幸せを願う笑顔だったからね」
成海蓮司の言葉に、氷見子の中に複雑な感情が込み上げる。
高校卒業後に勝手に製菓専門学校に入校して、父から勘当を言い渡されてからは、父とは一度も会っていない。再会した時は葬式での亡骸と遺影。とっくに関係は断絶していたと思っていた。だが父はフランスに渡った自分のことを見てくれていた。今更ながらに知る。
思えば氷見子が幼少期にケーキを好きになったのは、父がケーキを買ってきてくれたからだ。ペルル・ドゥ・イヴェールのケーキも何度も食べた。父はわざわざ子のために店に足を運び、ショーケースから選んで、持って帰ってくれていたんだ。見たこともないそんな買い物中の父の姿が、ぼんやり頭に浮かぶ。
成海蓮司は優しく伝える。
「氷見子くん。ドイツ菓子、いいじゃないか。キミはフランス菓子という狭い国からまたひとつ、広い世界へ飛び出したんだ。キミはこれからもっと、我らの菓子の世界を変えてくれるんじゃないかな」
成海の言葉に、氷見子の肩は震えている。
有薗は所在なさげに小さくなっていたが、成海の氷見子への評価の言葉を聞くと、舌打ちして店外へと駆け出て、戻ってくることはなかった。少し頭を下げたように見えたのは、成海蓮司が札幌のホテルへ口利きをしてくれたことへのせめてもの返礼だったのかもしれない。
成海蓮司は有薗を目で追った後、続けて白瀬淡雪に向かう。
「淡雪さん。氷見子くんを引き抜くつもりはないが、僕は氷見子くんと仕事がしたいと思っていたんだ」
「は、はい……」
「だから、うちのペルル・ドゥ・イヴェールでもここのシュネーバル、置かせてもらうわけにはいかないかな。それとも、シュトレームングさんのようにドイツ仲間じゃないとダメかね」
「そ、そんな、とんでもないです。ぜひよろしくお願いします!」
成海とも名刺交換をした淡雪は、笑顔で二人の老経営者に頭を下げた。それは新たな取引をしてくれること以上に、店の大切な従業員を護ってくれたこと、自分の大切な親友の技術を認めてくれたことへの感謝の気持ちのほうが大きかった。
その週のうちに契約は取り交わされた。戸井田慶三のベッカライ・シュトレームングと、成海蓮司のペルル・ドゥ・イヴェール。同じ世田谷区内の有名な二店に、エルフィがシュネーバルを定期的に納品することが決まった。
価格もエルフィでの店頭価格と同じ。淡雪がまた「卸値は原材料費だけでいいです」などと言い始め、同席した氷見子は焦ったが、戸井田も成海も「利益はきちんと取りなさい」と叱責して適正、いやむしろエルフィ側に有利な条件の仕入値となった。またエルフィの人員不足を考慮して、配達できなくても二店のほうから等々力のエルフィにスタッフが受け取りに行くということまで取り計らってくれた。戸井田と成海が、いかに淡雪と氷見子のエルフィを認め期待しているかということがよく分かる。
とはいえ、正式な契約までは試作やすり合わせなどやることが多く、極めて忙しかった。契約が締結となった日の閉店後、いつもは気丈に振る舞っている氷見子もどっと疲れたようで、カフェスペースのチェアに腰を下ろすと、足を投げ出して背を預け、大きな息を吐いた。
契約中に接客や清掃をがんばってくれた霜山六花が、寄り添うように同じテーブル席につく。淡雪は三人分の熱々のホットコーヒーを入れて、売れ残りのシュネーバルを添えてトレイで運んできた。
まるで何かの打ち上げの乾杯のように、三人はカップを持ち上げて見せ合い、湯気を吹いてコーヒーを堪能する。温かさが疲れた身体に染み渡る。
「よかったね、氷見子さん。お父様にもご報告しないと、だね」
淡雪はにこやかに言う。氷見子は頭をかきながら宙を見る。
「知らねーんだよ、親父の墓の場所」
「お母様やお兄様たちは、教えてくださらないの?」
「あたしが聞いてこないから、気を遣ってんだろうな……。ま、聞いてみるよ。やっぱり礼ぐらいは、な」
氷見子は厳格だった父親の顔を思い浮かべて、無作法に投げ出した足を戻し、少し姿勢を正してみる。思い出される父の顔が、なぜか笑っている。
淡雪はさらに微笑んだ。
「その時は、私たちもお花持って行くから」
「なんでおまえたちと一緒に墓参りなんだよ。礼ぐらい一人で言いたいだろ。来んなよ」
「なんでー。私たちだってお父様にお礼言いたいよー。それに、私たちの仲間はこんなにも凄い女性なんですよって、たくさん自慢したいんだもん」
「……バカか」
キラキラと目を輝かせている淡雪と六花を見て、氷見子は鼻を鳴らしてあしらい、シュネーバルを頬張る。
重いことを言ってくる奴らだな……。そう思った氷見子だが、心が軽くなっていくことにもとっくに気づいていた。
父から勘当を言い渡された時も、父が亡くなったことを聞かされた時も、父の遺体を式場で見た時も、別に何の感情もなく、泣くこともなかった。
氷見子は淡雪に訊きたかったが、グッとその質問をこらえる。
凍っている心というものが解けていくと、その解けた水は、こんなにも温かく両眼からあふれ出るものなのかと。
(第二部 完 /第三部へつづく)




