第10話 第一人者
「シュネーバルはドイツ語で雪の玉……。そうだね?」
ネルシャツ姿の老齢の男性は不意に尋ねる。その視線が自分に向いていることに気づいて、淡雪は慌ててうなずく。
「え、ええ。そうです」
「フランスにも、ブールドネージュという菓子があるな。同じく、フランス語で雪の玉という意味だ。イギリスやアメリカにもスノーボールというクッキーがある。どれが優れてどれが劣っているか、なんてことはない。それぞれの文化で生まれそれぞれの人が楽しんでいるものだ。フランス菓子にもドイツやオーストリアの菓子文化や技術は多く流入している。フランス菓子が頂点などと言っているのは、フランス菓子しか見ていない一部のフランス菓子職人だけだ。キミは、パレドロイの有薗くんだね?」
白髪のネルシャツ男性は有薗の顔を見ながら、ゆらりと立ち上がる。有薗はさらに緊張の面持ちを強め、直立不動の姿勢になっていく。
「は、はい……」
「杉山くんから聞いていたよ。札幌パラディアホテルの須藤くんに話を通して紹介したのも僕だ」
「え……」
有薗の背中がどんどん小さくなって見える。淡雪は状況が飲み込めずに、手に肩を置いたままの氷見子の顔をちらりと見ると、氷見子はこっそりと淡雪に耳打ちする。
「あの人、九品仏のペルル・ドゥ・イヴェールの成海シェフだ。日本のフランス菓子の第一人者だよ。いつものメガネじゃないから気づかなかった。杉山さんってのはパレドロイのパティシエのトップ」
目の前の人物は、日本に多くのフランス伝統菓子を根付かせた伝説のパティシエ、成海蓮司であった。
成海が40年以上前に東急大井町線九品仏駅が最寄の世田谷区奥沢に開店したペルル・ドゥ・イヴェールは高級フランス菓子店の先駆けで、多くの有名なパティシエがこの店で修行して巣立っている。有薗や氷見子の元上司であるパレドロイ東京のフレンチ部門パティシエの杉山好之も、有薗がこれから務める札幌パラディアホテルのパティシエで有薗の面接官だった須藤貴治も、九品仏の店で修行経験のあるいわば成海の弟子たちである。
成海蓮司はカヌレやタルトタタンなど、フランスの地方菓子を数多く日本に根付かせた巨星で、フランス菓子に関する著作も多数。今なお第一線で走り続けている。氷見子も当然よく知ってはいたが、普段は黒縁の丸メガネとコックコートでメディア露出をしているため、メガネをしていないネルシャツ姿の好々爺を成海だと認識するのに時間を要した。
「ぐ……ぐぅっ……!」
立ち尽くす有薗は、歯軋りをして両手の拳を振るわせている。
有薗慎一郎はかつて、リヨンの名店イザーク・オッセンで半年間修行したと偽って杉山好之の面接に臨み、パレドロイ東京に入社。その後は部内の信頼を集めて昇進していった。確かに半年ほどリオンに住み着き修業を嘆願しに日参したが、結局受け入れられることはなかった。経歴の詐称である。
その後、柊氷見子が面接に来た時、杉山好之と共に面接官を勤めた有薗は、愕然とする。イザーク・オッセンが初の日本人スタッフを迎え入れたという噂は知っていた。その本人が来ている。このままでは自分の経歴の嘘がバレてしまう。その焦りと怒りが氷見子に向けられたのである。淡雪が見た有薗の凍った心の正体は、その詐称の露呈への恐れだったようだ。
だが、杉山好之は面接の時から有薗のイザーク・オッセンの経歴が虚言であることは知っていた。それでも熱意を見込んで入社させていたのである。有薗が問題を起こし懲戒処分となったことを師匠の成海蓮司に伝えると、成海は遠く札幌で活躍する須藤貴治に連絡を入れてくれていた。そのことを知り、有薗は複雑な気持ちで唇を噛み締める。
「ところで、柊氷見子くん」
「……!」
「キミがここで働いているのは知ってたよ。戸井田さんをここに誘ったのも、キミの腕を見てみたかったからだ」
成海は氷見子へ声を投げた。氷見子は驚く。
「えっ、成海シェフ。あたしを知ってるんですか。それに、どうしてここにいるって……」
「お店のサイトでがっつり紹介されてるじゃないか」
「あ……」
成海の返答で、氷見子は瞬時に思い出した。そういえば数日前、バイトの霜山六花がお店からの発信を強化すると言って、コンテンツサイトMemotteに次々に投稿をし、その中の一つで氷見子のインタビュー記事をアップしていた。名前も顔もしっかりとネット上に出ている。
有薗もそれを見つけてこの店に来たのだろう。氷見子はパレドロイの元同僚たちが有薗に店を教えたと疑ったことに心から謝罪する。
「あ……、あたしをスカウトしようたって、無駄ですからね。あたしはしばらく、この鈍臭い白瀬淡雪を支えてやろうって決めてますから」
氷見子は淡雪の両肩に両手を乗せて、恥ずかしがりながらもいつもの虚勢を張った。成海はにこやかにうなずきながら、いつもの黒縁の丸メガネを掛けて中指で押し上げると、迷いなく伝える。
「大丈夫だ、氷見子くん。キミをペルル・ドゥ・イヴェールに迎え入れることは、今後絶対にない」
「……!」
(つづく)




