第9話 食の頂点
氷見子が必死に制止してくる淡雪をも押しのけようとした時。
後方でガタリと音が鳴った。先ほどからテーブル席でシュネーバルを楽しく堪能していた二人の老齢の男性のうち、かつてドイツにいたというポロシャツ姿の男性が、チェアから立ち上がっている。
「あのー。私も、ドイツ菓子を侮辱されるのはちょっと嫌ですね。あなた、それ食べてましたよね。美味しかったでしょう」
「……黙ってろ、ジジイ。ほんとに美味けりゃもっと売れてる」
有薗はギロリと老人を一瞥して顎で払うと、再び淡雪に威圧的な目を向ける。老人は苦笑して、首をすくめる。
「やれやれ、これから売れる味が分からないとは。……そちらのお嬢様お二人、お取り込み中のところ申し訳ないが、ちょっと」
ポロシャツ姿の男性は、ちょいちょいと四本の指で手招きをして見せた。淡雪は有薗にぺこりと首で挨拶をし、氷見子は鼻を鳴らしながら有薗にわざと肩をぶつけ、その老齢の男性の前に移る。有薗は大きく舌打ちした。
ポロシャツの男性は淡雪と氷見子に名刺を差し出す。
<ベッカライ・シュトレームング 代表取締役 戸井田慶三>
と書かれてある。
「え、シュトレームング……、あの用賀の?」
驚いた声を上げたのは、地元出身の氷見子だった。ベッカライというのはベーカリーのドイツ語。つまりドイツパンの店である。ベッカライ・シュトレームングは等々力の北西、世田谷区用賀にある人気のパン屋さんで、氷見子も昔から何度か足を運んだことがある。
戸井田慶三と名乗った老人は、にこやかに話す。
「おお、うちをご存知でしたか。そうです、用賀でドイツパンの店をやってます。うちは毎年クリスマスシーズンになると、期間限定でシュトーレンを出してましてね。数年前までは何度かシュネーバルも出してたんですよ。でも、なかなか理想の味にならず、シュトーレンほど売れなくてね。ここのところ作ってなかったんです。しかし、ここのシュネーバルは悔しいが、うちでできなかった理想的な味だ。いいですねえ」
「あ、ありがとうございます……!」
淡雪の顔にパッと笑みが咲き戻る。嬉しくて氷見子を見ると、この店に認められることの凄さを表すかのように、目を見開いてうなずいている。
戸井田は続けた。
「淡雪さん……でしたね。実は一度店に戻って検討しようと思ってたんですが、この味ではその必要もないでしょう。うちのシュトレームングに卸してもらう、というのはできませんかな」
「それって……」
氷見子が淡雪の肩越しに身を乗り出して訊く。
「ええ。シュトレームングにこのエルフィのシュネーバルを置かせてもらえないか、というご提案です。もちろん、当店を見に来られて、お二人が納得されてからでも構いません」
「よ……、よろしいんですか。ぜひ、詳しいお話を聞かせてください」
淡雪は満面の笑みで自分の名刺を渡し、ペコペコとお礼の首を振る。氷見子も気づけば自分にここ数日で一番の笑顔が浮かんでいた。淡雪の肩をポンポンと叩きながら、淡雪を讃える。
しばらく呆然と見ていた有薗が、クックッと下卑た笑いを漏らし始める。
「洋菓子店の世界はフランスが最高峰だが、パン屋の世界もまたフランスが頂点。ドイツ菓子とドイツパン……。亜流同士のコラボというわけか。笑えるな」
名門ホテルのフレンチ部門を歩んできた有薗は、極度のフランス至上主義であった。一般的に世界三大料理といえば東洋の中華料理、中東のトルコ料理、そして西洋のフランス料理。有薗にとって、ヨーロッパの食の文化の頂点はフランスにあり、それ以外の欧州諸国の食文化はその追随に過ぎないと考えている。デザートはもちろん、パン部門も然り。
氷見子は歯噛みした。まさに淡雪と出会うまでの自分も似たような考え方だったからだ。有薗の偏見はかつての自分と同じだ。有薗に対してよりも、そんな自分に対して情けない気持ちになる。
戸井田も淡雪もそんなことは言われ慣れてきたのか、苦笑している。
パンパンと手についた粉くずをはたく音が、戸井田の後ろで鳴った。
「パティスリーとブーランジェリーの世界は、フランスが最高峰……。僕はそんな話は、聞いたことがないけどねえ」
先ほどから戸井田と一緒にシュネーバルを堪能していた、ストラスブールにいたというネルシャツの銀髪の男性だった。
その男性にも反発の言葉をぶつけようとした有薗は、その男性がこちらを向くと顔色がみるみるうちに変わっていく。
「あんた……、いや、あなたは……」
有薗の焦燥の様子を見て、戸井田は目を細める。淡雪は不思議に思って氷見子の顔を見ると、氷見子もまた唖然としていた。
「嘘だろ……」
そのネルシャツの男性はゆっくりとチェアから立ち上がった。
(つづく)




