第8話 挑発
淡雪が身を挺して、氷見子の憤怒を止める。
「いいの氷見子さんっ。ああして割って食べるのも、食べ方の一つなの」
シュネーバルは野球のボールぐらいの大きさがあるから、かじろうとすると大口を開けることになる。だから小さく砕いて破片をつまんで食べるという食べ方もある。一時期、韓国で瞬間的にシュネーバルが流行したことがあるが、それも店頭でハンマーで砕くという楽しみがウケたからだ。
氷見子も何となく分かってはいたが、あの有薗ならば嫌がらせに違いない。おまえのプライドをこうやって砕きに来た、という皮肉を見せたのだろう。淡雪が飛び込んで来なければ、もう一度顔面に拳をお見舞いするところだった。
有薗は破片と化したシュネーバルをいくつも口に運んで味と食感を確かめる。アイスコーヒーをすすると、鼻で笑った。
「柊……。オルテンシアやラ・グラスでのご自慢の修行に、パレドロイの経歴を加えて、行き着いたのが場末のドイツ菓子屋のこんな揚げ菓子か? ふっ、哀れだな」
「何だとっ……」
「逃げたな、柊。繊細さで売ってきたおまえが、今度はこんな粗暴で粗野なドイツ菓子を作ってるとはな。笑えるぜ」
「この野郎……」
「俺は北海道の名門ホテルからお声がかかってるんだ。フレンチパティシエとしての誇りは失ってない俺と、低俗なドイツ菓子に逃げたおまえ。どちらが勝ってると思う」
有薗はヌッと立ち上がると、口元をにやけさせながら氷見子の顔に近づいて睨みつける。顎をあげ見下ろしていた氷見子の目が怒りにひくつく。
淡雪は氷見子を後ろに押しやって割って入る。
「待ってください。氷見子さんは逃げたんじゃない。私がどうしてもうちで働いてほしいって、お願いしたんです。大切な仲間なんです。侮辱するのはやめてください」
氷見子の身を守るように手を広げながら、真剣な表情で嘆願する淡雪。有薗は鼻で嗤う。
「そうか、姉ちゃん。あんたの店か。柊、おまえはこんな女子のおままごとのような店にお似合いの凡人だ。一生ドイツ菓子と戯れてろ」
「私とお店はいくら侮辱しても構いません。でも、氷見子さんのことは侮辱しないでください」
淡雪はキッと有薗を睨んで一歩前に進み出る。
有薗が負けじと眉をしかめてメンチを切ったのを見た途端、淡雪にいきなり冷たく鋭い頭痛が襲った。淡雪は咄嗟にこめかみを押さえる。
ピキピキピキッ……。
淡雪の脳裏に、あの日の記憶の映像が蘇ってくる。
……薄暗い空間の中。氷柱のようなものが、上から吊り下がってゆらゆらと揺れている。その下の畳には丸椅子が転がる。その光景を見て、淡雪は膝から崩れ落ちて畳の上にへたり込む。自分の心が、いや全身が途端に冷たい氷に覆われていく感覚に包まれていく……。
「……!」
「淡雪、大丈夫かっ! 有薗、てめえっ」
「大丈夫っ! 大丈夫だから、氷見子さん」
淡雪を護ろうとして有薗に殴りかかろうとした氷見子を、淡雪は頭痛を堪えながら背中全体でブロックする。
もう一度有薗の瞳を見つめ、淡雪は小声なれど強く伝える。
「……お客様も、随分凍った心をお抱えのようですね」
「なんだ姉ちゃん。わけの分からないことを……」
「当店の菓子職人に代わって、店主の私がお客様のお悩みをお聞きしますが」
片手を伸ばして氷見子を制しながら、淡雪は強い視線で伝える。
有薗は鼻であしらう。
「悩み? だったらこの顔面の痛みよ。あんたの店の柊が、こんなになるまで暴力を振るいやがってよ」
「あ? 何なら首を折って痛みすら無くしたほうがよかったか? 淡雪、あたしがこの店に来る前の話だ、気にすんな」
淡雪に止められながら、氷見子は有薗に猛る。有薗の挑発は止まらない。
「ふっ。繊細だけが誇りのフランス帰りが、鄙俗なドイツ菓子相手にお山の大将気取りか? 暴力女には相応よな」
「有薗……。いい加減にしろよ」
氷見子は逆上の表情で進み出ようする。淡雪は全力で止めた。一触触発の空気が店に張り詰めた。
(つづく)




