第5話 パレドロイ東京
幼稚園や小学生ぐらいの子には、将来の夢に「ケーキ屋さん」と書く女の子は多い。小学生時代の柊氷見子もケーキは好きだったから、他の女子たちのように何気なく「ケーキ屋さん」と書いた。
だが、そのプリントを見た父親は機嫌が悪くなった。
「氷見子。ケーキ屋は国民を守れる仕事じゃないじゃないか」
父は厳格な官僚でエリート至上主義。二人の兄も成績優秀で、将来の夢は国家公務員。氷見子は家族は嫌いではないが、ケーキ屋が見下される理由に納得がいかなかった。当てつけなのか、自宅でケーキを作るようになった。その面白さにのめり込んでいき、本気で「ケーキ屋は国民を守れるんじゃないだろうか」とも思えるようになった。
二人の優秀な兄は地元の進学校の等々力第一高校に進学、さらに難関国立大学にも当たり前のように合格して、父の願う道を追った。氷見子も家族がうるさいから勉強し、等々力第一高校に補欠合格。留年の危機もあったが何とか卒業すると、家族への義理は果たしたとばかりに、製菓専門学校に勝手に入校。二人の兄は理解し応援してくれたが、父親は大激怒。勘当された。
だが、氷見子は中高ではあれだけ成績に苦労したのに、専門学校では実技も座学も抜群の成績を収め、明らかに飛び抜けていた。
フランスに飛ぶや、その技術を認められ、アンジェの名店パティスリー・オルテンシアに入店。白人至上主義で有名な同店ではアジア人の見習いは初めてである。その後もリヨンのイザーク・オッセン、パリのラ・グラス・シャンゼリゼと一流パティスリーや老舗ホテルを渡り歩いた。いずれも日本人のスタッフ入りが認められたのは開業以来始めてのことだった。
帰国してからは引く手数多で、フレンチに定評がある老舗高級ホテル、パレドロイ東京を就職先に選び、デザート部門のコミとなった。
だが、副部門長の有薗と非常に折り合いが悪かった。
「おまえの菓子は確かに繊細だが、繊細しかねーんだよ。オルテンシアで修行したからって、アーティスト気取りか? 誰が喜んで食うんだよ、こんなの」
氷見子の菓子は誰が見てもコミの中で比倫を絶する出来だったが、有薗は味をチェックするや、フォークを氷見子のケーキに突き刺す。毎日のように理不尽な嫌味を放ち、不条理な皮肉を浴びせる。氷見子は耐えた。
「有薗副部長は若い頃、オルテンシアにもラ・グラスにも入れてもらえなかったらしいんだ。だから柊さんを目の敵にしてるんだよ。気にしないほうがいいよ」
コミの仲間たちも氷見子を励ましてくれた。部門長に相談をしたこともあるが、有薗の嫌がらせは結局止まらなかった。
何も結果を出せないうちに、父が病死した。結局、父に認めてもらうことはできなかった。
そんなある日、いつもの部門内の試作会の場。有薗は氷見子の作ったオペラケーキを一口食すと、わざとらしく大きなため息をついた。
「おい柊。おまえは何度言ったら分かるの? フランス菓子の世界は繊細さだけじゃなくて大胆さや豪放さも必要だって、普通これだけ言ったら犬でも分かるだろうがよ。よくこんなケーキを出してきて、おフランス帰りですという顔ができるな」
有薗は嫌味を口にしながら、氷見子のオペラをフォークの背で押し潰していく。氷見子の作品が無惨に壊される。氷見子は唇を噛む。
「そうだ、柊。おまえの親父さん、亡くなったんだってな」
「……」
「親父さんも墓の下で嘆いているだろうな。こんな使えねえ女が娘なんてよ」
有薗は鼻で笑って、人差し指の先でコックコートの上から氷見子の胸の膨らみをギュッと押し込んだ。
今までの鬱憤も重なって、氷見子は反射的に有薗の左頬を右手で強烈に張った。厨房に高い音が鳴り響き、同僚たちは驚愕する。
「てめえ、上司に何しやがる!」
有薗も逆上して、氷見子の左頬を強く張る。氷見子は有薗を睨み返すや、その鼻の上に右手の拳を叩き込んだ。
「て、てめえ、グーで殴るのは無し…‥っ!」
突然の顔面の痛みに慌てている有薗の鼻っ柱に、氷見子の二発目の拳がめり込む。有薗が鼻血を撒き散らしながら床に倒れ込むと、氷見子はその身体の上にまたがって、三発、四発と有薗の鼻っ柱に拳を叩き込んだ。それは一方的な格闘技の試合のようで、有薗の顔面は血に染まっていく。
呆気に取られて対応の遅れた同僚たちがようやく止めに入ったが、血まみれの有薗副部長は完全に気を失って痙攣していた。氷見子は最後に有薗の腹部に蹴りを入れて、まるで屍体のように横たわる有薗を冷たく見下ろした。
有薗は鼻骨や頬骨の骨折、前歯をはじめ四本の歯が欠損し、全治四ヶ月の重症と診断。同僚たちは有薗のパワハラやセクハラを目にしていたので氷見子を庇ったが、ホテルは穏便に済まそうと喧嘩両成敗と裁定して有薗も氷見子も懲戒処分とした。事件の隠蔽である。ホテルは氷見子を守ってくれなかった。この噂は業界に広まって、どこのホテルも受け入れてもらえないかもしれない。氷見子の心はみるみるうちに氷に包まれていった。
心を壊しかけていた氷見子を見兼ねて、母は氷見子に実家に戻ることを勧めた。母もまた厳格な父に逆らえずに氷見子を勘当から守れなかったことを泣いて謝った。氷見子は自宅で療養することとなった。
「確かに、ケーキは国民どころか、あたし一人すら守れないな。あたし、何をやってんだろ……」
世田谷区中町の自宅で、心の重さを感じながらぼんやりとしていた氷見子。これからどうしていいのか分からず、ふらりと外を歩いてみる。人々の心が凍っているのが目に見えるようになった。最初は気持ちが悪かったが、人間不信で人への興味もなくなり、二日もすればどうでもよくなってきた。
気分転換に等々力渓谷のほうまで歩いていく。その時にたまたま見つけたのが、シュネーバルの専門店エルフィである。
(つづく)




