第2話 氷見子現る
柊氷見子がシュネーバル専門店「エルフィ」を見つけたのは、エルフィが開店してまだ三日目のことだった。
高校生の頃まではよく通っていたこの坂道を、久しぶりに昼頃に歩いてみた氷見子は、見慣れない菓子店を見つけてふらりと立ち寄る。
日本では見慣れない球体状の菓子がカウンターやショーケースに並ぶ。氷見子にはシュネーバルは見覚えがあるものだが、日本で目にしたのは初めてだ。
併設するカフェスペースにもお客の姿はなく、レジカウンターの向こう側に若い女性が立つのみだ。白瀬淡雪である。氷見子は彼女の若さに眩しさを感じる。
「……」
「いらっしゃいませ。店内をご利用ですか?」
「あ、ああ。ホットコーヒーをブラックで一つ。それと……これは」
「シュネーバルというドイツ南部の郷土菓子です。紐状のクッキー生地を丸めて揚げたもので。サクサクとした食感ですよ」
「へー。珍しいね。じゃあプレーンと、こっちのチョコレートのかかったのを一つずつ」
「ありがとうございます。ご用意ができましたらお持ちしますので、お好きな席でお待ちください」
淡雪はウキウキしながら、トレイを用意し始めた。オープンしたばかりで今日はこれが初めての来客なのかもしれない。
あの様子だと、彼女は雇われ店員ではなく、店主なのだろう。こんな場所でこんなマイナーな洋菓子の専門店を開くなんて、さぞかしこれから大変だろうな、かわいそうに。氷見子は心の中で他人事の心配を呟きながら、カウンター席に座った。
しばらくすると、二つのシュネーバルと温かいコーヒーが載ったトレイが運ばれてくる。
「こちらが、プレーンのシュネーバルと、チョコレートでコーティングしたシュバルツ・シュネーバル……」
「あんた、この店のオーナー?」
「あ、はい」
説明の途中でいきなり質問を投げられた淡雪は、驚いて反射的に答えた。
「若いね。あんた、いくつ?」
氷見子はチョコがけのシュネーバルを包み紙ごと手にとって右に左にと眺めながら、ぶっきらぼうに淡雪に聞く。
「二十四です」
「なんでこの店やってんの?」
「ドイツでこのシュネーバルに出会って、日本でも好きな人が増えたらいいなと思って、現地で学んできて、一昨日にオープンしました」
「なんでこの等々力に?」
「坂がある街が好きなので。なんとなく」
矢継ぎ早の質問に答えながら、淡雪は照れて頬を指で掻く。
確かに、等々力は坂の街だ。武蔵野台地の国分寺崖線の南端部にあたり、多摩川に流れ込む谷沢川が、東京二十三区内では唯一の自然渓谷とされる等々力渓谷を作り出している。高低差にあふれた坂の多い地形で、このエルフィという店もなだらかな斜面の路地に建っている。
氷見子はシュネーバルにかぶりつく。味にはさほど期待していなかったが、予想外の味に目を見開いてしまう。
氷見子の本職はパティシエール。菓子のスペシャリストである。一口食べればその材料や配分、製法ぐらいは言い当てられる。このシュネーバルも一通り分かる。さほど複雑でもない。だが氷見子は不思議に思う。その単純な材料と製法で、どうしてこの味になるのかと。自分が作っても、この味になるのかどうか。
氷見子が食べ進めている様子を眺めていた淡雪が、いきなり自分のこめかみを片手で押さえた。頭痛が襲ってきたようだ。
「……おい、大丈夫か」
異変に気づいた氷見子が声をかけたが、淡雪はぐりぐりとこめかみを押さえて回すと、一呼吸置いて安心の声を出した。
「はい。大丈夫です、すみません。人の心が見えちゃうと、嫌な映像が頭に浮かんできちゃう体質で」
「人の心が見える?」
「ええ……。私、目の前の方の心が凍っていると、その氷に覆われた心が見えちゃうんです」
「へえ、奇遇だな。あたしもなんだ」
氷見子は淡雪の瞳を見つめ返して言った。淡雪はごくりと固唾を呑んだ。
(つづく)




