第八章 条件
武道会は終了した。
大剣戦はもちろんのこと、中剣戦も体術も、一平は優勝してしまった。槍の方はかねてからの精通者がいたし、レイピアも残念ながらまだ得意と言えるまでにはなっていなかった。だが槍は上位五人の中に入ったし、レイピアも一平より上の者を数えた方が早かった。
パールが狂喜してはしゃいだのは言うまでもない。約束通りニーナをお伴にして観覧席の最上段に陣取ったパールは、伸び上がったり目を細めたりして必死で一平の勇姿をその目に収めようと頑張った。隣に座るニーナははらはらしっぱなしだ。
影が主と共に外出する場合、影のニーナは尼のベールのような被り物で頭を覆う。珊瑚色をした髪の毛が人目につかないように。一人でいる場合、それはさしたる問題にはならないが『影』の影たる条件のひとつは本体の主と同じ色の目と髪をしていることなので、一緒にいたらすぐに影だとばれてしまうからだ。そのため、侍女のお仕着せのひとつに外出用のベールというものが設定されているほどだ。因みに侍従の場合はターバンのように頭に巻く。もちろん護衛用のレイピアも服の中に忍ばせている。
周囲と競技の場、そしてパールとに目を配り、気を張り詰めてニーナは職務を遂行していた。
パールが一生懸命になるのとはまた違った意味で、ニーナは戦う選手たちをくまなく観察していた。もちろん、一番の注意どころは一平である。三の庭で稽古をしているのは時折目にするが、実際の対戦をその目で見たことはない。噂だけはたくさん入ってくるが、ニーナは自分の目で確かめないと納得できない質だった。一平の実力を見極めるのにはまたとない好機だったのである。
ニーナは武術も体術も一通りの基本は教わっている。その中から体格や力に見合った最適な武具として選ばれたのがレイピアであった。女性であるので無難だろう。だが、他の剣を扱えないわけではない。さすがに大剣は持ち上げるのが精一杯だが、中剣なら何とか使えた。手刀剣も持ち運ぶのがコンパクトな上に咄嗟の時に役立つので防具のひとつとして身に付けている。
その他にも『影』独自の武器で『隠し針』というものがある。腕巻きに隠したりヘアピンに偽装したりして所持する。ニーナはこれの扱いにも長けていた。
体術はどうしても不利だが、身体は柔らかく、素早く泳ぐことなら大抵の場合は負けない自信がある。
そのニーナの目から見ても一平は確かに優秀だった。
強いだけではない。動作に無駄がなく、流れるようで見ていて気持ちがよい。武道に関しては申し分のない立派な男だと言えた。
だがニーナはそれを認めたくない。話に聞くだけだった間は意識してそのことに触れないようにすることもできたが、こうして目にしてしまうと認めざるを得なかった。パールの人を見る目に感心する一方で、どうしてよりにもよってこんなに非の打ちどころのない男を、と嘆きたくなる。排除するのが難しいではないか。
武力だけを取り上げて言うならば、今のトリトニア、そしてパールの年齢に見合う男たちの中で、一平より頼りになる者はいまい。武道会を観戦し、ニーナは痛感した。
ニーナにとって、パールの配偶者として相応しい条件は、一に武力に秀でていること、二に包容力のあること、三にパールひとりを愛し大切にすること、というものであった。
か弱い女性であり王女でもあるパールには多くの危険が伴う。それを未然に防げるだけの力がまず必要だ。次に、ある意味わがままでありこの上なく幼いパールではあるが、それを欠点と思わず丸ごと包み込み慈しむことのできる人でなければならない。そしてパールをただひとりの女性として一途に愛し、よもや他の女に走って裏切る恐れのないことが必須であった。
この条件に一平を当て嵌めるとどうなるか?
一の武力は申し分ない。
二の包容力もあり余るほどだ。
三も多分、条件を満たしている。今のところは。
全てクリアしてしまうのだ。悔しいことに。
パールの身を守るためと三つ目の条件に合っているかを試す意味もあって罠を仕掛けてみたが、失敗した。
一平を退けるためにはもっと細かく厳しい条件付けをするくらいしか残されていない。一平の不利なことで。
この条件を誰に公言しているわけでもなく、自分がパールを愛していることをひた隠しにしているのにもかかわらず、一度こうと決めたことを自分の都合で挿げ替えることはニーナにはできない。
著しく主義に反した。
もう半ば諦めの境地でもあるのだ。
かくなる上はもっと素晴らしい男を見つけるか、肚を括って一平にパールを託し、なおかつ見張り続けるしかない。
だが一平以上の男を見つけることにはニーナには甚だ自信がない。
これでも三年以上諸国を旅して数え切れないくらいの人間を見てきた。その中でも、悔しいことに一平はピカ一なのである。
パールに向ける愛情もさることながら、人並みならぬ勇気と実力がある者自体がそうはいない。そしてニーナが何よりお手上げだと思うことには、一平は心が広すぎるのである。
不快や怒りを露わにすることがないとは言わない。失態や間違ったことをしでかしもする。
だがそこで彼はこちらが呆気にとられるほど素になれる。心を裸にして非を認め、詫びて、そして出直すことができる。自分が全面的に悪いわけではなく、他人に嵌められた結果の間違いであっても。
そういうことのできる人間は滅多にない。少なくともニーナはそう思う。一平は身体が大きいだけではない。心もそれ以上に広く大きいのだ。オスカー王が見定めた通りに、大人物の器なのだ。
パールは王女だ。それはどこへ行っても変えることができない。
王女の伴侶となるのは勇気が要る。王女を娶ることで、予想以上に大きな期待を掛けられ、枷を嵌められる。そのため臆する男がほとんどだと言ってもよい。長続きさせるためにはそれに耐えられるだけの器量が必要になる。
そしてその器量さえも、一平は持ち合わせているようにニーナには見えた。
愛しいと思い大切にするだけでは王女の夫は務まらない。
かと言って、パールを連れて駆け落ちをするような男でも困る。
王女であることはパールの一生にどうしてもまつわってくる不可欠なものなのだ。無理をして王宮を出てもどこかで歪みが生じる。
一平がそれを心得ているかどうかはわからないが、彼は既に選んでいた。それとは正反対の道を。
文句のつけどころがない。
それがニーナの悩みの種だった。
全くパールも厄介な男を好きになってくれたものである。
(厄介⁉︎いえ、違うわね。パールは幸せになれるわ。一平さまが相手ならば…)
パールが幸せであること、それがニーナの一番の望みであった。
だが、それでもニーナはいやなのだ。多分、もっと素晴らしい男が現れたとしても、ニーナは心から喜べないのに違いない。そのことにもニーナは気がついていた。
もうこうなったら、より一層一平のことを鍛え、自身を磨いてもらうしかない。そのためには何でもしようし、必要とあらば自分を踏み台にしてもらっても構わなかった。
あの男の希望が叶ってパールと夫婦になった暁には、有頂天になって隙を作ることもあろう。だがそのような油断は自分が許さない。万が一にも図に乗って、パールを軽々しく扱ったりすることのないように、いつまでも目を光らせていなければ。
パールがあの男のものになるのを見たくはないが、ニーナは密かに見守る心づもりでいた。もしも夫婦の床で手酷いことやいかがわしいことが行われるようなものなら、すぐに飛び出せるように見張る覚悟でいる。
そのため気配を消す練習にも余念のないニーナであった。
―ほおぉっ―
頬杖をついてパールがため息を吐いている。
とろんとした目は目の前のものを見てはいない。
完璧に恋する乙女が空想に浸っている図である。
パールは一平の勇姿を思い起こしていたのだ。
約束ゆえ、遠目で見ざるを得なかったが、パールには一平の厳しい真剣な表情も、敏捷で力強い動きも、荒く切羽詰まったような息遣いも、はっきりと五感で感じ取れていた。
はらはらもしたが、どちらかと言えばドキドキのしどうしだった。
一平が誰かに遅れをとるとはよもや想像できなかったが、槍戦やレイピア戦では残念な場面も目にした。しかしそれよりも、誇らしい気持ちの方が強い。三部門制覇。その上、そのうちのひとつは最も難物と言われる大剣戦なのだから。
やっぱり一平ちゃんは凄い。
これならきっと絶対に青の剣の守人になれる。
守人になれたら、一平は自分と結婚してくれるのだ。
あんな素敵な人のお嫁さんに、この卑小な自分がなることができる…。
花嫁衣装を身に纏ったパールの元へ、凛々しい青の剣の守人の衣装を身につけた一平が歩み寄ってくる。手を取り、抱き寄せて誓いの口づけを交わす…。そんな想像をしてパールは思わず身を捩った。
「…やん…」
「何してるんだ?」
不意に降ってきた声に、バールは我を取り戻した。
ぎょっとして振り向くと、不審な行動の原因が立っていた。
(…一平ちゃん…)
パールは慌てて両手をバタバタさせた。
「なっ…何でもないよ。ちょっと…居眠りしてただけ…」
さすがにばつが悪くて言い訳た。
「疲れが溜まってるんじゃないのか?また派遣団に参加してきたんだろう?」
近場、日帰りの行程ではあったが、パールは昨日、妖物の被害にあった村の人々の治療に出向いていたのだ。
「…ううん。平気。もうすっきりしたよ」
余計な心配をかけて申し訳ない、と思いながらパールは言った。実際、うたた寝していたわけではない。夢見心地ではあったが。
一平との結婚シーンを想像して一人赤くなっていたと知られるのは恥ずかしかった。
以前のパールなら包み隠さず話していたろう。特に一平には。
―今ね、一平ちゃんのお嫁さんになるとこ、考えてたの―と。
そして逆に一平を慌てさせていたはずだった。
あれ以来、パールの心に羞恥の感情が育ってきていた。相手が男性に限らないが、肌を見せることへのためらいが生まれ、思ったことをすぐそのまま口にすることを自制するようになった。自分にとって自信のない何かを見聞きされたり話したりすることは、できれば避けたいと思うようになっていたのである。
それは成長の証しであった。甚だ時期遅れではあったが。晴れて成人してかれこれ一年近く経っている。早熟な海人たちの中にあっては天然記念物と言っていいほど珍しい。
音もなく、一平はするりとパールの隣に座り込んだ。
数秒黙ってパールの横顔を見ていたが、左の手を伸ばし、パールの顎から頬を掴んで持ち上げた。
目が合う。
「な…何⁉︎」
赤くなっているのを見られたくなかったのに。パールは尚一層慌ててうろたえた。顔に血の気が集まってくるのがわかった。一平は真面目な顔をしてパールの顔を覗き込んでいる。
「…顔色は悪くないな…」安堵半分、不審半分の声で呟いた。「いや、むしろ血色がいいくらいだ」
そんなこと指摘しないでほしい、とパールは祈るように思う。
「別に目も赤くないし…隈もできてない。オレの思い過ごしか」
「だから平気だってば、そんなに見ないでよう…」
一平の手に捕まったままパールはじたばたする。
―ああーん、恥ずかしいっ‼︎―
『見ないで』とは言われたことがない。一平はあれ?と思った。
気がつけばパールの顔は目の前十センチほどの距離にある。毎日もっとくっついているくせに、いつにないパールの振る舞いのせいで急にどぎまぎし、一平は手を離して身を引いた。
「………」
まるで初めてパールにキスした時のようだ。自分のしでかしたことに驚いて、ひとり焦ってじたばたした…。
パールの反応も妙にそわそわして落ち着かない。一平が黙ってしまったのでパールも焦った。気を悪くしただろうか?
「あ…あのねっ‼︎パール、お化粧の練習してて…さっき失敗しちゃったから…変な顔してるから…」
苦しい言い訳である。パールの顔のどこにも化粧の跡などなかったし、匂いも残っていない。いつもの通り素のままで充分美しく整った肌がそこにあった。
一体何を隠しているのだろうと、一平はパールの言い訳の続きに耳を傾けた。
だが、その先はいつまで待ってもパールの口からは紡ぎ出されない。
「パール…」
痺れを切らして一平が口を開いたとほぼ同時に、パールは喚き出した。
「ああんっ!だめだよう。やっぱり一平ちゃんに嘘吐くなんてできないよお…」
思わず苦笑が漏れる。
どうせ、大した理由ではないのだろうが、パールにとっては大事なのだ。
「嘘を吐く練習でもしてるのか?医科や副科にそんな修業があるとは知らなかったな」
よせばいいのにからかった。
「違うよ。嘘はいけないことだって、まず一番に習うでしょ。先のない人にだって、心をまっすぐに開いて事実を言わなきゃいけないんだよ」
パールはこれをまともに受け取った。自分がこれ以降度々嘘を吐くと思われては心外である。
寿命の短いここでは、例え不治の病とわかっても隠し立てはしない習わしだ。人間どうせいつかは死ぬのだ。早いか遅いかの違い、運がいいか悪いかの違いだと、人々は考える。先がないことがわかっているのなら、その時点でしなければならないこと、しておきたいことを心おきなくやり遂げ、悔いなく死ねるように正直に告げるのが美徳だと、師は説く。
「これは失礼…」
一平は眉尻を下げた。
出会ってこの方、パールが嘘を吐くなど聞いたことがない。言わずに黙っていたことならあるが、それでもパールの心には重く苦しく、耐えられないほどだった。一平は露ほども、パールが危惧したようなことは思っていなかった。
「パールね…想像してたの…」
しんみりと、パールが言う。
「想像⁉︎」
「パールと…一平ちゃんが結婚するとこ…」
「……」
「そしたらなんか…急に恥ずかしくなっちゃって…」
当たり前のように『一平ちゃんのお嫁さんになる』と言いまくっていたパールの口から『恥ずかしい』などという言葉を聞いてはこちらの方が恥ずかしい。一平の方こそ、もっと恥ずかしいことを想像してしまう。まさかパールも同じだとは思えないが、身を縮めて俯いているパールからは新妻のような恥じらいが滲み出ていて思わずドキリとする。口から飛び出しそうになる心臓を必死に宥めながら、一平は言った。
「何も…隠す必要ないだろう…」
「だってえ…」
パールは両手で火照った頬を挟んで消え入りそうに恥じらっている。めちゃくちゃ可愛らしかった。
(そんな仕草をするな。抑えられないじゃないか!)
今すぐにでも抱き締めたいが、そんなことをしたらこの尋常でない胸の鼓動がパールに伝わってしまう。また早くなっていると指摘されるのは非常に困る。
「あ…」
パールが急に声を上げた。
「何…」
「どうしよう、ドキドキして来ちゃった…」
(どうしようって、言ったって…)
「一平…ちゃん…」
熱に浮かされたように潤んだ目でパールは一平を振り返った。
一平はそのパールに手を伸ばす。
無意識に、一平はパールの耳元の髪を掬い上げ、掻き上げた。
温もりを感じる。
生きている、パールの、体温…。
掌に、パールは照れ臭そうに、そのくせ恍惚として頬を押し付けた。鼻面を擦り寄せる子犬のようだ。
(なぜ、こんなに可愛いんだ…)
(なぜ、こんなにオレを慕ってくれる⁉︎)
(なぜ、オレならいいんだ?パール…)
愛しさが込み上げる。あまりにも無防備に、自分の前に素顔を曝け出すパール。
彼女の表情は語っていた。そのままでいて。気持ちいいから。パールに触れて。キスして。パールの全てを愛して…。
すうっと、吸い込まれるように一平の動悸が収まる。
パールの望みはそのまま一平の望みでもあった。ここで引き下がるのはあまりにも難しく、あまりにも馬鹿げていた。
一平はパールを引き寄せる。華奢な少女の身体は一平がちょっと力を込めただけで簡単に思い通りになる。空いた右の手で頤を捉え、唇を寄せた。何度か啄み、ぴたりと合わせ、もう離れまいともがくかのように押しつ戻りつする。舌先がパールの唇の合わせ目をゆっくりとなぞるように移動する。
陶酔する少女の身体は腑抜けのように力ない。体重を全て預けて、一平のなすがままに任せている。
ようやっと離すとしがみついてきた。離さないでと言いだけに。
懐に潜り込もうとするかのように、一平の胸に顔を押し付ける。
再び動悸が早まる。聞かれる、と思えば思うほど、どんどん早くなる。
「おんなじ…」
胸元から声がした。
「⁉︎」
「パールもおんなじ…。嬉しい…。一平ちゃんも、パールと一緒にドキドキしてる…」
指摘されて一気にボルテージが上がる。
だがパールは目を閉じたまま一平の胸に顔を埋めている。おそらく茹で蛸のように真っ赤になっている一平の顔を、見ないでいてくれるだけマシだった。
「…ずるいぞ、おまえだけ聴いて…」
恨めしげに、一平は言った。
不思議そうにパールは顔を上げた。
言うんじゃなかったと思ったがもう遅い。パールが尋ねる。
「どうして?一平ちゃんも、聴きたいの?」
「いらん。自分の音くらい自分でわかる」
突っ撥ねた。
「そうじゃないよ。パールのだよ。パールの心臓の音、聴きたい?」
「そりゃ…」
パールは一平に対してドキドキしていると言う。一体どのくらいしてるんだと知りたくないわけじゃない。だが、パールの胸に耳をつけて聴くわけにはいかないじゃないか。
「聴いてもいいよ」
「ば…」
そんなこと言うなと口が開く。
「だって、不公平じゃない。一平ちゃんだってさっきずるいって…」
汚れ知らずのまなざしが無心に彼に問い掛ける。
一平はパールを抱き寄せた。背中に腕を回し、力強く抱き締める。
「…これで…わかる…」
わかるわけがなかった。自分の音の方が大きすぎて、何も入ってなどきやしない。背中に回した掌が、その指先だけが、辛うじてパールのときめきを感じ取っていた。




