第七章 武道会
トリトニアでは年に一度、武道会が開かれる。
剣術と体術の国内選手権のようなものだ。
ジャンルは武術に限る。
地上では、空手、柔道、合気道、レスリング、相撲、ボクシング…と、体術はいろいろあるが、トリトニアでは一本化されている。とにかく何でもよいから相手を倒せばよいのである。但し、素手であることと時間制限、そして場の有効範囲が決められている。その中で相手に参ったと言わせればよい。口を利くのがままならない場合はギブアップを手で制する『待て』の姿勢で示す。もちろん、競技会であるので相手を死に至らしめることは禁止されており、そうなった場合は失格となる。
剣術の方はたくさんコースがある。剣の種類により、戦い方が変わってくるので、武器の数だけコースがあるのだ。
大剣、中剣、小剣、短剣、細剣、手斧、槍、銛、鎖鎌、手刀剣、の十種だ。参加資格は特にない。年齢も経験も性別も不問だが、自然と実力者が集まってくるので初心者や歳の行かないものはまず参加しようとも思わない。
一平がトリトニアに来てから初めて開かれる大会であった。
もちろん彼も出場しようと思っている。
もちろん、と言うのは、歴代の青の剣の守人たちが皆、この大会の優勝者であるからだ。優勝したから守人になれると言うわけではないが、そのくらいの実力がなければトリトン神はおろか、青科の教授陣に候補者として推薦してもらうことも叶わない。
一平は好戦的な方ではなかったが、これに関してはやってみる価値―いや、必要があると判断したのである。
得手は大剣だ。
青の剣の守人には大剣が使えること、という条件は設定されていない。青の剣自体は中剣の部類に入るので、中剣が使えれば何も問題はない。大剣は重量もあるし、扱いが難しいため、よほどの者でないと修められないし、やってみようという者も少ない。従って、大剣コースへの参加者は極端に少なく、優勝できる確率は高かった。しかも大剣を振るうに当たっては一平は一目置かれている。現青の剣の守人である師のミカエラとも五分五分に近い試合を繰り広げることのできる数少ない実力者のひとりだった。戦わしずて大剣コースの優勝者は決定したようなものだ。
それはそれで誇らしいものだが、なんだか気が抜ける。
せっかくの真剣勝負の機会だ。自分の実力が他人と比べてどの程度のものなのかを客観的に判断してもらえるチャンスである。すべてのコースは無理でも、他にもいくつか参加してみようと一平は考えた。
まず中剣。参加者が多く、実力試しにはちょうどい
い。
そして父が得意だったという槍。南紀の海では、よく長いフォークのような突き棒でウニや魚を獲ったものだ。
旅の初めより世話になりっぱなしの短剣もどうかと思ったが、これはむしろ生活全般に役立ったという印象が強く、今の一平には、父の形見の品をお守り代わりに身に付けているようなものだ。
それよりもやってみたいのはレイピアだった。
もちろん、ニーナがレイピアの使い手であるせいだ。
一平はもう十分ニーナの上にいるというのに、ニーナの存在はなぜか一平を脅かす。
同性ゆえ、パールがニーナに走ることは天地がひっくり返るくらいの確率でありはしないのだ。ニーナ本人もそれは承知している。だが、自分とパールが結ばれることはないとわかっていても、尚且つパールを愛するのをやめないニーナの意志の固さと愛の強さは、ともすれば一平を不安に陥れる。
パールの心をその手に握っているのにもかかわらず、気持ちでニーナに負けてはいないかと己に問いかけてしまう。少しでもパールに相応しくないとニーナに判断されることに恐れにも似た気持ちを抱いている。パールの父親であるオスカーからも常に試されているようなものだが、それともまた少し違う。
ニーナは女であるという武器を使って一平をとんでもない窮地に追いやってくれるのだから始末に負えない。薬の力と培った手管で、巧みに一平を誘惑した。己の身を犠牲にしてまで。
その捨て身の愛に匹敵するものを、自分は持っているのだろうかと心がぐらつく。ニーナの強い思いに、少なくとも肩を並べられるだけの男にならなければパールを娶る資格などないと、否が応でも思わせられる。
この葛藤を克服するためには、ニーナのことを知らねばならない。彼女が何を考え、どういう生き方をして、どのようにパールを愛しているのか。よく知った上で、それ以上の男にならなければならない。
ニーナに認めてもらうためではない。彼女は死んでも認めはしないだろう。
一平自身が、パールにこれ以上はないと思えるだけの愛と幸福をもたらすために。
先日来より一平は、密かにレイピアの練習に励んでいた。武道会にニーナが出場するとは限らないが、出てきてくれればめっけもの。不参加ならば、ニーナの言うお膳立てを待つだけのことだ。
一平は体術を含む五つの部門に参加を決めた。
「行ったら行く!絶対に行く!」
大声を出しているのはパールだった。
「一平ちゃんが勝つに決まってるもん。見なかったら、パール一生後悔する」
大袈裟な…と一平は眉尻を下げた。
「そんなこと言ったって、武道会だぞ。剣と剣がぶつかり合うんだ。また発作を起こしたらどうする?」
武道会の観戦に行くと言うパールを宥めるのに一平は四苦八苦していた。パールはムラーラでナムルの剣技を見て卒倒したことがある。先端恐怖症の症状だ。再びそんなことにならないようにと、一平は武道会の観戦を控えるように進言したのだ。
「もう大丈夫だもん。あれから一回も倒れてないし。パールずいぶん丈夫になったでしょう⁉︎修練所でだっていつもお料理刀とか使ってるんだよ」
『こわごわ』使っているということはパールは言わなかったが、一平にはお見通しである。確かにあの頃よりは格段と丈夫になり、一度も発作は起こしていないが、油断はできない。
「ねえ、いいでしょう⁉︎危ないと思ったら、目を瞑るから」
尖った先端を見なければ大丈夫ではあるのだが、料理や裁縫と違って、剣術は動きが速く目まぐるしい。いつ剣がこちらを向くかわからないし、撥ね飛ばされて観客席まで飛んでくることだって考えられなくはない。
そう説得するが、パールは引き下がらない。
「遠くから見るから。それならいいでしょう?…そうだ。ニーナに一緒に行ってもらう。ニーナなら危ない時だってすぐ気がついてバールに教えてくれるよ」
そのニーナと戦ってみたい一平は、どう言いくるめたものかと思案するがために反論ができなかった。
それをいい方にとり、パールは顔を輝かせ始めた。
「ね。決まり。ニーナに頼んでくるね」
「おい……」
こと一平に関することであれば、パールはしつこい。
どこか具合が悪かったりすればもちろんのこと、修練所での成績や素行が評判になれば何を置いても知りたがり、応援に出向く。昔からいろいろなことに好奇心が旺盛ではあったが、自分のことではむしろすぐ引き下がるくせに、一平の動向については非常に敏感であり、彼のかっこいい姿を見たり、賛辞を耳にしたりすることに異常なほどの執着を見せるのである。
恋する乙女であれば、好きな人のことが気になり、その人のことを何でも知りたいと思うのは当然の成り行きだが、パールの場合、更にそこにスターに対するミーハー的な気持ちと保護者に対する自然な甘えというものが加わってくる。誰が見てもパールが一平に熱を上げていることがわかってしまうのだ。
それはトリトニアに着く前から変わらずにある傾向だったが、それまでは彼らの周りに他人は存在せず、だから取り立てて目を引くことではなかっただけのことだ。
一平に対する一途な思いを歓迎しながらも、男女間における特別な感情ではあるはずがないと、彼は考えていたものだ。尤も、自分が騒がれているということに関しては元々鈍感な部分があったせいもあり、一平はパールが自分を好いているということに完璧な自信は持てていなかった。
あからさまに自分に向けられる崇拝の思いをシャワーのように浴び、一平はもう止めるのは不可能と思い始めていた。
止める間もあらばこそ、バールはそそくさと部屋を出、ニーナを捕まえておねだりを始めていた。
やはりニーナは武道会には出場しないのだろうか?普段の身のこなしや立ち居振る舞いを見ただけでも、かなりの武術を身に付けていると推測できるのだが。パールからもオスカーからも、護衛として充分すぎるほどの実力があると聞かされてもいる。
修練所で一平は一通りの武術を習い、成績優秀な者と渡り合う経験も積んだが、ニーナがそれらの者に引けを取るとは思えなかった。
『影』の修行がどこでどのように行われるものなのかは知らないが、軍でないことは確からしい。修錬所の一般教養部門には籍を置いていたようだが、年齢に比して博学である点を考えると、その他にも個人教授がたくさん付けられていたのだろう。
それだけの様々な技術を持ちながら、影としての教育の賜物なのか、生まれながらの性質ゆえか、ニーナは己がのし上がってやろうという野望や、人に認められたいという名誉欲などは微塵も抱いていないようだった。あくまで人々の後ろに回って、パールを陰から支える役割に徹している。
このまま行けば、おそらく武道会に出場してくることはないだろう。そういう可能性を考えることすらしないかもしれない。ニーナはそんなものに出場するより他にするべきことは山ほどあったし、誰が勝とうが興味なさそうだった。
「一平さま。よろしいのですか?⁉︎」
パールのことで一平に許可を求める義務などニーナにはないのだが、ニーナとて心配なのだ。一平がパールの観戦を止めようとしていると気づいてそう聞いてきた。
「…いいわけがない…」
「…でしょうね…」
ニーナも納得である。
「やだあ!みんなが見れるのにパールだけ見れないなんて絶対にいやっ‼︎」
もうこれはわからずやの駄々っ子状態に近い。対外的には非常に格式高く、品よく振る舞えるくせに、気のおけない相手に対してはこのざまだ。落差が激しすぎる。
「いやったらいやっ‼︎絶対にいやっ‼︎」
地団駄踏んで同じ台詞を繰り返している。
パールを尻目に一平は言った。
「ニーナは…出ないのか?」
「え?」
いきなり何を?という表情をニーナは浮かべた。
面と向かって訊くつもりはなかったが、事情が変わった。
「オレは…レイピア戦にエントリーした。できればおまえと対戦してみたい」
「……」
一平の袖を引っ張って抗議していたパールも思わず口を噤む。
沈黙が流れた。
「…何を、おっしゃることやら…」
ニーナが応えた。
「ニーナが一平ちゃんと戦うの?レイピアで?」
意外に過ぎて、パールの目はまんまるだ。パールは二人を見比べて、忙しなく首を動かした。
「そのようなこと、できるわけないではありませんか。姫さまのいい人に侍女の私が剣を向けるなど…。ね、パール」
ニーナはこの間と同じことを言った。まるであの約束が存在しなかったかのような言い草だ。一平は少しむっとして言った。
「オレは真面目に考えているのだがな。なかなかおまえはお膳立てをしてくれないし」
一平とニーナとの間に、何らかの約束事があったのだと、パールは感じ取った。お膳立てとは何だろう、と考えるのがわからず、おかげでパールは静かになった。
「私は表舞台には立ちません。…立てませんし…」
「そうなのか?」
影には禁じられていることなのだろうか。一平は少しがっかりだ。
「姫さまが観戦なさるのでしたら余計ですわ。お守りしませんと」
あやすように優しく、ニーナはパールを見遣る。ニーナに見つめられ、パールの心にムラムラと欲望が湧き上がった。
「ニーナも出るんだったら、それも見たい!」
一旦静まったものが、また暴れ出した。
ニーナが広きに亘って有能であることを知っているパールは、ニーナのことも誇りに思っている。ニーナは自分の侍女ではあるが、それ以上に近しい存在『影』なのだ。他の誰もとって代わることができない唯一無二の存在なのだ。
そのニーナと、やはりパールにとって他の誰とも換え難い恋しい人との一騎打ちが見られるかもしれないと知り、パールの心はワクワクする。剣で戦う、と言っても、これは試合なのだから。スポーツ観戦のようなものなのである。
ガタイのいい偉丈夫の一平と、女性としては申し分のない体型のニーナが闘技場で向き合っている姿を想像して、パールの胸は高なる。むさ苦しい男同士の野蛮な戦いとは違って、流麗で形式美があり、芸術性すら感じられるものになるのに違いない。
一般的な目から見てさえ、一平は秀麗で男前であったし、ニーナに至っては、着飾っていなくても道行く人が振り返るほどの美貌の持ち主であるのだから尚更だ。これを見ずして何としよう。
パールはもう興奮の極みだった。
一平の方はまさかパールがこれほどまでに自分、及びニーナの試合に関心を示すとは予想していなかった。刃物も針も、パールは大の苦手な筈だったのだから。
「姫さま。残念ですけれどそれは無理ですわ。ニーナは『影』です。公の場に堂々と素顔を晒すわけには参りません。おわかりでしょう?」
「でも…」
ニーナが冷静にパールの説得に当たるが、パールは不満気だ。
「それにニーナまで武道会に出てしまったら、一体誰が姫さまをお守りするのです? 一平さまのご勇姿をこそ、ご覧になりたいのでしょう?」
「うん……」
そう。まず一番に『一平』だったのだ。パールには。
「ニーナにお任せくださいな。一平さまとはいずれお手合わせさせていただく段取りになっております。ニーナの怠慢でまだお約束が果たせていませんが、それほどまでに姫さまがお望みなら、近いうちにご披露しますから」
「ほんと?」
パールの目が輝きを増す。
同時に一平も嬉しげな顔になった。
やはりニーナは忘れていたわけではなかったのだ。
「本当か? ニーナ⁉︎」
思わず口に出して尋ねてしまった。一平は言ってしまってから思った。
(やれやれ。オレはよほどニーナの実力のほどが気になるらしい。)
「ええ。必ず」
ニーナはパールを見つめながら、もう一つ横に目があるかのようにきっぱりとした口振りで、一平に向かっても返事をして寄越した。
「ですから今回はご辛抱なさいませ。でないと、ニーナが陛下に叱られてしまいます。姫さまの護衛はこのニーナが責任を持って務めさせていただきますから」
(ニーナが…責任を持って…護衛を…)
それなら安心だ、と思う一方で、一平は誇らしげにそう言い切るニーナを快く思っていない自分に気づいた。
その役目を担ってきたのは自分だった。パールのことを守りたいがために、自分はこれまで多くのことにチャレンジしてきたのだ。パールをどんな危険からも守れるように。獰猛な肉食獣からも、不慮の事故からも、何らかの政治的営利的な企みからも、パールに懸想してちょっかいを出してくる男たちからも…。
パールを守るのは自分だ。他の誰にもその役割を委ねたくはない。
自分でも不思議なほどその思いは強かった。パールの身の安全を憂えるのなら、誰がどう守ってくれてもいいはずだ。感謝こそすれ、やきもちを焼く道理ではないではないか。
(やきもち…)
そう。それは確かに嫉妬だった。
パールを保護することで信頼と愛を得た一平にとって、パールを守るという仕事を取り上げられることは、パールの愛を失うことにも等しかった。よくしてくれる者にパールの気持ちが移るのではないかという恐れにも似た思いが一平の心のどこかにある。
そんなことで本当に自分はパールを思っていると言えるのだろうか?パールの愛を得たいがためだけに、自分は髪振り乱して孤軍奮闘しているのではないだろうか。それが真にパールの安全や幸せを願っているということになるのだろうか?
一平の中には欲望がある。
それは確かだ。
パールを守りたいという欲求、パールに愛されたいという欲求、パールを抱き締めたい、己のものにしたいという欲求が。
実際にそのうちのいくつかは現実のものとなり、なおかつ満たされていても、まだ満ち足りない。己の欲求が充足されることを求めて、日々精進し、鍛錬に励んでいる。一平の目指す至福への道はまだ遠い。
だが、ニーナは違う。
同じようにパールを大切に思い、愛し、守ることを生きがいとしていても、ニーナの愛し方は一平とは違う。
愛する者が自分ではない者を一番愛している。そのことを承知の上で、それでもパールの元から離れない。自分以外の人間がパールの心を手中にし、仲睦まじくしているのを、すぐそばで見ている。目を背けることなしに。一平の側から見れば監視されているということになる。
普通ならば直視できないだろう。いたたまれずに身を引く者の方が圧倒的に多いはずだ。事実、一平はまだそうと決まったわけではないのにそう思い込んで、バールのそばから逃げ出そうとしたことがある。
パールの一挙手一投足を見守り、気持ちよく過ごせるよう環境を整え、捨て身で障害を排除する。それを地で行っている。
パールのために辛い修行を積み、幅広い勉強に励み、それこそ自分の人生を全て余すところなく、パールに捧げている。しかもニーナはその見返りを何もパールに求めていない。
なかなかできることではなかった。
意識して求めないのではないだろう。
おそらく、ニーナの認識の中にその項目は存在しないのだ。そうい稀有な人間なのか、そう育てられただけなのか…。
ニーナのそういう面が一平を脅かす。
一平はパールを求めている。心も身体も。
まだ成就しきってはいないとは言え、いずれはそうなることを希求して止まない。
だがニーナはそのどちらをも手に入れようとさえ思っていない。
男と女の違い以上に決定的な違いであった。
パールが幸福であること。いつもの天使のような微笑みを浮かべていられること。それのみがニーナの望みであるようだった。
パールに求めない分、恋敵の一平に剣呑な刃が向けられる。パールがその人生を預けることになるかもしれない男だ。十分に値踏みをし、相応しくないと判断したら早々にお引き取り願わなければならない。
改善させる、という手もないわけではないが、人間相手のその作業は非常に難しい。それに一旦は直ったと見えても、将来復活するかもしれないのだ。パールにとって完璧な男性を見定めるのが、自分に許されたせめてもの使命であるとニーナは考えていた。
だから一平にはニーナは厳しい。
不満があれば遠回しにせず、後回しにもせず、ズバッと切り込み解決を迫る。そのためには、好きでもない男に自分の純潔を奪われることも厭わない。
その覚悟はいっそ恐ろしい。
色仕掛けで陥とされそうになった一平としては、それが一番困る。
何者をも恐れないニーナの捨て身の献身的な愛に、自分は負けているのではないかと不安になる。
そしてニーナは、バールにとっては二番手なのだ。油断をすれば抜かれる。足を掬われて、後悔してもしきれない境地に立たされる。その可能性は決して小さくなかった。ニーナは頭も切れるのだ。
そのニーナにパールの護衛を任せたらどうなるか。
もちろんパールは安全だ。ほぼ百パーセントの確率で。
だが、その後は…。
しかし、そんなことを危惧していると口に出せるわけもない。パールのわがままを鎮めるためと、身の安全を確保するため、一平はニーナにパールを託さざるを得なかった。




