第五章 夜伽
ニーナはパールのよき相談相手であった。フィシスには話さなかったようなことも、ニーナには気軽に話せた。
特殊なシステムの中で出会い、物心ついた時には互いに『主』と『影』としてごく身近に存在していた二人だ。母乳は共有しなかったものの、乳兄弟の感覚に近かったかもしれぬ。『親友』と言う呼び名こそ使わなかったが、パールにとってニーナはまさにそういう存在だった。
しかし、病弱なパールは伏せっていることが多かったので共に遊ぶことは少なく、自分のことが自分でできる年齢になってからのニーナは、『影』の役割を学び、身に付けるための時間を通常の『影』よりも多く取ることができるようになっていた。
侍女としてのノウハウはもちろんのこと、護衛のための剣術と体術。身代わりに役立つ変装術。情報を集めるために諜報活動を経験し、国内外の動きを正しく分析するために政治の勉強に励んだ。
素質もあったのだろうが、ニーナは優秀だった。しかもこれがまだ成人前の十歳以前の話である。
海人は早く大人になると言うが、これは地上でなら天才少女と呼ばれるほどの進み具合だ。
そしてパールの失踪後間もなく、ニーナも単身諸国遍歴の旅に出たのだ。それほどの勇気の持ち主であり、実に肝が座っている。自分などよりよほど『勇者』と呼ばれて然るべきではないかと、一平は思ったものだ。
その遍歴の間にどんなことがあったのか。ニーナは決して話そうとはしないが、子どもであった分、また女であった分、余計に辛く苦しい旅だったのに違いないない。
ニーナは聞き上手でもある。
特にパールのおしゃべりに関しては。
パールのことなら何でも知りたいニーナには、パールのとりとめのない脈絡のないおしゃべりも全く苦にならない。
言葉の端々からいろいろな事実が見えることもある。根っからあけっぴろげで素直なパールは滅多に隠し事などしないが、他人を誹謗中傷することに繋がりそうなことには自然とブレーキをかけてしまう。そこに至る過程では、自分の方こそ酷いことを言われたり理不尽なことをされたりしているのにもかかわらず。
だが、それをニーナは実に巧みに探り当てる。
一平がパールの漏らした一言で犯人を探り当てたように。
そしてパールにとっても、ニーナは願ってもない話相手なのだ。気になっていながら誰にも聞けなかったことを、パールはニーナに言ってみようと思いついた。
「ねえ、ニーナ。ドキドキするのは男の人だけじゃないの?女の人も、好きな人の裸を見たりするとドキドキするの?」
「なんですって?」
唐突はいつものことだが、パールらしからぬ話の内容に、ニーナは眉尻を逆立てた。
「ドキドキするとあることをしたくなって、それをすると赤ちゃんができるんでしょう?女の人もそうなの?パール、一平ちゃんの裸見てもドキドキしなかったけど、この間一平ちゃんがパールの服脱がせた時にドキドキしたの。でも、それって何か変じゃない?」
―変なものですか‼︎―
ニーナは心で角を出し、しかし表面は優しく応じた。
もっと詳しく聞き出さなければならないからだ。
「パールは一平さまの裸を見たの?その時にあなたも身体を見られたの?」
「一平ちゃんの裸なら何回も見たことあるよ。一平ちゃん旅してる時しょっちゅう怪我してたし、パールの医術のお稽古のために練習台になってくれたこともあるし…。でも最近は見てない」
「では昔の話なのね。その…一平さまの裸を見たと言うのは」
「うん、そう」
どうやらニーナの危惧したこととは状況が少し違うらしい。だが問題はもう一つの方だ。
「脱がせたっていうのは?いつのこと?」
「えっと…。トリーニに行ってガラリアの王様に会った後のことだから…。 一ヵ月くらい前かなあ…」
「どこで?」
「ここ。パールの部屋」
ニーナの頭に血が上った。
―あんな、涼しい顔をして‼︎―
だが、表面には出さずに押し殺し、先を促す。
「どうしてそんなことに?」
「えー、どうしてだろう。…あの時はね。一平ちゃんは何か変だったんだよ。急にパールのこと抱き締めて、あちこちにキスしたの。パールくすぐったくて…でも気持ちよくて…。そしたらいつの間にかそうなってたの。一平ちゃんがパールのこと見てて…でも、パール胸ないから、恥ずかしくて…隠したの」
(全く‼︎やっぱり男は狼だわ!)
ニーナはパールの話を聞きながら心の中で爪を研いでいた。
「一平ちゃんはね、誰にも見せちゃだめだって言ってたの。パパでもだめなんだって。お嫁さんになるまでは一平ちゃんでもだめだって言ってたのに、おかしいでしょう?パール、ガラリアの王様に見られちゃったから、怒られると思ってきちんとお話しできなかったの。だからかなあ」
「ガラリアの王様って…何の話?」
ニーナはあの件については何も聞かされていなかった。パールは問われるままにあったことを説明しなければならなかった。
(それで…)
一平に打ち明けたのだと聞くや、ニーナは合点した。
抱き締めてキスの嵐をお見舞いした上にその先の行為にまで及ぼうとしたのは、嫉妬のあまりだったのだと推察できる。一平の気持ちは察するに余りあるが、ニーナとしては許すわけにはいかなかった。だが、すぐに服を元に戻したというのは評価できる。すんでのところで自制心が働いたということなのだろう。よく我慢できたものだと感心しそうになるが、やはり許すべきではない。
それと、ガラリア王のしたことにも憤りを感じる。一体パールに何の用があってそんなことをしたのだろうか?
陛下に打診するべきか?一平の方がいいだろうか?
いや、その前にまずあの男を懲らしめなければ。二度とパールに手を出さぬよう、釘を刺さねば。パールの一番近くにいる男なのだから。
ニーナは決心した。
「それでね、ニーナ」
パールは話を元に戻す。ニーナに訊きたいことがあったのに話が横へ逸れてしまったのを、パールはちゃんとわかっていたのだ。
「ガラリアの王様はドキドキしなかったみたいなの。でも一平ちゃんはするんだって。それでパールはそのことを思い出すとドキドキするの。それってどうなの?」
「どうって…」
「パールは、おかしくない?一平ちゃんにキスしたくてたまらないこともあるの。もう一回触ってほしいとも思うの。医科の先生に訊いてみようかと思ったけど、なぜだか訊けないの。ニーナだったら何か知ってるでしょう? ニーナ、物知りだから」
「パール…」
本当に、この幼さはどうしたものだろう。確かにパールは一平に恋をしていると思えるのに、身体はちゃんと反応しているのに、心と行為とか結びついていない。これではさぞかし一平は手を焼いていることだろう。二人の欲求が微妙に合っていないのだ。
無論、我慢を強いられて辛いのは一平の方だ。ニーナは少し小気味よい。だが同時に哀れでもある。あの年齢の男性には抑圧を解放する場も必要だと思うのだが、ニーナの見たところ、一平はパール一筋で他の女には目もくれていない。
あどけなく、だが真剣にニーナを見上げて返事を待っているパールが愛しくて憎らしい。なぜこの子の心が自分でなくあの男の上にあるのだろうか。
ニーナは言った。
「パールは全然おかしくないわ。好きな人にキスされれば嬉しいし、したくもなるわ。尊師に訊かなかったのは正解よ。もし訊いていたら一平さまの方が恥ずかしい思いをすることになっていたでしょう。賢明だったわね」
一平が恥ずかしい思いをするところだったと聞いて、パールは少し青ざめた。
「ほんと?…よかったあ…」
「それにね。ドキドキするのは恋愛の基本よ。安心しなさい」
パールが笑った。正常だと太鼓判を押されたに等しく、ほっとした。
パールの笑顔を見て、やはりニーナはこの笑顔だけは壊してほしくないと思う。
「でも、これだけは私とも約束して。旦那様以外の男性には絶対に身体を見せちゃだめよ。…一平さまでもだめ。もしまたされそうになったら、すぐに逃げなさい。触れられても同じよ」
「…うん…」
ニーナの言うことは一平の言うことと重なる。だからニーナの言うことは正しいのだと、パールは思う。
「キスはしてもいいんでしょう?みんなしてるもんね」
それまでだめだと言われたらどうしよう、と危ぶみながら、バールは上目遣いで確認を取ろうとした。
「ガラティスのしたようなのでなければ大丈夫よ。もし万が一されたら、また噛み付いてやるといいわ。パールもなかなかやるじゃない」
「えへえ…」
噛み付いたためにガラスが激怒したのだが、今はパールは褒められて嬉しいだけだ。
「一平さまともほどほどになさいね。特に人前はだめよ。はしたないと思われるわ。女性は慎み深くなければね。王妃さまのように」
「ママ?」
「王妃さまはこのトリトニアで―いえ、ポセイドニアの中でも最高の貴婦人よ。何か迷うことがあったら、あなたのママだったらどうするか考えるといいわ」
シルヴィア王妃はニーナの憧れの的、目標とする女性でもあったのだ。
「ママの真似をすればいいの?」
「その通りよ」
ニーナはにこやかに、しかしひとつ筋の通った面持ちでパールを見つめた。
その夜。
自室へ足を踏み入れた一平は人の気配を感じて踏み止まった。
洗練された戦士の勘はこんな時でも鋭かった。
隠れるような所もあまりない部屋だったが、確かに誰かがいる。
―寝台の中だ―
すぐに一平は見て取った。
―敵か?味方か?―
油断はできないが、気づいていると見抜かれてもいけない。彼は細心の注意を払いながらも、何気なさを装って自分の寝台に近づいた。
貝の肉の隙間から珊瑚色の髪が見えた。
(なんだ。パールか…)
オレを驚かそうとしているのだろう。いつものいたずらの一種だったのかと、一平はいきなり貝の肉をめくった。
「こらっ!勝手に男の寝台に潜り込むんじゃない!」
叱った相手を目にして目を剥いた。
(ニーナ‼︎)
パールだと思ったのは同じ色の髪をしたパールの影、ニーナだった。薄物一枚しか身に付けていない。身体の線が必要以上によく見える。
驚愕して立ち竦む一平とは逆に、ニーナはゆっくりと身を起こした。
「一平さま…」
パールによく似た桜色の唇から生々しい声が漏れた。
「……ここで何をしている…」
一平の誰何の声が低かった。
「…あなたさまをお待ちしておりました」
ニーナは三つ指をついて頭を下げ、答える。
「どういうつもりだ?」
この状況で目的が何かは明白だ。
が、取り敢えず確認しなければ。
「…夜伽に参りました…」
ニーナの返答を聞くと、一平の髪がざわっと逆立った。
「誰の差し金だ?おまえの一存ではあるまい?」
こういうことも考えられなくはない状況に、一平はいた。
国王や王子のように、国の権力者であれば機嫌を取るために手の者や娘を送られることは珍しくもない。一平は王女のパールに求婚してはいるが王族でも何でもない。目指している守人に就任していればともかく、まだ候補生にもなっていないので権力もない。但し、実力だけはある。武人としては、現守人のミカエラにも匹敵するのではないかという噂もある。王女を始めとして王からも王妃からも気に入られている。そういう点では仲良くしておいて損のない相手ではあった。
どこのどいつが血迷ってこのような企みをしでかしたのかと、一平は思ったのだ。
が、予想に反してニーナは自分の一存だと答えた。
「何のために?まさかオレを慕ってのことではあるまい?」
一平は重ねて問うた。確かにニーナに恋人がいるとは聞いたことがなかった。
が、それはニーナ自身が恋しく思う人がニーナの恋人にはなり得ないからなのだと一平は知っていた。ニーナの思い人とは誰あろう、同性のパールなのだから。
ニーナは一平の恋敵でありこそすれ、唯一男と女の関係にはなり得ない人だったのだ。
「パールのために…」
一言、ニーナは言った。
一平には理解できない。
パールのためと言うなら尚更だ。両思いである二人の間に割り込んで一平を奪うことは、パールを悲しませることに繋がる。ニーナはパールが泣くのを一番嫌がっていたはずなのだ。
一平が原因でパールが泣けば、どんな些細なことでも一平はニーナに責められた。その一方で、二人の恋の進展のためにあれこれと助言をして心を砕いてくれているのもニーナだったのだ。
それなのになぜ?
ニーナの言動が不可解で一平は困惑していた。
ただ、これだけはわかった。
こんなことがあってはならないのだということは。
「とにかく…夜伽などオレには不要だ。帰ってもらいたい」
退去してほしい旨を一平ははっきりと口にしたがニーナは帰らなかった。
「そういうわけには参りません。私をはけ口にしていただくまでは」
「はけ口だと?」
―どいつもこいつもどうして皆同じ言葉を口にするのだろう。そんなにオレは物欲しそうに見えるのか?―
一平は頭を抱えたくなった。
「いらんと言っている!」
「いいえ、必要でございます」
「ニーナ‼︎」
いい加減に頭にきた。
こうなったら力ずくで追い返すしかないかと一平は思い始めた。
「…必要ないとおっしゃるなら…なぜ、あのようなことをなさいました?」
「あのようなこと?」
不思議そうに眉を顰める一平にニーナは畳み掛ける。
「パールがトリーニから戻った時のことです。それで一平さまにはおわかりになるはず」
「…‼︎…」
一平は目を瞠いた。次いで、頭部に血が逆流してくるのがわかる。
「パールは…戸惑っています。…いえ、嫌がっているのではありません。今までのあなたとは何かが違うと…。どうしたのかと不思議がっています」
パールが快感を感じていることは口が裂けても言うつもりはなかった。ニーナは一平をやり込められる材料だけを口にする。
気まずすぎる。
一平にはわかっていた。ニーナは全て知っているのだ。こういう時に一番、幼すぎるのは問題だと思う。二人だけの愛の行為は誰にも話して欲しくないのに、嬉しければ喜んで報告し、不思議なら詳しく話して回答を得ようとする。もちろん身近な人に限るのだが、身近だからこそ困ることでもあった。
我知らず、一平の頬が紅潮してしまう。
「…いいじゃないか!キスぐらいしたって!…無理矢理したわけじゃない…」
何でそんなことをいちいちニーナに諭されなくちゃならならないんだ、と一平は憤った。しかし、声はだんだん小さくなる。したのはキスだけではないからだ。多分ニーナはそのことも承知している。
「もちろん結構です。私の心配しているのはその先です」
ニーナの口調は極めて冷静だ。
「今まであなたはあんなキスはなさらなかった。ご自分を抑えていられた証拠です。けれど、もう違うのでしょう?パールに対して平静ではいられないことがどんどん頻繁になっている。違いますか?」
―違わない―
と、一平は思った。
「はっきり申し上げます。パールを抱きたいのでしょう?」
「……」
その通りだったが、言えるわけもない。
「でもだめです。まだあの子には、そんな準備はできていない」
「そんなことはわかっている!」
ニーナに指摘されるまでもない。一平は思わず怒鳴っていた。
「毎日そんな思いを募らせていたら…抑え続けていたら…。いずれ歯止めが効かなくなる。堰を切って溢れ出たものを無防備なパールに流れ込ませることになってしまう。それは困ります」
(オレだって困る…)
「だからそうなる前に、一度でもニ度でも三度でも…私が防波堤になります」
「何?」
「私をパールだと思って抱いておしまいなさい」
「………」
「放出してしまえば、あなたはまた元の一平さまに戻れる。パールの大好きな一平ちゃんに」
「…ばかな…」
「ええ。私は馬鹿です。それほどに、パールが愛しい…」
「頭がおかしいんじゃないか?一体どういう育ち方をすればそんな考え方ができるんだ?大体失礼だろう?人を無節操な猛獣のように…」
ニーナの考え方にも一理あるかもしれなかったが、とても納得できるような話ではない。それではニーナ自身は何なのだ?一平のことを愛しているから、と言うのならともかく、それではただのモノだ。出してしまいたいものを受け取る容れ物、便器にも等しい。
「男とはそういうものでしょう?」
ニーナは真面目に言っている。
(誰が吹き込んだんだ、こんなこと!)
ニーナの生い立ちを知らぬ一平には八つ当たりする相手を見つけられない。
「少なくともオレは違う」
一平は言い切った。
「そうでしょうか…」
ニーナは徐に寝台から降り、一平の目の前で薄物の前をはだけた。
そんなことをされてはさすがの一平もたじろがざるを得ない。
「…ちょっ…ちょっと待…」
妖しい仕草でニーナは後退る一平に迫ってくる。女性に手荒なことはできない。壁を背にして進退極まった一平はとうとうニーナに唇を奪われた。
「う…」
何か液体が流れ込んできた。
どうやってしまっていたのだろう。ニーナは口の中に薬を仕込んでいたのだ。おそらく媚薬の一種だ。欲望を司る視床下部を刺激する薬。
薬から気を逸らせようと、ニーナは一平の手を取った。自分の胸へと導き感触を味わせる。
女性経験のない一平には刺激が強すぎた。彼は思わずごくんと喉を鳴らす。その拍子に媚薬を嚥下した。
(パール‼︎)
自分の口の中にある舌が誰のものであっても、掌の中にある膨らみが誰のものであっても、一平はパールのことしか考えられなかった。長い長い接吻の後、ニーナは言った。
「一平ちゃん…」
ニーナの顔の造りの上にパールの微笑みがあった。
さすがは影として育てられただけのことはある。パールの声や表情、仕種などを真似るのは、他の誰にも引けを取らない。
一平にはもう何が何だかわからなかった。本当に今自分の前にいるのがパールのような気がしていた。子どものままのパールではない。この行為がなんだか知っていて、しかもそれを望んでいるパールだ。
一平はニーナを抱き上げて寝台に運んだ。パールそっくりの声で自分を呼ぶ甘い囁きに、一平は幸せな夢の中へ引きずり込まれていった。
(パール…パール…。オレのパール…」
―長かった―
一平は思い出していた。
パールに初めて会った時のこと。初めて自分に身を預けて眠ってしまった時のこと。我慢できずに眠っているパールに口づけてしまったこと。別れの決心を見事に打ち砕かれてしまった時のこと。シェリトリにパールを奪われるかとやきもきしたこと。成人した時のこと。ガラティスの仕打ちに憤ったこと…。
―もう…見せてもいいの?まだお嫁さんになってないよ―
(パールはそう言った)
(オレのしたことを、嫌でなくてもそう訊いてきた)
(なんで今は訊いてこないんだ?)
(どうして、自分から見せるような真似をするんだ?)
(パールらしくない…)
考えることをやめていた一平の脳が動き出した。
(…パールじゃない⁉︎)
一平は動きを止めた。自分の身体の下の娘をよく見た。
(ニーナ⁉︎)
認識すると一平の動作は素早かった。
ニーナが呆れるくらい敏捷に起き上がり、飛び離れた。まるでそこにいるのが悪魔か病魔であるかのように。
「…一平さま…」
ニーナは驚いた。まさかあの薬が効かないとは思っていなかった。まだ彼女の目的は達していない。一平はニーナの身体に触れていたに過ぎない。
「オレが手を上げないうちに失せろ!二度とこんな真似をするな!」
一平はニーナに背を向けて言い放った、両肩も握った拳もブルブルと小刻みに震えていた。
(ばかよ…。あなたが辛いだけなのに…。せっかく私が親切に…)
ニーナは薄物を纏い、黙って退去した。
翌日通路でニーナとぱったり出会した一平は、黙礼をして通り過ぎようとしたニーナを呼び止めた。
「ニーナ…」
「はい⁉︎」
「…すまなかった…。何と言ったらいいのかわからないが…とにかく…事実として、オレのしたことは許されないことだ。女のおまえの…傷にならねばいいと思っている…」
謝られるなどとは微塵も考えていなかった。罠を仕掛けたのはニーナの方なのだ。そのことをニーナは後悔していないが、もしうまくいっていたとしても、いつかパールが泣くことになっていたかもしれないと、思い直すには至っていた。
ますますこの男がわからなくなった。ニーナのしたことをもう怒ってはいないのか?自分の方が悪かったなどと、なぜ思えるのだ?
「本当に…おかしな方…」
ニーナはくすっと笑う。一平は眉を顰めた。
前にもニーナにそう言われたのだ。
「そう何度も変だのおかしいのだの言うな。オレは目一杯真面目なんだから」
ニーナは一平の訴えなど歯牙にもかけない。不満げな顔をまっすぐ見て己の言い分を口にする。
「私は自分が間違っていたとは思っていません。あなたのこともそうです。ばかな人、と呆れはしましたけれど。…意思がお強いのはよくわかりましたわ。もうしません。ご安心ください」
「……」
貶されているのだろうか。それとも褒められているのだろうか。
「本当に、安心して。パールには何も言いません。それこそ、私の望むところではありませんわ」
操られていたとは言え、後ろめたさがあるのだろう。一平は気まずそうに顔を赤らめた。
「可愛い人でもおありなのね」
捨て台詞にからかって、ニーナは通路の向こうに消えた。
―女の人には、敵わない―
一平はつくづく思った。




