第四章 恋敵(ライバル)
一平の頬にキスを残してパールは自室に戻って行った。
一平も自分の部屋に戻ろうと足を向けたが、どうにも休む気分ではない。
傷つきやすいパールの心が一少女の心ない一言で千々に乱れていたことを思うと何とかしてやりたいと思う。エスメラルダの胸ぐらを掴んで土下座させてやりたいくらいだが、いくら何でも大の男がか弱い女の子にそんなことをするわけにはいかない。
そもそもこのことを問い詰めれば、パールが告げ口したと思い込み、一層辛く当たるだろうことは目に見えていた。そんな思慮に欠ける行動を取るわけにはいかなかった。
鬱憤を晴らしたい気持ちもあって、一平は剣の稽古をすることにする。大剣をを持ち出し、三の庭に向かった。
三の庭は物が少なく広々しているので、身体を鍛えたり剣の稽古をしたりするのにもってこいだ。王もキンタもここで体術の手ほどきを受けたと言う。夜も遅いのでこの場所を使っている者はいないはずであったが、そこには先客がいた。
後頭部高く珊瑚色の髪を束ねたニーナがそこにいた。
持ち前の俊敏さを発揮して、右へ左へと動き回り、レイピアを振るっている。細身の剣を繰り出す剣さばきに隙がない。
先客がいることに気づくと、一平は気配を潜めて近寄った。見つかりたくなかったからではない。この少女の力量を確かめたかったからだ。
初めて会った時から、ニーナは一平に対する敵意を隠そうとはしなかった。初対面なのにもかかわらず、なぜこのように剣呑な目で睨まれるのか不思議に思ったものだが、自分の意向を一平に明らかにしてからも、ニーナの一平に対する接し方はころころと変わってくれる。
敵意をむき出しにしてくることもあれば、あくまで遜って二歩も三歩も下手に出る場合もある。一平とパールの仲を応援するような言葉を吐きもすれば、一平に対してだけは辛辣な批判を浴びせもする。
ニーナの本心が一体どこにあるのか見極めたい。同時にニーナの体得している技術がどの程度のものなのか把握しておきたい。
一平の前では様々な仮面を被り続けるニーナ。今なら気づかれずに本当の力を盗み見ることができるかもしれない。また、できなくても、一平の消した気配にどこで気づくことができるのかぐらいは確かめられるだろう。
果たしてニーナの勘は思った以上に鋭かった。
一平がニーナを観察しようと気配を消すや否や、パッと身構え直し、すぐに剣気を収めた。
よほど精神の鍛錬を積んでいなければできぬことだ。
ニーナはやってきた人物を一平だと察知し、すぐさま腰を折り膝まづいた。面を伏せ、命令を待つかのように静止の姿勢を保つ。
「…見事だな…」
一平の漏らした感想にも何も心を動かされた様子はない。
「…邪魔をしてしまったらしい。…オレには構わず続けてくれ」
そう言って再びニーナが立ち上がるとは思えなかったが、一応言ってみる。
「お目汚しは私の方でございます。剣の稽古をなさるのでしたら、私の方が退去いたします」
一平の手にした大剣の意味を素早く察知してニーナは言う。
「そうつれないことを言うな。少しは相手をしてくれてもいいだろう」
「あなたさまは姫さまの大切なお方。私ごときが剣を向けるわけには参りませぬ」
剣の相手なら少しは付き合ってもらえるかと考えたが、あっけなく振られた。
「その言葉遣いもどうにかしてほしいな。オレはあんたの主でも上司でもない。そこまで卑屈に遜らなくてもいいだろう⁉︎」
「私は卑屈になどなっておりません。私の主は姫さまただおひとり。私はオスカー王の命令より姫さまのお言いつけの方を優先いたします。ご心配なく」
誰の軍門にも下らぬ。ただ一人の主人のパールにのみ忠誠を尽くす、とニーナは気高いほどに言い切っている。
「だったらもっと気安く接してくれないか?オレとあんたは対等だろう?パールを愛する者同士」
「甚だ不本意ではありますが、一平さまは姫さまが愛するお方。それがよくわかった今、その一平さまに対し軽々しく同輩扱いすることはできません」
「あんたは…もうパールのことを諦めたのか?」
パールは一平を愛しているとニーナは言い切った。誰より口にしたくないし、認めたくないことだろうに、平然と言い放っている。もし逆の立場だったら、一平にできるとは思えぬ言動だった。それではまるで、ニーナは自らの負けを認めて身を引いているようではないか。
「私の愛し方は一平さまとは違います」
それはそうだろう。愛は人それぞれだ。
「オレが男だと言うだけで…いや、あんたが女性だと言うだけでパールの恋愛対象から外れてしまうのは致し方がないが、あんたはそれでいいのか?オレがパールを貰っても?オレはいつか必ずパールを妻にするぞ」
「…それは私には不可能ですから。言ったはずです。私の愛はあの子を守ること。あの子の幸せを守ることです。パールが一平さまのものになることを望んでいるのなら、私はそれを応援します。けれど、あなたが無理強いするのであれば容赦はしません。例えご夫婦になられた後でも、断固として阻止します」
「………」
「今、あの子の心には一平さましか住んでいません。私のことなど眼中にはないのです。そのパールに対し、私に一体何ができるとおっしゃるのです?」
「それはパールに対する侮辱だぞ。あいつはあんたのことを自分の分身みたいに思っている。眼中にないなどとは言わせない」
一平はちょっと怒っていた。自分のことならどんなに誹謗されても滅多に怒ることなどないが、パールを中傷されることには敏感だ。この程度の言い回しでさえそうなのだ。我が身が可愛いければ、決して一平の前でパールの悪口を言ってはならない。
「変な方ですわね、一平さまって…」
つい、正直に口に出してしまった。
「変…か…⁉︎」
一平は少しショックを受けたようだった。その顔があまりにも子どもっぽくてニーナはおかしくなる。
「パールを自分ひとりのものにしたいのなら、普通そんなことは口にしません。恋敵を有頂天にさせるようなことではありませんか」
言われてみればその通りかもしれない。実際、シェリトリ相手の時にはそういう心理が働いた。
だから変なのはオレでなくこの状況なのだ、と一平は思う。
女性が恋敵になることなど思ってもみなかったことだ。万に一つもあり得ないと思っていた。と言うより、予想できることの範疇に入っていなかったのだ。
だから微妙に均衡が保たれる。
男なら一平、女ならニーナが一番、パールは好きなのだ。
ニーナのことも一平と同じくらい信頼し、心を許しているのに、ニーナのお嫁さんになりたいとは思わない。そこのところだけが決定的な違いだった。
だから困るのだ。
恋人や妻としてパールを得ることに関しては間違いなく一平の方が有利だ。それもほぼ百パーセントである。生まれながらの性の違いは自分ではどう変えようもない。だから気が引ける。正々堂々と渡り合っていないという変な罪悪感がある。
そして一平はニーナのことも決して嫌いではない。
鬱陶しく思うことはあっても、女性としては素晴らしい人だと思う。何でもこなす完璧な人だが、パールにもそうあって欲しいとは思わない。
パールはパールだからだ。
パールだから一平は愛したのだ。
何かが優れているからじゃない。
パールの心を、一平は愛していた。
「…訂正しますわ。姫さまは私のことも勿体ないどお心にかけて下さっていますものね」
ニーナが言った。
「あんたもオレに負けず劣らず変な人だな」
間違っていたとわかったら、すぐに正すことを臆さない。それもなかなかできないことだ。
一平に、似ていた。
「… 一局、手合わせ願えるかな?」
不思議と静かな心持ちになり、一平は素直な気持ちで訊いてみた。
ニーナは一瞬目を瞠り、そして微笑んだ。
「今日は…やめておきます。まだあなたには勝てそうもありませんし」
正直な女だ。
「あんたの得手はレイピアか?ではオレもレイピアで練習しておこう」
こちらも馬鹿正直な男である。体格のいい一平には大剣こそ有利なのに。
「いつなら立ち会ってもらえる?」
剣でニーナをやり込めようと思っての申し出ではないことはニーナには痛いほどわかった。
「…私の方でお膳立てして、お知らせしますわ」ニーナは言った。「その代わり… ひとつお願いがあるの」
「……」
ニーナの口調が変わった。畏まったところが崩れ、心なしか媚を帯びている。
「さっき…パールとキスしたでしょう?それはどこ?」
(見ていたのか?)
当然と言えば当然だった。覗きをやめないと公言したニーナがそれを実行しないとは考えられない。
「あの子の唇が触れたのはどこ?」
(ニーナ…)
ニーナが何をしたがっているのか、一平は気づかざるを得なかった。
「教えて…」
真剣な瞳がまっすぐ一平の目を射る。
「ここと…」一平は右の頬骨の辺りに手をやり、次いで唇を指し示した。「ここだ…」
「お願い。私にも分けて」
やはり…と、一平は目を瞠る。嫌だ、とは言えなかった。
ニーナの目が狂おしい光を浮かべている。触れたくても決して触れられないもの。触れたくても触れてはいけないもの。その象徴がパールの唇だ。目の前にいる一平にしか、それは許されていない。パール自身が許さないのだ。従って、それは即ちニーナの掟となる。
でも欲しかった。自分にその資格がないのはわかっている。高望みであることも承知している。パールの心が一平の上にしかないことも充分弁えている。
パールの心を占めているこの男が憎らしい。目の前から消えてほしい。けれどそうなったらパールは泣く。ニーナはそれは見たくない。パールの幸せのためには一平にいてもらいたい。ニーナの心は矛盾だらけだった。
決して認めはしないけれども、一平はいい奴だと知っている。ニーナの気持ちを蔑ろにするような人間ではないとよくわかっている。
ニーナの申し出は一平を窮地に追い込む可能性が大きい。ニーナがどう思うと、一平が何のためかをしっかり承知していようと、端から見れば、二人は男と女である。ニーナがパールに許されない思いを抱いていることを知らなければ、いや知っていたとしても、一平がパールを裏切ったと見做されてしまうのが普通の感覚だった。
それでも一平は聞き入れてくれるだろう。ニーナの望みを叶えることに力を貸してくれるだろう。自分がどんなに悪者になろうと。
そうニーナに確信させるものが二人のの間にはあった。
共に同じ少女を愛する者同士だからこそ生まれる思い。だからこそ互いの気持ちが手に取るようにわかってしまう不思議な連帯感。ニーナには一平の、一平にはニーナの、切なさや苦しみ、喜びも悲しみも、共鳴するように響き合う。
互いに邪魔者でありながら、いてくれることが心のどこかで支えになっていた。
「オレを介してでいいのか…」
一平が尋ねる。そう言ったことでもう既に同意している。
「嫌だけどしょうがない」
そうするしかニーナには手段がないのだ。
「バールにしたいのならすればいいだろう」
精一杯寛容に言ったたつもりだったが、腹の中は想像しただけで煮えくり返っていた。このニーナにわからぬはずがない。
「心にもないことを…。そんなことをして殺されるのはごめんだわ。あなたにだけはね…。それにパールの方が望まない」
パールが不本意なことなど死んでもしない人間であることを無意識に計算していたのかもしれない。
「だからこれで我慢するわ」
ニーナは言った。
「我慢しなきゃならないのはオレの方だ」
眉を顰める一平にニーナは近寄った。
「ちょうだい」
ニーナの唇が一平の頬に触れる。
(パール…)
パールの匂いがしたような気がした。
彫像のようにじっと動かない一平の顔を両手で包み、口づけた。
ニーナの心が切ない。ニーナの愛が哀しい。こんなことで…よりによって恋敵に媚びることでしか自分の望みに近づくことができないニーナが哀れだった。
離れたニーナに一平は問う。
「もう…いいのか?」
ニーナはこくりと頷いた。
気休めに過ぎないことはわかっていた。
(この人はパールじゃない…)




