第三章 コンプレックス
近頃のパールは注目の的であった。
そもそもは彼女の持つ癒しの力のせいだ。人々に請われて施術を行う度に感謝され、自分のしたことが他者に喜んでもらえることに充実感を覚えるようになった。普通のお医師では絶対にできないようなことを、パールだけができるのだ。その事は次第に自分への自信となり、その外見にもよい影響を与えていた。
絶世の美女の母親と比べるから見劣りがするのであって、パールは元々見てくれがそう悪いと言うわけではなかった。一平などは出会った当初よりなんと笑顔の可愛い子だろうと思ったくらいだし、旅の途中に立ち寄ったムラーラと言う国でも、バールは大勢の崇拝者を従えるに至っていた。
確かに取り立てて美人とはお世辞にも言えなかったけれど、その原因は病的なまでに貧弱な身体つきによるところが大きい。とにかく小柄で痩せっぽちなのだ。食も細いし、太れない体質らしい。成人すればもう少し女性らしく丸みを帯びて出るべきところが出てくるかと期待したが、そういうものでもないらしい。身体の機能は大人になっても、相変わらず風が吹けば折れてしまいそうにか細く、胸も扁平であり、腰も張っていない。
だが、肌は綺麗だ。心の清純さが肌に染み出してくるのかと思われるほど滑らかで美しい。
以前のような病的な白さではなく、瑞々しくて張りのある健康的な白さだ。本当に、長い旅を経て、パールは不思議なほど丈夫になった。
そして自分への自信が、少しずつパールの外見を内側から輝かせて行ったのである。
一般教養教部門の方はパールも既に終了していた。現在は医科で研鑽を積む傍ら、青科の副科で守人の配偶者課程の修業に精を出している。物覚えはよく、医療にも抜群の勘を発揮するパールであったが、肝腎の青科での成績はあまり芳しくなかった。
料理や裁縫の実習があるからだ。
丈夫になっても先端恐怖症が治ったわけではなく、パールは未だに刃物が怖い。料理には料理刀、裁縫には針や裁縫刀の使用が必須なので悩みの種であった。先端を向けられなければ以前ほど扱いに窮する事はなかったが、正常な人から見ればなんでこんな簡単なことが…と疑問に思われ、呆れられてしまうほど、パールは刃物を恐れている。
このことはエスメラルダにとってパールを苛める格好の材料であった。専門教養部門の方では顔を合わせることはなくなったが、一平のことを知って青科の副科に籍を置くことにしたエスメラルダは、相変わらずパールを無視したりちょっかいを出したりすることをやめなかったのだ。
そんな性格ではあっても、エスメラルダは異性に媚びるのがうまい。世界によくいる色気丸出しのフェロモンむんむん女であり、男はこれに簡単に引っ掛かる。だが同性には嫌われるタイプだ。
エスメラルダに反発心を持つ女子は実は少なくなく、かまととではあるが心優しいパールの肩を持つ者の方が多い。だが、両者共に王族であり、面と向かって詰ったり諫めたりすることができないことも事実だ。そのため、辛い思いをするのは大抵の場合パールの方だった。
エスメラルダは芸術科での交友に加え、王族ゆえの社交場に顔を出すので取り巻きも多い。
一方、パールは医科での知り合いが多くなっていた。教授陣にはその才能ゆえに崇拝の目で見られ、その性格ゆえに可愛がられた。
同輩たち―男子が多かった―からは、羨望と憧れ、そしてほんの少しのライバル心を持って大切な仲間扱いされている。日々成長して美しく輝いてゆく王女に仄かな恋心を抱く者もいないではなかったが、パールがあの超有名な勇者に既に売約済みであることを知っていたので、敢えてその先に進もうとする者はいなかった。
そもそもがお医師を志すような者は控えめで、心優しい傾向が強い。地上ではいざ知らず、ここ海の中では気持ちが純粋でなければ医療の技術を習得することが適わないからだ。一平一筋のパールは無論自分に思いを寄せる者が他にもいようとは夢知らず、また、もしもアプローチされたとしても困ったであろうから、医科の中での今の状況はパールにはとても居心地のいいものだった。
医師の派遣団にも進んで参加するようになっていた。また、パールを名指しで呼ぶ者もかなりの勢いで増えてきたことも状況としてあり、代わりになれる者がいない分、引っ張り凧だったと言えた。
もちろんパールは喜んでどこへでも出向いて行く。自分が倒れることになっても、具合の悪い者を目の前にすると自制が効かない。
昔からそうだった。一平もずいぶんはらはらしたものだ。だが誰より恩恵に与っているのは一平であり、自分だけがいい思いをすることには罪悪感さえ感じるのである。
一平もパールも知らなかったが、その力を引き出し、高めてきたのは実は一平だったのだが。
彼がいたからこそ、一平が生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされたからこそ、パールは己の内に潜む癒しの力を発揮することができたのだ。そしてその力は目には見えぬが少しずつ強まってきている。強い力に耐えられるように身体が丈夫になってきたせいだろう。
癒しの力を求めてパールに出会った人々は、病気や怪我が治ったことはもちろんだが、その力を使う少女のあまりのあどけなさ、そして心優しさをこそ心に留め、まだ王女の為人を知らない人たちに伝えていった。
パールの評判が広まるにつれ、面白くないのはエスメラルダである。華やかな美貌を持つエスメラルダは、自分より劣っているはずのパールが自分より注目されるのが妬ましくて仕方がないのだ。
認めたくはないが、パールは身分も地位も勇者の心をもその手に持っている。それなのにこの上人心まで掌握しようなど、許せるものではなかった。
青科での定期健康診断の折りに衣類を外したパールの身体を垣間見て、エスメラルダの胸にムラムラと不満が沸き上がった。
「もう成人してずいぶん経つって言うのに、相変わらず貧弱ねえ、その胸」
「え…」
唐突に指摘され、パールは思わず自分の身体を見下ろした。
「全く。どうにかならないの?女の私から見ても恥ずかしいわ。ドレスだって映えないし、お乳だって出るんだかどうだか…。一平さまがおかわいそうだわ」
いたたまれずにパールは急いでドレスを引き上げた。トリトニア風のドレスは布地を節約して作るため、シンプルで露出度も高い。多少値の張るものになるとドレープや飾りが多くなる。パールの着用する物は全て王宮でパール付きの女官が選んだり注文したりする。王女という身分ゆえ、どちらかと言えば高価な物を用意されていた。今パールが身に付けているのも、肩からも腰からもドレープの入った襞の多い物だった。細身なので、わざとボリューム感のあるものを選んである。
「その服はいいわよね、あなたには。胸のないのが目立たなくて」
褒めているのではないことはわかりきっていた。
「いいわね、エメラルダは。胸があって。女らしくって…」
惨めに思いながらも、それはパールの率直な感想だった。
「本当に不思議よね。同じ女性でも同じ歳でも、こうもいろいろ異なってくるものかしら。親が綺麗でも子どもも綺麗とは限らないみたいだし…」
エスメラルダが自分のことを当て擦って言っているのはわかり切っていた。いつものことだし、事実だからしょうがない、とパールは甘んじて受け止めていた。
「ねぇ。一平さまはどう言っているの?」
「どう、って…⁉︎」
エスメラルダが何を言いたいのかパールにはわからない。今度は一体どういういじめなのだろうと首を傾げて見構えた。
「そんな子どもみたいな身体で満足しているの?胸がないって嘆かれたことはないの?」
パールとて、大人の女性の身体に憧れている。エスメラルダは自分で言うだけあってボリューム満点の身体だし、母にしたところで十代の身体のラインをほとんど崩されていない。ニーナに至っては、一緒に育ったのにもかかわらず見事なプロポーションが形成されていて、いつもパールは見惚れてばかりいるのだ。エスメラルダの問いにパールは最近一平にからかわれたことを思い出した。
「嘆いた…って言うのとは違うと思うんだけど…」
「やっぱりあるのね」エスメラルダは目を輝かせて身を乗り出した。「勇者だってやっぱり男よ。妻にするには胸が豊かな方がいいんだわ」
「そう…かしら、やっぱり…」
エスメラルダは手を叩いて喜んでいるが、パールはエスメラルダそっちのけで考え込み始めた。
「当たり前よぅ。そんな骨と皮ばかりじゃ抱き締めたって痛いだけじゃないの」
「……」
もう何年も一平に抱き締めてもらうのが当たり前のパールには思ってもみない発想だった。
「でも…一平ちゃんはそんなこと、一言も…」
「一平さまはお優しいもの。それにまがりなりにも王女さまを無下に追い払ったりなんかできないでしょ⁈」
一平が優しいのはその通りだと思うが、でも本当にそうなのだろうか?パールはだんだん不安になってきた。
パールの表情が翳るのを満足そうに見下ろし、エスメラルダは追い打ちをかける。
「あなたみたいなチンクシャ、王女でなかったら一平さまが相手にするはずないじゃない。あなたなんか何の取り柄もないんだから」
「チンクシャ⁉︎」
その言葉は聞いたことがない。悪口だということは想像できるが、どういう意味なのだろうとパールは聞き返す。
ひどい言葉をぶつけてやったというのに思ったほどの手応えがなく、エスメラルダはむっとする。この人は怒ると言うことを知らないのかしらともどかしい。もっと傷つけてやりたいが、説明するのも迫力がない。全くかまととにもほどがある。
「…おまけにうすのろのノータリンね!」
とどめのつもりで侮蔑の言葉を投げつけた。
バールは自分が未熟者だということはいやというほど承知している。だから必死で勉学に励んでいる。崇拝する一平の足元に一歩でも二歩でも近づこうと、一生懸命努力している。
物覚えはよいと教授たちには褒められた。エスメラルダの言うように確かに未発達ではあったが、肉体的には一応成人することができた。自分が幼稚なことは客観的にはわからないながらも、精神面では少しは王女として遜色のない立ち居振る舞いを身に付けている。
それでもぐずであり知識不足なのは否めない。
エスメラルダの言うことは嘘でも誇張でもなく事実なのだと、素直なパールの心は受け入れてしまう。
面と向かってそう言われたことが悲しくて、パールは情けない顔をした。
言葉の意味がはっきりわからなくても、誹謗中傷されていることはわかる。何より、一平が王女でなければパールを相手にしないのだと言われたことが堪えていた。
(ふん。そんな顔したってだめよ。なにさ、可愛ぶっちゃって…)
言い返しもしないので腹立たしい。
(泣きなさいよ!赤ちゃんみたいに泣いて同情を引くのがあなたのやり方でしょ。なんでそうしないのよ⁉︎)
以前のパールならもうとっくにぼろぼろ涙を流していただろう。だがパールは泣かなかった。事実を言われて泣くのは教えに反すると思って我慢していた。
「何よ。その目は…。頭にきたんなら王さまにでも何でも言いつければいいでしょう?私は怖くなんかないわ。私は本当のことを言っただけだもの。あなたなんか偉くも何とももないのよ」
「……」
「あなたなんか大っ嫌い‼︎」
とうとうエスメラルダは言い捨てて去った。
一平がパールを見つけた。主宮の庭園だ。
肩を落として沈み込んだ様子でぼうっと座っている。
声を掛けると顔を上げた。
「…元気がないな⁉︎どうした?」
一平の顔を見て笑顔を見せぬパールは珍しい。
「何か落ち込むことでもあったのか?修練所で。…それとも王妃さまに何か怒られた?」
一平が訊いてくる。
パールは違うと首を振る。
「…なんでもないの…」
一平に言うようなことではないとパールは思っていた。
いつも意地悪をしてくるエスメラルダのことも、何とかしてほしいとか憎らしいとか思ったことはなく、ただ悲しく情けないのだった。
パールは悲しいのは嫌だった。そういう気持ちは快いものではない。そんな時は何か楽しいことを考えるのに限る。
パールは一平に話をせがむ、今日はどんな勉強をしたのかとか、一平の学友たちの面白い振る舞いはなかったかとか。
そのうちにふと思いついて、聞いてみようという気になる。
「ねぇ、一平ちゃん、チンクシャってなあに?」
「チンクシャ?」
パールの質問はいつも唐突なのでさして驚くには当たらない。一平はすぐ答える。
「…変な顔のことをそんなふうに言うけど…。誰が言ったんだ?」
それは言いたくなかった。それに言わなくてもいいことだ。告げ口になる。
訊きたいことはまだあった。
「…パールって…チンクシャ?」
一平は目を瞠く。誰かに言われたに違いないと察する。
「チンクシャっていうのは、もともとはくしゃっとした顔の犬がいて、その犬がチンっていう種類だったところからついた言葉だ。日本語ではな」
パールは図鑑でしか犬というものを見たことがないが、知ってはいた。
「でもパールの顔はくしゃくしゃしてないし、鼻が潰れてもいない。オレは世界中で一番パールが綺麗だと思うし、かわいいと思うぞ」
一平はパールをまっすぐ見つめて真面目に言った。
「………」
「誰が言ったのか知らないが、きっとそいつはおまえをやっかんで言ったんだ。おまえのことが羨ましくて、とって代わりたいけどなれなくて。だからわざと悪口を言って見下げてやろう、そう思ったんだろう」
「エスメラルダはパールになりたいの?」
やはりあいつか、言ったのは、と一平は心に留めた。
「パールはちっとも美人じゃないし頭もよくないし、ペチャパイでぐずでいい子じゃないのに」
「オレの言ったことを聞いてなかったのか?パールは美人だ。最高に綺麗だ。オレはおまえが誇らしい」
「そんなことないよ。ニーナの方がずっと美人だし、パールは一平ちゃんにそんなこと言ってもらえるような子じゃないよ…」
「オレはおまえがばかだとは思わない。とろくさくても、グラマーじゃなくても、オレは構わない」
パールの言う否定的要素は、一平にとってマイナスでもゼロでもなかった。
「でも…でもやっぱり気が利いて、胸も大きい方がいいでしょう?」
上目遣いにパールが言う。
「おまえが気が利いてグラマーになったらそれこそおかしいぞ。そんなのはニーナに任せておけばいい。おまえはいい子なんだから、自信を持て」
一平の賛辞は嬉しい。少しオーバーに言ってくれているのかもしれないが、嘘を言っているのではないことは感じ取れた。でもパールにはまだ気掛かりなことがある。
「でもパールが王女でなかったら、一平ちゃんはパールのそばにいてくれなかったよね⁉︎」
そんな誤解をしているのか⁉︎と、一平は渋面を作った。
「オレはおまえが王女だなんて知らなかったぞ。ずっと」
「あ…」
そう言われればそうだ。バールが王女であることを一平が知ったのは、トリトニアに到着してからだったのだ。
「だが、確かに…おまえが王女でなければ青の剣の守人になることを目指してはいなかったかもしれない。そういう意味では、オレがここにいるのはおまえが王女であるせいだと言えるだろうな」
ちょっとややこしい言い回しになってきたので、一平は話を一気に進めることにする。
「アホなエスメラルダの言うことなんかより、オレの言うことを信じろ。おまえがオレを信じてくれなければ、オレがここにこうしている意味がなくなってしまう」
いつの間にか一平は両手でパールの顔を包んでいた。
「不安なのはオレの方だ。純粋なトリトン族ではないオレを皆同じように扱ってくれるが、それは当たり前のことなのか?そもそもオレにはおまえを嫁に貰う資格などなかったのではないか?オレはおまえにとって頼りに足る、信じるに吝かでない男なのか?」
一平の口振りは真剣だ。普段はおくびにも出さないが、そう考えるのは今に始まったことではないと感じさせるものがある。パールはたまらず一平の首っ玉に抱きついた。
「そんなことない!そんなことないよ!一平ちゃんはパールにはできすぎた勿体ないくらいの人だよ」
「パール…」
「そんなこと考えて…パールのそばから離れて行っちゃやだよ⁉︎ずっとそばにいてよ⁉︎」
―誰が行くか!―
一平はパールを抱き締めて思う。
「…おまえはオレが守るんだから…。だから、少し足りないくらいがちょうどいいんだ。…おまえがニーナみたいにしっかりしちゃったら、オレのすることがなくなっちまう」
「そうなの?」
パールが意外そうに訊いた。
そう言って身を離したパールを再び抱き寄せ、一平は囁く。
「オレたちは二人で一人前なんだ。どっちかが欠けたら、おかしくなっちゃうかもな」
その通りだ、とパールも思う。一平がいなくなったらパールはどうしていいかわからないから。
「一平ちゃん、パールのこと好き?」
一平の口からはっきり好きだと聞きたかった。
「ああ、好きだよ」
何のためらいもなく一平は答えた。
「いつから好き?」
「もう、ずっと前からさ。一目惚れ、してたかもしれない」
確かにあの時、パールのことをひどくかわいいと、一平は思ったのだった。
「ほんと?」
「ほんとだ」
パールはもう泣きそうだった。涙声で言う。
「パールもだよ。パールもずっと、一平ちゃんが好きだったんだよ⁉︎…」
―わかってたさ、そんなこと―
パールの涙を唇で拭った。
ついでに、涙のないところにも口づけた。
最後に唇に触れた。限りなく優しく、壊さないように。




