第二十一章 再会
一平の匂いがする。
パールにはわかる。
この先、そう遠くないところに彼はいる。
付き添ってくれたユリウスとクルトはイルカを連れてきていた。一刻も早く王女を天幕まで連れ帰るために。
パールが騎乗したのは一平に支給されたイルカだ。往きはその背にはニーナが乗っていた。
「一平ちゃん…」
その呟きが聞こえたのか、パールの心の揺れがわかるのだろうか、イルカはスピードを速める。
「ルカおばさん?」
「あんたは鼻がいいね。お姫様にしちゃ。もうすぐだよ、あんたの恋しい人がいる所は。もう二アリエルも離れちゃいない。早く会いたいかい?」
「うん…」
ルカの言わずもがなな質問に、パールは何のてらいもなく頷いた。
「だったらしっかり掴まっておいで」
パールの腕に力が籠るのを待って、ルカはなお一層速力を増した。
「お先にね!モリ」
連れのイルカに声を掛け、一目散に逃げるように泳いで行く。
「あっこら、待て。離れるな」
慌ててクルトが後を追った。
「一平ちゃん」
パールの声がする。
姿はまだない。
だが聞こえる。
帰ってきたのだ。間違いない。
一足先に戻ったユリウスから報告を聞き、一平はフレックと共にパールの出迎えに出ていた。イルカのクリック音が聞こえたような気がして耳を澄ますと、潮に乗ってパールの声が流れてきたように感じられた。
思わず彼は足を踏み出す。
そしてほどもなく。一平の目は捉えた。何より愛しい者の姿を。
―一平ちゃん―
パールの口が自分の名を呼ぶ時の形に動く。
素早くしなやかに、イルカはパールを一平の目の前まで運び、停止した。
「ただいま戻りました」
「ご苦労だった。よくやってくれた。ありがとう、ルカおばさん」
ルカを労い、一平はその背のパールを見上げて言った。
「よく…ご無事で…」その畏まった言い方にパールの瞳が一瞬曇る。「姫さま…」
その途端、バールは顔色を失った。目が泳ぎ、頭を振っていやいやをした。みるみる涙の溜まった目が、声にならない悲鳴を上げているのがわかる。
一平は愕然とした。
「や…。パール…王女辞める…」
あまりにも唐突な台詞にフレックもユリウスも不審がるが、一平の表情は違った。後悔と切なさがないまぜとなってバールを見上げている。
「一平ちゃ…パールと駆け落ちして…」
「パール…」
思わずいつもの呼び方で応えた一平に向かって、パールは堪えきれずに飛びついた。彼の首に抱きつき、嗚咽し始めた。
「…ごめん…」
彼にはわかっていた。バールの態度が豹変したわけを。
「…オレが悪かった。パール…ごめん…」
謝られても、すぐには泣き止めない。それほどに、一平の一言はパールにはショックだったのである。完璧に、一平が遠い所へ行ってしまったような気がした。彼は今まで一度だって、パールのことをそんなふうに呼んだことはなかったのだ。パールのことを目上の者扱いしたことも。
王女奪還軍の総大将という立場がそうさせているのだということはパールにも理解できた。だが、嫌だった。キルアで別れた時ですら、一平はまだこれほどにはパールと隔たりを置いてはいなかったのに。
すぐに駆け寄って抱き締めて、パールの無事を身体中で確かめたかったのに、そうしなかった自分を一平は呪った。立場に縛られ、最愛の人を悲しませた自分の言動を悔やんだ。
彼は言う。パールを抱き締めたまま。
「ブレック…。少しだけ… 三十秒だけ…目を瞑ってくれないか」
全てを理解することができないながらも、フレックは頷いた。この王女を泣き止ませるのは至難の技だと言うことを、部下たちは既に知っていた。それができるのは一平だけだと言うことも。
「承知致しました」
そう言って、ユリウスを促し、一平に背を向けた。
パールの髪を撫で付けて唇で触れた。何度も啄みながらその耳へ、頬へと移動する。
パールが反応する。まだ泣いてはいたが、一平にそんなことをされて動じずにいることなどパールにはできない。そして間近に迫った桜色の唇を、一平はそっと押し包んだ。
もう何年もこうしなかったような気がする。この数日間、どんなに会いたかったか。これほど、離れているのが苦しかったことはなかった。パールの無事をひたすら祈り、狂おしく葛藤に憤悶した日々は、今まで以上にパールのことを欲している自分を自覚させられた日々でもあった。ニーナのようにならなくてはという迷いは、既に一平の中から払拭されていた。
こんな些細な拒絶であっても、一平の一言はパールを絶望の淵に突き落とすのだ。彼女のあるべき姿、生まれた時から備わっていた王女という立場をかなぐり捨てなければ、一平との距離は離れる一方だと、青の剣の守人になることを目指すのなどやめて、今すぐ結婚しなければこの距離は縮まらないと、パールに思い込ませるほどに。
一平はパールを求めた。そしてパールも今までになく激しく一平を求めていた。二人が二人の世界に埋没している間も、時間は瞬く間に過ぎ去っていく。
「副官。もう三十秒はとっくに過ぎたと思いますが、どうしましょう」
ユリウスが小声で言う。
「オレには三十分と聞こえたぞ」
そんな悠長に冗談を言っている状況ではなかったが、ユリウスも笑いを堪えることはできなかった。百戦錬磨の兵と誉れも高い自分の上司が、この素直でいじらしい王女をいかに大切に、愛しく思っているかが間近に感じられ、とても邪魔をする気にはなれなかったのである。
だが、耳に届いてくるやりとりは予想に反したものだった。
「一平ちゃん、ニーナが…ニーナが、パールの代わりに…」
一平の熱い抱擁と口づけはパールを落ち着かせ、いつものパールへと引き戻していた。自分の身代わりに城に残ったニーナのことを、パールはどんなに気に掛けていたことだろう。
「わかっている。作戦なんだ。まずはおまえを連れ出せなければレレスク城に攻め入れない。ニーナのおかげで守備よく運んだ。三時になり次第、侵攻する手筈になっている。ニーナもちゃんと弁えている筈だ」
「ニーナは…ニーナは大丈夫なの?ニーナのことも一緒にやっつけちゃったりしない?」
「彼女は凄い人だ。頭も切れるし剣も使える。オレとレイピアの試合をしたのをパールも見たろう?」
「うん、凄かった。一平ちゃん、負けちゃったもんね。パールどっちを応援していいかすごく迷っちゃったもん。悔しかったけど、嬉しかったのも本当なの」
やはり同等か…と一平は苦笑した。だが彼は言う。
「だから大丈夫だ。オレはニーナを信じている。おまえも彼女を信じて、自分のできることをするんだ」
「この間もそう言ったね。一平ちゃん」
「ん?」
「パーにしかできないことをしろって」
「ああ。そうだったな」
「今の場合、バールにしかできないことってなんだろう?」
バールは疑問の表情を浮かべる。
「オレたちの足手纏いにならないように、天幕でおとなしく待っていることだ」
神妙に、パールは頷く。
「オレは指揮をしなければならない。護衛にユリウスとクルトをつけておく。レレスクを陥としたら、一緒にルカの背に乗って帰ろう」
負ける可能性を微塵も感じさせない面持ちで、一平はパールに言い聞かせた。
三時までにはまだ時間があった。
パールが手元に戻った以上、すぐにでも攻め登りたいところだが、ニーナの件がある。身代わりに城に残ると言い張ったニーナに一平は条件を出したのだ。
― 三時までには必ず脱出すること―
地上であれば狼煙を上げて、遠くにいても脱出完了の知らせを受け取ることもできたが、ここではそうもいかない。刻限を切って双方が全力を尽くすしかないのだ。
三時まではどうあっても動くわけにはいかなかった。戦士の取り決めを反故にすることは重大な規律違反でもある。
(無事でいてくれ…。おまえが自分をどう思うと、パールにとって大切な人であることは変わりない。もっと、自分を大切にしてくれ)
調子のいいことだ、と一平は自分を嘲笑った。
敵地に送り込んでおいて自分を大切にしろとは虫がよすぎている。パールが無事だった代わりに、たった今この時、ニーナは敵の兵に蹂躙されているかもしれないのに。
(パールさえ無事ならそれでいいのか?オレはそんなに浅ましい男だったのか?)
一平の苦悩は尽きない。ニーナを厄介払いできてしめたものだと心のどこかで思ってはいないかと、自分を疑ってかかる。
複雑だった。
だが、これだけは言えた。
恋敵ではあっても、一平はニーナを異性だと思っている。影になどされなければ、バールと同じようなか弱いただの女の子に過ぎないのだ。女性の武器を逆手に取るような真似はできればして欲しくない。
―ええい、迷うな!―
一平は喝を入れる。
(ニーナの言ったように自分のするべきことをするんだ。オレの一言で…オレの采配で気運が決するんだぞ。まずは夜襲の決起だ。ニーナを信じて待つしかない)
もちろん、まだ城内にいるとわかれば救出に行くつもりでいる。
そして出陣の時は来た。
一平率いるトリトニア軍八百の勇士たちは速やかに進軍を開始した。
ロトーの声で部屋に飛び込んできた二人の小姓は、まずは主人の盾となろうと前へ出る。目の前にいる若い女は、姿勢を低くしてこちらの様子を窺っている。髪の色を見る限りでは拘束中のトリトニアの王女であるはずだった。
「陛下…これは…」
「捕えろ!王女ではない!替え玉だ!」
小姓の疑問の声を打ち消し、ロトーが叫ぶ。
が、二人の小姓は主人の命令に従うことはできなかった。
喉笛に矢が刺さっている。ニーナが見つけた的当ての矢だ。声もなく倒れた。
矢は二本しかない。ロトーを黙らせるには他の手段を探さなければならない。増援を呼ばれたらおしまいだ。彼は剣をも手にしている。
鼻の下を伸ばしてはいたが、ロトーは愚鈍な男ではない。手にした剣の構え方を見ても、並以上の実力を持つ者だと窺い知ることができる。丸腰のニーナは圧倒的に不利だった。素手でやり合って敵う相手とも思えない。一平ほどではないががっしりとしており、組み敷かれたら逃れるのは難しそうだ。
ニーナは片時もロトーから目を離さず必死に隙を伺う。警戒する猫のように背中を屈めて、じりじりと立ち位置をずらす。
二人の間に生まれた緊張感がロトーの口から言葉を発せさせない。一瞬の間に二人の部下を仕留められたのだ。並々ならぬ伎倆の持ち主だと認識せざるを得なかった。
この状態はニーナには都合がよかった。今この時点ではニーナの正体に気づいている者はロトーしかいない。外の者は皆ロトーが王女を慰み物にして楽しんでいるのだと思い込んでいるはずだった。このまま静かにしている限り、王のお楽しみの邪魔をしにこの部屋に入ってくる者がいるとは思えない。
ここで果ててもよい覚悟をしてはいたが、今死ぬわけにはいかなかった。ニーナが先に事切れれば、ロトーの口から偽装工作がばれる。ロトーを倒してから、或いは三時を過ぎてからでなければ、どうあっても死ぬわけにはいかない。
「…やれそうね…」
ニーナは先に口を開いた。ロトーの伎倆を認めた口ぶりで。
「貴様もな…」
ロトーの方も、ニーナの度胸と技に恐れ入っている。加えて、女ぶりも充分知ることができた。このまま殺すのは惜しいという気持ちがだんだん膨れ上がってくる。
武器を持たぬニーナに残された武器はもうこれしかない。ニーナを殺さぬ方が得策だと、この男に思わせるしかない。
「私と手合わせしたいと思わない?」
訊いてみる。
「何の手合わせだ?」
(嵌まった!…)
ニーナはしめたと思った。ロトーはもうその気だ。
「剣の手合わせよ。いい前戯だと思わない?」
「騙されぬぞ。相当の腕と見た。剣を持たせるわけにはいかん」
そう易々と剣が手に入るとはニーナは思っていない。
「私、悪い癖があるの。身体を重ねた男とは一戦交えないと気が済まないのよ。どの程度の伎倆の持ち主なのか、知っておきたいの」
「ほう…」
「剣でも私に勝てると言うなら、もう一度してもいいわ」
「生憎だが、ここに剣と名のつくものはこの一本しかないのでな。それは諦めてもらおう」
だが、もう一つの申し出の方は大歓迎だ。目の前の女に逃げ場はない。ロトーは自分の絶対優位を確信して告げる。
「まだ夜明けには間がある…こっちへ来い」
有無を言わせぬ口調にニーナは僅かな抵抗を見せた。
「その剣は向こうへやって」
「よかろう」
交渉は成立した。ニーナは剣を離したロトーに歩み寄った。
ロトーにとっては一度は征服した女だ。そしてロトーがニーナの口の中へ侵入した時、微かに鬨の声がした。
味方が来た。
ニーナはぐいとロトーの舌を引っ張り、力の限り噛みついた。
「ぐ…う…っ」
ロトーの口から声にならない呻き声が漏れる。
顎に渾身の力を込めて引き千切る。
させるかと、ロトーは抵抗する。
が、もうロトーは喋ることはできない。話すのはおろか、息をすることもままならなくなっていた。血で吸血鬼のように真っ赤な口になりながら、舌根は喉に張り付き気道を塞いでいる。
恨みの形相がニーナに向けられる。目の玉が飛び出しそうなほど露出した目がギラギラ光る。死がすぐそこに迫っているのがロトーにはわかった。
が、生きたいという執念は窒息しかけている身体をも僅かに動かした。
泳いだ手が、既に事切れている小姓の喉の矢に触れた。引き抜き、投げつけた。
ロトーの最期を看取るべく瞠られているニーナの左目に、真っ直ぐに突き刺さった。
「きゃあああぁぁ…」
心も身体も極度の緊張に疲れきっている。その中で不意を突き、敵を仕留めた。隙を作ったつもりはなかったが、身体は言うことを利かず、硬直していた。
最後の足掻きの結果をロトーが確認できたかどうかは不明である。しかし、ニーナが衝撃から覚めて我に返った時、確かにロトーは事切れていた。
ニーナは敵の総大将をたったひとりで討ち取ったのだ。
2025年が終わります。
このサイトに出会ったことと、長年一人だけで楽しんでいた創作の世界を共有して下さった方々に感謝を込めて、ありがとうと言いたいです。
明日の投稿は第六部の最終回です。
この一連の作品も残すところあと二部となりました。
共に楽しんでいただければ幸甚です。
感想、評価、ありましたらお待ちしております。
2026年もどうぞ良い年でありますように。




