第二章 影
ニーナと言う女性はパールの影だと言う。
王族一人一人を守るため、敵の目を晦ますために、ここトリトニアでは生まれて間もなく影となる人間が定められる。同じ頃生まれた似たような姿形の同性の赤ん坊を探し出して引き取り、一緒に育てる。
赤の他人の腹から生まれた赤ん坊だ。体格も顔も異なっていて当たり前だ。しかし、共に生活することにより、仕草や表情などはより近いものになる。好みや行動、考えることまで、似通うところまでいかなくても、真似したり察したりすることが容易くなる。それこそが重要だった。
書物はもちろん、肖像画などもない世界では、見知らぬ人物のことを伝えるのは人の口しかない。口伝えでは細かなことまで正確には伝わらないのだから、多少顔形が違ってもまず見破られることはない。名代として、身代わりとして、王族の生命を影から支える仕事を担う者、それが『影』だった。
当然、護衛の術も教え込まれる。一番身近にいるのだ。普段は従者として侍女や侍従の役目を果たしているが、いざと言う時には生命を投げ出しても本体を守る使命を担っている。
ご多聞に漏れず、パールにもニーナという影がいたわけだ。
一般に、そのような任務を負った者たちの忠誠心には目を瞠るものがあった。物心つく前から始められる洗脳教育は、影としての人格を作り上げるのに見事な成果を上げている。
ニーナにとってもパールは世界でただひとり、忠誠を誓う相手であった。その心は国王に対するよりも強い。パールの為なら自分の生命さえも差し出すことを厭わない。終始一貫して主人の行動を見聞きし、心を配り、真似る努力をすることが習い性となっている。
その忠義心に加えて、ニーナにはパールに対する愛情があった。同じ頃生まれても、未熟児であったパールとニーナの成長には雲泥の差があった。心身共にニーナの方がお姉さんであり、そのためますますパールは守られる側に回ることになった。
無邪気なところも気の回らないところもとろくさいところも無知なところも無鉄砲なところも、欠点と思われるものも含めて全てをニーナは愛していた。一平より遥かに昔から、パールひとりを見つめ、パールひとりを守り、パールひとりを愛してきたのだ。
パールが行方不明となってから、心痛のあまりニーナは出奔した。肝腎な時に役目を果たせなかった自分を責め、どんなことをしてもパールを探し出すという目的を引っ提げて、七つの海を渡り歩いた。
潮の噂にパールのトリトニア帰還の報を耳にしてから、一日千秋の思いで帰路を急いだ。パールの姿を見たのは実に四年ぶりだった。
ニーナの感慨は、ひとしおだったことだろう。
パールの抱擁とキス攻めから解放されたニーナは一平と対面していた。
「ニーナと申します。あなたが一平さま?お噂は聞いていましてよ。トリトニアの王女をたったひとりで無事連れ戻した英雄、勇者一平。それがあなたね?」
ニーナは女戦士らしくまっすぐ目を見て問い掛けた。
「その能書きはともかく、一平はオレの名です」
「パールに求婚していると伺ったけれど?」
「…事実です」
取り繕うつもりはなかったが、やはりはにかんでしまう。
「そうなの。パールは一平ちゃんのお嫁さんになるの。ニーナも喜んでくれるよね?」
パールが間に割り込んできて言った。
そんなパールを愛しそうに見つめ、ニーナは応えた。
「ええ、もちろんですわ。おめでとうございます、姫さま。しばらく会わない間に、大人になられましたのね」
大好きな人の祝福が嬉しくて、パールはうふっと笑う。
「でもまだパール本当の大人じゃないの。二本足になったけど、お勉強することがいっぱいあるんですって。だからそれが終わるまではお嫁さんになれないの」
パールの可愛い説明にニーナの顔が綻んだ。
一平に目を戻して言った。
「…パールは昔のままですわ。あなたのお力なのでしょうね。…この子の魂を汚れから守ってくれてありがとう。感謝します」
そんなことを言われるとは思っていなかった一平は面食らった。
ニーナの差し出す手を握り返してから一平は訊いた。
「パールは…昔のままですか?久しぶりに会ったあなたから見て…成長したとは思われませんか?」
「昔のままと言ったのは魂のことですわ。そりゃ、外見は変わりましたとも。でもパールはパールです。私の守りたかった純粋無垢な汚れのない魂、それが温存されていたことが嬉しいのです」
「……」
「一平さま。あなたはパールのどこがお好き?パールのどこを愛していらっしゃるの?」
表面上は穏やかに言っているが、一平はニーナの言葉にほんの少しの敵意を感じ取った。
(あなたにパールの何がわかると言うの?私の方がずっとたくさんパールを知っている。いいことも悪いことも…。たった四年一緒にいたからって…パールのことを自分のものみたいな顔して言わないで)
ニーナが笑顔の裏でそんなふうに思っていたことなど、一平にはわかるはずもない。しかし感じた。これはパールを愛する者同士にしかわからない直感と言うものだった。
一平は迷わず言った。
「全てを…。パールが笑顔でいてくれればオレは何もいりません」
「その言葉…よく覚えておいてね。私も覚えておくわ」
ニーナの瞳は挑戦的だった。
(この人は…)
口にしてはいけないのだと思った。
ニーナがパールのことを、一平にも負けないくらい大切に思い、愛しているのだと言うことを。ニーナ自身もパールに告げるつもりは微塵もないのだと。けれど、パールを傷つける者がいれば絶対に許しはしないのだと、一平は確信した。
王や修練所の教授たちばかりではなく、この影の少女からも自分は資質を試されることになるのだ、と一平は覚悟した。
パールはなんと多くの人から愛されていることだろう。
一平はこの頃つくづくそう思う。
自分は誰よりパールを大切に思っていると自負していたが、ニーナが現れてからはそれも自信が持てなくなってきた。
ニーナに引き会わされてから、一平はパールに言ってみた。
「とても素敵な人だね」
「うん」
「バールはあの人が大好きなんだろう?」
「うん、だぁい好き」
「オレよりも?」
「ニーナはパールの影なの。だからニーナはパールなの。だからパールが一番好きなのは一平ちゃんだよ」
(その理屈は何なんだ?パールはニーナをひとりの人間として認識していないのか?オレのことを一番好きだと言ってくれるのは嬉しいが…)
「でもニーナのことも大好き。トリトニアに帰ってきたら会えると思ってたのにいないんだもん。びっくりしたよ。でもよかった。ニーナも帰ってきて…。ニーナはね、何でもできるんだよ。パールと違って。女だけど剣もできるし、お裁縫もお料理もお勉強も」
「確かにパールよりはだいぶお姉さんみたいだな」
「年はパールと同じなんだよ」
自分が低く見られた気がしてパールはむきになった。
「そりゃ、大したもんだ。一家に一人欲しいな」
「だめ!ニーナはパールだけの!」
「独り占めする気か?」
「ニーナはいいの!…あっ‼︎…」
「?」
パールが急に大声を出したので一平は口を噤んだ。
「一平ちゃん、さっきニーナのこと…素敵な人だって言ったよね。それってまさか…。だめだよ。一平ちゃんのお嫁さんはパールだよ。ニーナのこと好きになっちゃだめっ‼︎」
「………」
そういう発想になるか?と、一平はたらりと汗を吹き出させた。
「ニーナ、きれいだし、強いし、女らしいし…」
だめと言いながら、ライバル(?)の長所を述べ立てているパールが可愛かった。
「…胸もあるし…な…」
いたずら心を刺激されて一平は心にもないことを言ってみる。扁平胸を気にしているパールにはこれは堪えた。悔しくて思わず涙が出る。
「ばかっ‼︎一平ちゃんの意地悪!ばかばかっ‼︎」
小さな握り拳でポカポカ殴ってくる。そんなもの一平には痛くも痒くもない。笑って相手にしないでいると、ぎゅっと抱き付かれた。
「いやだあ…」
パールにとっても一平は全てなのだ。一平を失ったら、きっとパールは抜け殻になってしまう。他の人の方を向いてほしくない。絶対に。
(いじめ過ぎたかな?)
ほんのちょっとからかうだけのつもりが、パールは予測もしない事態を引き起こす。
宥めるために、一平はパールの顔を両手で包んで上げさせた。パールの顔は涙でぐしゃぐしゃだ。
「泣き虫め…」
咎めているのか諦めているのかわからない口調で一平は言う。
「でも、オレは泣き虫も好きだ…」
「……」
パールの顔が一層ぐしゃぐしゃになる。
一平がそっとパールの目元に口づける。実際には涙は海水に混ざってしまうが、涙の後を舐め取ってしまうかのような仕草で、両頬に唇を寄せては離すのを繰り返した。
それでもまだしゃくり上げるパールを膝の上に乗せ、自分の胸に凭せ掛ける。パールが一番安心できる体勢だ。
至福の時が二人に訪れる。時の経つのも忘れ、二人は長い間そうしていた。
パールがうとうとし始める。
それに気づくと同時に、刺すような視線を感じた。
顔を上げた一平の視線の先にニーナが立っていた。
冷ややかな視線が一平の胸を刺す。
―パールを置いて、こっちへ来て―
ニーナの唇がそう動いた。
一平は言われた通りに動いた。
「いつからそこに?」
一平が問うた。
「あなたがパールを泣かす前から」
挑戦的にニーナは答える。
「覗きはいい趣味とは言えないな」
なぜだかニーナに対しては居丈高になってしまう。これがキンタだったら、言葉は同じでも絶対真っ赤になっていた。
「あなたにだけははっきり言っておくわ。私はパールを泣かす者は許さない。パールを傷つける者は抹殺する。それが例え、あの子が好きな人でも容赦しないわ」
ニーナは単刀直入だった。
「オレがパールを傷つけると?」
「その可能性は大よ。あなたは男だし」
そういう意味かと、一平は一種納得する。こういう歯止めは却って必要かもしれないと、ニーナの言うことに感心した。
ニーナが重ねて言う。
「パールを泣かさないで」
「……」
一平には反論の余地がない。からかったのだとは言え、さっきパールが泣いていたのは事実だ。しかし、泣かせようと思ってしたわけじゃない。大体あの泣き虫を泣かせるなと言う方が無理な話じゃないか?
「それは大いに難しい…」
馬鹿正直に答える。
「ふざけないで‼︎」
案の定ニーナは角を出した。
「パールが泣き虫なのは私だってよくわかってるわ。でも、だからといって泣かせていいわけじゃないでしょう?あの子の魂は他人より脆くて壊れやすいのよ。気をつけてほしいと言ってるの」
「ニーナは泣き虫のパールは嫌いか?」
一平が尋ねる。
「そういう問題じゃないわ」
「こんなことを言ったら君はまた怒るんだろうが…オレは…泣いてるパールを宥めるのが実はまんざら嫌いじゃない」
「‼︎」
いきり立とうとするニーナを慌てて押し止めた。
「聞いてくれ。…だからと言って泣かそうと思ってるわけじゃない。これはわかってほしい。ただ…パールが泣くのは単に悲しい時ばかりじゃない。わがままで、自分の都合で泣くことだって少なくないんだ」
「仕方ないわ。あの子はまだ育ってない。子どもなのよ」
「だが、そのままでいいのかな?」
「なんですって?」
パールを否定されたとニーナの柳眉が立つ。
「オレも以前はそうだった。君と同じようにパールに害をなす者は全て遠ざけ、打ち払い、庇ってきた。けれどそのせいで、パールは自分で困難に打ち勝つ努力をする機会を失った。いや、オレの手で奪われたんだ」
(何を言っているの?)
一平の武勇伝は聞いている。簡単にはできないことだと思い尊敬もしたし、実際にその勇者と会ってみてなるほどと納得もした。しかし…。
「…大変態の時も、オレは余計なことをした。パールがひとりで乗り越えるべき苦難に、無知ゆえ手を貸した。過保護、過干渉を地で行っていた…」
「……」
「皆、パールがいつまでも幼いと言う。それは出生児に問題があったからかもしれないが、それだけではないんだ。周りの人間が、パールの成長する場を与えてやらなかったからなんだ」
「私たちが…悪いと言うの?陛下や王妃陛下も含めて、周りの大人たちが…」
「加えてオレもだ。パールは幼いけど馬鹿じゃない。ちゃんと自分で考えて判断できる。コンプレックスがたくさんあるのも、周りが認めて自信をつけさせてやらないからだ。オレはそれでもパールが好きだけど、でもこのままでいいはずがない。いずれ彼女も母親になる。子どものままでは人の親にはなれない」
「…あなたとの子ども?…」
暗い目をしてニーナは皮肉った。
「それは先の話だ。そうあってほしいがそううまくはいかないかもしれない。そのためにオレは自分に磨きをかけるよ。パールに見放されないように」
誠意のある一平の話はニーナにきちんと伝わった。
確かに自分の方にも反省する部分があるようだった。パールの将来を考えれば、世間知らずのまま年をとってしまうのがいいことのはずがないのだ。
ニーナの『泣かせるな』という忠告は既に正当性を失っていた。
しかし『傷つけるな」』の方は譲れない。
心も身体も両方だ。パールは一応成人しているのだ。王女なのでまずちょっかいを出してくる男はいないだろうが、世が乱れれば政治に利用される可能性もあるし、常識や節操を弁えない輩もいないとは限らない。
が、一番の心配は目の前にいるこの男だ。パールに対し並々ならぬ思いを抱いている。そのこと自体は許しても、一歩間違えば野生の狼ともなり得る。しっかりした、人並みでない男だとは思うが、所詮はただの男である。釘を刺しておく必要があり、見張りも欠かせない、というのがニーナの見解だ。
「私、覗きの趣味はやめませんから」
「は?」
唐突に言われて一平は面食らう。
「嫁入り前に変な虫に食われてしまっては大変ですもの」
「変な虫とはオレのことか?」
嫌な顔をして一平が言った。
「他に心当たりがありまして?」
「………」
ひどい言われようだと思った。大事な娘に『虫がつく』とはよく言われる言い回しだが『食われる』ときた。
(そんなに信用できないかなあ…)
「私も、青の剣の守人に立候補しようかしら?」
「え?」
話がコロコロ変わる。
(何だと?)
驚愕に目も口もだらしなく開けている一平にニーナは言う。
「そんなに驚かなくてもいいじゃありませんか。女性が立候補してはいけない決まりでもありまして?」
「いや、それは…」
はっきり言って、ない。
「私、自慢じゃないけど結構剣技には自信がありますの。物覚えはいい方だし、一平さま同様諸海を旅して見聞したこともたくさんあります。お役に立てると思うのだけれど…」
言い過ぎではないだろう。女にしておくには惜しいくらいの気迫をこの少女は持っている。剣技自体は見たことはないが、立ち居振る舞いからもかなりの腕と察することができる。国から一歩も出たことのない一般庶民の男などよりよほど知識は豊富そうだ。加えて頭もよく回る。女であることを差し引く必要など全くないと一平には思えた。
―ニーナが男でなくてよかった―
男だったら、絶対もっと張り合わなければならなくなる。パールのことに限るだけでも、一平とニーナの優劣のバランスは限りなく水平に近くなっていただろう。
真剣に、ニーナが守人試験を受けることに思いを馳せていた一平は三度面食らわされた。
「いやね。冗談ですわよ」
ニーナが軽くあしらったのだ。
「私は国のために働く気などまるでありませんもの。私はパールのためだけに生きてきたの。これからもそのつもりよ。それだけは覚えておいてね。私の恋敵さん」
そう言って振り返りざま、ニーナは一平に接吻してきた。何の前触れもない上素早くて、逃れようという判断すらできないくらいだった。
「な…」
恋敵、と言い切っておきながらなんてことをするんだ、と一平は頭から湯気を立てた。
「口止め料よ。パールには黙っていてあげるから、そのかわりあなたも決して言わないで。私があの子を、あなたに負けないほど愛しているって」
「……」
掴みどころのない奴だ、と一平は思った。
ニーナの真意がわからない。でも、わかるような気もした。
かつて自分も、絶対にパールに知られてはならないと思い詰めていた時があったことを思い出していた。




