第十八章 悪夢
どんなに自分が行きたいことだろう。
自分を総大将に任命したオスカー王が恨めしかった。
こんな立場にいては思うように動けない。
トリーニに出向いていなければ、黙ってパールを奪われたりはしなかった。
目の前に最愛の娘が囚われているというのに、兵を率いることだけを強要されている自分の立場がもどかしかった。危ない目に遭ってはいないか、怖い思いをしてはいないか、心配の種は尽きない。一刻も早く助け出したい。
人質であるからと言って、危険がまるきりないとは言いきれないのだ。まして、パールは女である。しかも幸か不幸か成人してしまった。それが一番心配だった。
―オレを解任してくれ!―
一平はこの場にいないオスカーに向かって悲痛な叫びをあげていた。
動けない自分の代わりにニーナが行ってくれると言う。今ほどニーナを羨ましいと思ったことはない。
昔のように自由に振る舞いたい。他に味方がいなくても、いや、だからこそ、一平は自分の思うままに動き、生きることができた。苦しいこともあったが、今にして思えばそれが幸せだった。
今はそうはいかない。
一平には軍を任された責任があった。
一度引き受けた任務を後から生じたことで放り出すのは許されない。
王もそうだったのか?と思い至る。
たった九歳だったパールの行方がわからなくなって、父親であるオスカーが冷静でいられたわけがないのだ。どんなに探しに行きたいと思ったことだろう。政務を放り出しても探索行に出たいと思ったことが絶対あるはずだ、と一平は思った。三年もの間、他人の手に頼らざるを得なかったオスカーの苦悩が今やっとわかったような気がした。
そして今また、もどかしい思いに王は必死で耐えているはずだ。それを託されたのは一平だ。一平がしっかりしなければ信頼してくれた王を裏切ることになる。
今はニーナに頼るしかない。彼女ならやってくれる。少なくとも他のどの兵士よりもパールを思う情熱には長けている。一平が自ら出向いていけないのなら、次に任せられるのはニーナを置いていないのだ。
ニーナの存在がありがたい。
行軍をレレスクの首都ラウールの近くに進め、レレスク城を二アリエル彼方に見渡せる所で、トリトニア軍は野営した。
奇襲は三時に決まったが、まだ陽は高い。
細かい打ち合わせを終えた総大将の天幕から武将たちが次々と各自の部署へ戻って行く。
見張りと仮眠を交代しながら、奇襲の時を待つ。
先発隊のニーナも天幕をひとつ充てがわれ、日暮れの出発まで休むことになった。
ニーナの天幕は総大将である一平の天幕のすぐ隣である。一平も、先に休んでおくようフレックから強く進められてひとり天幕の中で横になった。
パールのことが心配でとても寝付けないと思っていたが、自分で思う以上に一平の心身は共にに疲弊していたらしい。深くて浅い眠りの中でも、一平は夢に苦しめられた。
どこぞの薄暗い部屋にパールがいた。やけに広い寝台の端に腰を掛けている。
(パール‼︎)
彼女を呼んだ。だが、一平の声はパールには届いていないらしい。パールは一平の呼び声に何の反応も示しはしなかった。
(パール、今行く。そこはどこだ?教えてくれ。オレの声が聞こえないのか?)
一平はかなり大きな声を出しているつもりだった。だが、実際は発されていないのだろうか。今見えているこの姿は夢か?幻か?
目の前に見えるパールは深いため息を吐いた。顔色もよいとは言えない。疲れているのだろうか。
と、不意にバールは顔を上げた。何かを思いついたように。だが、それは室内に他の誰かが入ってきたためだった。顔を上げたパールの瞳に嬉しそうな光が宿る。
「一平ちゃん」
パールが名を呼んだ。だが一平を認識したのではない。パールが『一平ちゃん』と呼んだ人間は一平とは全く異なる姿をしていた。その部屋に足を踏み入れた男は、体格こそ一平に似ていたが顔は似てもつかない。肌の色も髪の長さも目の色も一目見て別人とわかる。だがパールはその男を『一平』と呼び、訪問を歓迎しに飛び出した。
「どこに行ってたの?パールずっと待ってたんだよ」
愛らしい唇が彼にとっては至高の言葉を紡ぎ出す。
男は勝ち誇った笑みを浮かべ、パールを引き寄せて口づけた。一平がいつもしてやるような啄むような優しいキスではない。相手を求め、強引に侵入して己がものとしようという意思表示だ。その口づけにパールは驚きながらも抵抗しない。それどころか、男の身体に腕を回し、ぎゅっとしがみついて、一層の熱い抱擁をねだっている。
(…うそだ‼︎)
自分は夢を見ているに違いない。一平は愕然としてその信じられない光景を眺めていた。
声が出ないだけではない。なぜか身体も金縛りにあったように動きはしなかった。
(やめろ‼︎)
自分では出しているはずの声が虚空に吸い込まれていく。
攫うように素早く、男はパールが最善腰を下ろしていた巨大な寝台にパールを横たえ、覆い被さった。
(‼︎‼︎‼︎)
「あ…」
絶え入りそうなパールの喘ぎ声を耳にしてもなお、一平は目を閉じることができない。こんなものは見たくないのに!目を背けることも禁じられているかのように思うに任せなかった。
パールの口から出るのは一平の名のみだ。パールは完璧にこの男を一平だと思い込んでいる。
(パール!)
(パール、違う!そいつはオレじゃない。オレじゃないんだ、パール!)
(なぜわからない⁉︎まるで違うのに。オレじゃないんだ、パール!!)
(やめろ!やめてくれ!オレのパールをおもちゃにするな!彼女はまだ何も知らないんだ!オレのパールに触るな!その手を離せ!!)
いくら叫んでも届きはしない。
(うおあああっ‼︎)
「一平さま!」
肩を揺さぶられて一平は目を開けた。ニーナが眉を顰めて自分を覗き込んでいる。
―夢…か…―
一平は深いため息を吐き、のろのろと身体を起こした。
とんでもない夢を見てしまった。右の掌で顔を覆い、一平は今一度ため息を吐いた。
「…オレは…何か言っていたか?」
あれだけ魘されたのだ。意味のわかる言葉として何か発していたはずだ、と一平は思う。
「…オレじゃない、と。何度も…」
ニーナの返答にやはり、と思う。
「ひどく…魘されておいででした。私の天幕まで聞こえるほどに」
「おまえの?…そうか…。すまなかったな。ニーナの安眠の邪魔をしてしまったか」
「いいえ、さすがにそこまでは…。私は眠ってはいませんでしたから」
「おまえこそ寝ておかなければならないのに…眠れないのか?」
「…少々…考え事をしておりました。幸い私の天幕に他の兵はおりませんし」
紅一点のニーナに、一平は天幕をひとつ与えた。戦場には不似合いなほど容姿のよいニーナを他の男の兵士どもと一緒の天幕に放り込むのはお互いのためにならないからだ。
「パールは…どうしているだろう…」
気落ちした様子で一平は呟いた。他のメンバーの前では彼は常に背筋を伸ばし、気勢を張っている。同じ天幕のフレックの前でも然り。だがそのフレックも今は天幕を空けている。野営地の見回りから戻り次第、一平と交代して仮眠を取る手筈になっていた。総大将の天幕にいるのは一平とニーナの二人だけだった。
ニーナの前で一平は隙を見せている。愕然とした顔や引き締まった顔にはよくお目にかかるが、この男が悄然としているのにはあまり出会したことがない。一番見かけるのは、パールを見る時の愛情は溢れる優しい表情だ。ただし、この数日、一平の顔からは笑みは姿を消していた。パールを奪われたことは、それほどまでにこの男にとって大打撃なのだ、と今更のようにニーナは納得していた。あなたが一番しっかりしなければいけないのに、何を落ち込んでいるのよ、と尻を叩いてやりたかった。女の前でそんなに女々しい様を晒して恥ずかしくないのか、と。
「…いやな夢を見た…」
独り言のように呟いてはいるが、おそらくニーナに話しかけているのだろう。仕方なしにニーナは相槌を打った。
「左様でございますか」
だが、その先を一平は続けない。やっと口を開いたと思ったら、話の流れは遠くへ飛んでいた。
「ニーナ、聞いてもいいか?…女は…女も…その気になれるものなのか?操られて…身体は別人なのに、求める相手と思い込んで…身体を…喜んで許せるものなのか?」
「薮から棒になんですの?」
「……」
それ以上は言おうとしないが、一平の心の動きはニーナにはわかっているつもりだった。魘されて、オレじゃないと唸りつつ身悶えていた一平。ニーナは敢えて言わなかったが、うわ言でオレのパールに触るなと叫んでいたのをニーナは知っている。それらを考え合わせれば答えは簡単に導き出せる。けしからぬ夢を見てくれたものだ。
「一平さまは本当に私をパールだと思い込んでおられましたものね」
「……」
その話を蒸し返すのはいい加減にしてほしいと一平は眉を顰めた。
「誰もが…できるわけではありません。私があなたに用いたのは龍涎香という薬です。性欲を司る視床下部を刺激する薬と催眠効果で、あなたは私の術中に嵌まりました。心がまっすぐで素直である人ほど催眠術にはかかりやすい傾向があります。しかも私はパールの影ですから。身代わりになるべく育てられた人間です。あなたが勘違いなさったのは決して恥ずかしいことではありませんのよ」
「……」
「でもそれはあなたが男性だから用いたまでのこと。男性にはリードしていただかないと目的が達成できませんから。でも女性を陥とすのにそのような細工は必要ありませんわ。男の方が本気になったら、女の細腕では抵抗できませんもの。無理矢理奪うのなど簡単なことでしょう⁉︎ましてあの子は見るからに細く儚い。手折るのなど実に容易い。いつでもできる」
一平は蒼白になっていた。
「おまえは…パールが…もう⁉︎…」
手遅れになっていると言うのか、とはとても口には出せなかった。
「パールはまだ蕾です。一平さまにはそうは思えないでしょうけれど、目の肥えたロトー王の眼鏡に適うことは、こう言っては何ですが、皆無です。食指は多分動かないでしょう」
「……」
(それはおまえが女だから言えるんだ。そういう食指なら気が遠くなるほどたくさん動いている。それにパールに思いを寄せた男ならいくらでもいた。)
一平は知っている。だが、そう口に出して言うのはさすがに憚られた。
「一平さま」
改まって呼び掛けられ、一平は顔を上げる。
「お怒りにならないで聞いて。もし…もし、万が一、万万万が一そういうことになっていたら…どうなさるおつもり?」
「…決まっている。そいつをぶち殺す」
ニーナの知る限り、今までの一平はこんな物騒なことは口にしなかったし、考えることすらしなかっただろうと思われた。だが、彼は本気だ。黒い瞳は一層の翳りを増し、剣呑な輝きと殺意を浮かべている。
「相手のことではありません。パールのことをどうするのかとお聞きしているのです」
「パールのこと?」
パールの何をどうするのだと、本当に一平は不思議がっている。
「そのことでパールが一平さまを受け付けなくなったらどうなさるのです?」
「……」
そういう可能性もあるということを、今の今まで一平は思ってもみなかった。
「まさか…」
「そういうこともあり得るということです。あなたさまのお覚悟はいかに?」
(パールがオレを受け付けない?パールがオレを受け入れない?オレの妻になることを拒否するかもしれないということか?いや、それどころではない。オレが抱き締めても、口づけても、そばにいることさえ⁉︎)
そんなことは考えたくなかった。考えられない。あのパールが…いつもいつも、縋るようにして一平の後を追ってきたパールが自分を拒絶するなんて…。
「…そんなことにはならない…」
否定したい一心で一平は豪語した。
「たいした自信ですこと」
「おまえはオレたちの五年間を知らない!」
「……」
「パールはオレの全てだ。パールにとっても、オレは世界そのものだった。うぬぼれじゃない。オレたちはずっとそうだった。離れては生きていけないんだ!」
一平の握り締めた拳が小刻みに震えていた。
喚き散らしたいのを必死に抑えていることをニーナは感じ取った。
ニーナは言った。
「わかりましたわ。それをお聞きして安心いたしました。パールはまだ何も知りません。もしも酷い目に遭っていたとしたら、それを癒してあげられるのは一平さまだけなのだということをお忘れにならないでくださいましね。どんなに時間がかかっても、バールはあなただけが頼りなのですから」
もしそうなったとしたら、一平の苦しみはパールの苦しみ以上になるだろう。だが、それでもこの男はパールを愛するのをやめはしまい。そういう男だからこそ、ニーナは一平を恐れ、先手を打つことで優位に立とうとしたのだと、今ではわかる。
男である分、ニーナよりもいたたまれないはずだ。もしパールがレレスクの誰かの手にかかっていたらと、考えない方が不思議なのだ。五年もそばにいてキスより先に進めない一平はまだパールを自分のものにしていない。何も知らないパール自身はそういう心配はおそらくしていないだろうが、知らないが故に機転を利かして逃げることができない。言葉巧みに騙されて呆気なく操を奪われてしまうことだって大いにあり得た。女のニーナにはそういう欲望はなかったが、心配ではある。でも一平にはニーナの数倍も辛いことなのだ。しかも自分は動けないと来ている。
「一平さま…」
思わずニーナは呼び掛けていた。
その口調にいつもの攻撃的な調子はない。剣呑なものを微塵も感じさせないほど穏やかだ。ニーナの呼び掛けに優しい労りさえ感じて、一平はニーナを見つめ返した。
「もう、参ります。必ずパールを救い出します。あなたの代わりに…」
―わかってくれている―
一平は瞬時に悟った。ニーナがいかに一平の状況を心の隅々まで把握しているのか。自分の望みであるとは言え、これは恋敵の窮地を思いやっての申し出であったのだと。
「大丈夫です。パールはそんなにばかではありません。私たちがそう思っていないだけで、実は男女関係の何たるかもとっくに心得ているのかもしれませんわ」
(…そうだろうか⁇)
一平には甚だ疑問だ。
「黒死の病が落ち着かないうちはパールは無事ですわ。心身に動揺を与えては施術もままならなくなります。そのくらいのことはいくら何でも心得ているはずです」
「……」
「すぐに私が身代わりになりますから、ご心配なく」
恋敵に慰められながら、一平はふと思った。
「ニーナ…おまえは…おまえはどうなる?まさかそのまま敵陣に居残って共倒れになろうとは考えていまいな?」
どうしてわかってしまうのだろう、とニーナは内心で愚痴った。誰にも気づかれないはずだったのに。
否定しても信じてもらえない気がしてニーナは言った。
「それも悪くありませんわね」
「冗談ではないぞ‼︎」
笑顔でいなすニーナに一平は本気で怒鳴った。
「勝手に死ぬなど、オレが許さん!そんなことをして命があると思うな!」
「言ってることが滅茶苦茶ですわよ、一平さま」
「茶化すな。そんなことをしたらパールはどうなる?パールを泣かすなといったおまえがパールを泣かすのか?」
ニーナの顔から笑いが消えた。しんみりと言った。
「そうなったら…あなたが宥めてくださいます…」
「……」
一平は絶句する。
「パールが泣くのを宥めるのは嫌いではないはず…」
「ニーナ‼︎」
(そういうことではない。なぜわからない⁉︎)
(死んではいかんのだ。例えパールを救うためであっても、ニーナが死ぬことはパールのためにはならない)
「私は私のできることでパールを助けます。それが私のあの子に対する愛です。一平さまもご自分の責務を果たすことだけお考えくださいまし」
「ニーナ…」
(それではおまえが…おまえひとりが貧乏くじを引く)
パールの身代わりになって城に残って無事でいられる筈がない。ニーナとて妙齢の女性。しかも遥かにバールより男心を唆る容姿をしている。
「男を騙すことくらいなんでもありませんわ。私は平気。好きでもない男と臥床を共にするなど造作もないことです。一平さまはよくご存知のはず…」
一平の懸念が伝わったかのようにニーナは述べ立てる。そう、確かにニーナは目的のためにはどんなことでもやってのけられる人だ。
しかし、それでいいわけがない。ひとりの女性として大切にしなければならないものはあるはずだ。それがたとえ愛する者にとって用をなさないものであったとしても…。
ニーナの表情は厳しい。だが、瞳は安らかだ。固い決心に悲愴な色はない。むしろ喜びに満ち溢れている。
これは一平には決して勝つことができないニーナの勝れる唯一の仕事。パールの身代わりになって苦難をその身に引き受けること。影として生まれ、影として生きてきたニーナにとって、身代わりとなれることは誇りでさえあった。
「必ず…必ず戻ってこい…。おまえがいなくなっては、オレも寂しい」
説得など無意味だ。そう悟った一平は自分でも思ってもみなかったことを口にしていた。
この期に及んで寂しい、とは…。
「邪魔者がいなくなれば、せいせいするのに…」ニーナも負け惜しみを忘れない。「戻ってきたらまた、覗きを続けますわよ」
一平は一瞬瞠った目を細めて言った。
「構わん。…いやと言うほど見せつけてやるさ」
こういうやりとりも楽しみのうちだったのだと今にして思う。
一平は心の底から願った。
パールとニーナの無事な帰還を。
「戦友よ。武運を祈る」
ニーナの誇らしげな微笑みのどこにも、パールに似通ったところは見当たらなかった。




