表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/20

第十六章 塔の中の姫君

 オスカーが急遽一平を少将に昇格させたのは、一平に一国を代表する権限を持たせるためだった。レレスクの王と交渉をする際にトップが大佐では対等に扱ってもらえない可能性が高いからだ。トリトニアはレレスクを軽んじていると受け取られかねない。

 ニーナの出立後、一平は部下を集めて隊を整えた。

 今回トリーニに同行していたのは五十人という小規模隊だ。情報収集が主な任務だったのでそれで充分だったが、今度はそういうわけにはいかない。一国を陥そうというのだ。トリリトンからの増援を待つ間、一平はレレスクの地理を調べ、自軍を編成し直し、陣形や攻守の指示が的確かつ迅速に伝わるよう、暗号の徹底と伝令の精選に力を入れた。もちろん戦闘訓練も疎かにはしない。

 俄か造りの診療所は一夜にしてトリトニア精鋭軍の野営地と化した。


「邪魔をしてすまないな。アーサーどの」

 医師派遣団のリーダーと、一平は膝を突き合わせていた。

「何の。そろそろ我らも店じまいを考える時期でした。姫さまのおかげで通常より早く回復したものが多うございましたから」

「パールは…役に立っていたのか?どんな様子だったのか、聞かせてはもらえないか?」

 最近はとんとパールの施術の様子にお目にかかることがなくなっていた。あの懐かしい旅の間は、彼の力を独り占めしていたものだったが…。

「姫さまは…そう、実に優しく治療をなさいます。まず患者の顔を見、不安を取り除くようなお声を掛けてから静かな瞑想に入り、悪い所を探り当てると歌を口ずさまれます。そのお声はもう、何と例えればよいのか…天使の歌声としか言いようがございません。いやいや、これは私などが説明せずとも一平どのはよくご存知でいらっしゃいましたな」

「そんなことはない。パールの歌は千差万別だし、最近はオレも大した怪我はしていない。それに、癒してもらおうにも王宮を留守にしてばかりだった」

「左様で…。そういえば、一緒に到着されたのに第一中隊の方々はまたすぐご出発でしたな」

 別れた時の笑顔が思い起こされた。あの日、人目を憚り、一平はパールにいつものキスをしなかった。あの日に限って抱き締めてもやらなかった。これはその報いだろうか?

(パール…。どこにいる?…何をしている?…辛いだろうが辛抱してくれ。待っていてくれ。オレが必ず迎えに行くから…)

 愛しい人の姿を見出そうとするかのように遠い目をして押し黙った年若い指揮官を、老医師は痛々しい思いで見つめた。

「撤収の準備が整い次第、我々はトリリトンに戻ります。陛下にご伝言があればお伝えしますが…」

 アーサーを顧みた一平は、しばし考え、こう言った。

「パールに何かあれば、この一平も無事では帰りません、と」

「一平どの、それは…」

 パールを攫ったのがレレスクのロトー王の手の者であるということはお医師たちの耳にも入っていた。一平のこの言は捨て身の覚悟であることを意味していた。最悪の事態になれば差し違えても志を果たすという…。


 アーサーは慌てた。

「…いけません、一平どの。姫さまはもちろん大切ですが、あなたさまもまたかけがえのないお方。皆に勇者とまで呼ばれ、現役の武人の中では一、二の実力を持つお方です。次代の青の剣の守人にはあなたこそが相応しいと、国の誰もが噂しております。投げやりになってはいけません。命をあだや疎かにしては…一度失ってしまったら、あの姫さまでさえ、元に戻すことはできないのですぞ」

「そのパールがいなければ、オレの生きている意味はないのだ、アーサーどの」

「一平どの…」」

 アーサーは喉を詰まらせた。皺深い目から涙が溢れ落ちた。

「一平どの…それほどまでに姫さまを…あの姫さまを思ってくださるか…。声だけではない。あの娘は天使じゃ。助けを求める人に等し並に手を差し伸べる。…おそらくレレスクでもトリトニアの人々に対するのと何ら変わりない態度で人々を癒し続けるだろう。ご自分の身は顧みずにな。そして弱ってしまわれるのだ。…レレスクは姫さまを超人だと考えておろう。だが人一倍疲れやすいのだと姫さまが自ら申し出ることはまずあるまい」

 何を思ったか、アーサーは一旦口を噤んだ。だがすぐ一平の目を覗き込むようにして訴えた。

「お急ぎなされ。手遅れにならないうちに。我らには何をして差し上げることもできないが…。そうだ。軍医は?軍医はもちろん同行されますな?万が一不足でしたら、わが団から参加させましょうぞ」

「今回は五大隊を組んでいます。一隊につき一人の軍医、小隊には衛生兵を六人ずつ配しておりますが、不足と思われますか?」

「いや、正常な配置ですな。ただ、黒死の病が流行っているというのが心配です。くれぐれも感染地には近づかれませんように。薬を持たせて差し上げたいが、残念ながら特効薬なるものは発見されていません。予防は感染源に近づかないこと、それが一番です」

「承知した」

「それと、病気の発症は黒斑でわかります。初めに出るのは胸部です。服に隠れて見えにくい所ですのでお気をつけください。もし万が一感染者が出たらすぐに隔離してください。お医師をつけて少しでも隊から遠いところへやることです。でないと隊は全滅します」

「貴重な諫言感謝する」

 黒死の病に対する対策はまだ考えに入っていなかった。一平は心よりアーサーに礼を言った。

「くれぐれも、お命大切になさいませ。一平どのに何かあって一番悲しむのは姫さまですぞ。お忘れなきように」

「うむ」

 一平の身を心から気遣ってくれているのがよくわかった。これもパールの影響だろう。アーサーはいい人を失って悲しむパールの姿を見たくないのだろう、と一平は思った。

「それはそうと、このアーサー、この頃とんと物忘れがひどくなりましてな。先ほど一平どのは私に何か託されましたかな?」

それまでと打って変わっておどけた表情を、老医師はしてみせた。

 死ぬ覚悟でいたのがアホらしく思えてきた。

「ではもう一度言おう。『一平は必ずパールを連れ帰り、妻にする』と。そう、陛下にお伝えしてくれ」


 キルアの野営地からレレスクまでは目と鼻の先だ。

 それだからこそ、こうも短期間で王女の拉致が完遂できたのだ。

 おそらく医師団はずっと見張られていたのだろう。一平たちトリーニ調査隊がキルアから出発し、第二中隊も引き上げて戻ってくる様子がないのを見届けてから、計画を実行に移したのだ。

 ひょっとしたら、キルアでの妖物の大暴走はレレスクによって仕組まれたものだったのかもしれない。精神を安定させる薬があるのと同じように、気持ちを高ぶらせ、精神を興奮させる薬も世の中にはあると聞く。確かその薬はレレスクの特産品だったはずだ。しかもアーサーの話では、持ち帰って来たチラコッタからは薬物反応が出ていたと言う。

 家畜に匹敵するほどおとなしいと言われている妖物のチラコッタが今回のように暴れて人々に危害を与えたというのは未だかつて聞いたことがない。陰謀の匂いが漂っていることを一平は今更ながらに感じ取っていた。

 レレスクが、癒しの力の主を誘き寄せるためにチラコッタに薬を打ってキルアの人々を襲わせたのだとしたら、それはかなり大掛かりな、手の込んだ悪意に満ちた計画だったと言わねばならないだろう。

 自国の民を守りたいばかりに他国の民を傷つけるなど仁義に悖る。自分たちのしたことを棚に上げて、ポセイドニアの力の均衡を崩したと非難するのは虫がよすぎると言うものだ。パールひとりを手に入れるためにこれほど多くの人々を苦しめるとは、決して許しておけるものではなかった。


 やがてニーナの持ち帰った知らせは、一平の考えを裏打ちするものだった。二、三週間ほど前より、キルアの村に見慣れない男たちがうろつくようになっていたのだ。トリトニア風の服装をしてはいるが、髪の色は薄く、鉤鼻が目立つ。見るものが見れば一目でレレスクの者とわかる面立ちだった。

 妖物のチラコッタを何匹もゲージに入れて連れて歩いているので物珍しく、人々の目に留まっていたようだ。彼らはチラコッタの飼育を手掛けていて、家畜化するための研究をしているのだと宣ったらしい。仲間内で時折集会を開いては、チラコッタでいろいろな実験をしていたという話だ。

 そして例の騒動が起きたと同時に姿を消していた。だが実際は数人が森の中に隠れ潜むようにして居残っていたのである。ニーナはレレスクと隣接するバルルの森の中に彼らの野営の跡を見つけている。

 バラカスという珊瑚の一種が不自然に削られて幾つも転がっていた。バラカスこそが、精神の興奮剤の原料として使われるものなのだ。

 また、黒死の病の蔓延しているのはレレスクの中南部カイザーであり、ロトー王の住まう首都のラウールからはわずかに五十アリエルしか離れていない。早々になんとかしないと国の中枢をやられてしまうことになりかねず、それ故余計にレレスクは焦っていたのだろう。

 パールの行方は明白だった。

 すでに人々の治療に当たっていた。救世主が現れた、とカイザー周辺ではかなりの噂となっている。オスカーやアーサーの指摘した通り、心根の優しいパールには苦しんでいる人々から目を逸らすことなど、到底できはしないのだった。

 そして幸いにも、カイザーの黒死病患者の数はそう多くはなく、手遅れだった者を除けば、重症患者の施術は五日ほどで何とかなったのである。だが黒死の病には潜伏期間というものがあり、顕著な症状がまだ現れてはいないが病気を保持している者がいる可能性が大きい。

 様子を見る間、休養と監視のため、ロトーはパールを一旦ラウールの王城へと移送させた。現在は来賓として併設の塔に迎え入れられ、手厚くもてなされていると言う。

 レレスクの民はそのように受け取っているが、実際は人質として幽閉されているのと変わりなかった。


 キルアで倒れたパールが意識を取り戻した時には、既に彼女の身柄はレレスクの国内であった。

 王城の一室で、パールはレレスクの事情を聞かされ、言葉巧みに施術の要請を承認させられた。即日のうちに一個小隊の護衛を付けてカイザーに送られている。

 カイザーでパールが目にしたのは悲惨な光景だった。黒死の病を目にするのは初めてだったが、パールの目には患者の上に死相が見えるのである。身体の中を診る修業をしていない者から見てさえ、顔も身体もどす黒く、痩せ細って皺深くなってゆくので、家族の嘆きもひとしおの病だ。しかもこの病はすぐにも感染ると言われているので、なるべく患者とは接しないように、と言うお触れも出ている。そのために、患者自身も非常に寂しく辛い思いをしているのだ。

 パールはこれらの患者を一箇所に集め、まとめて治療することを提案した。一軒一軒訪ねて回るという無駄な時間を省略したのだ。その方がより多くの患者を診ることができるし、患者同士励まし合うこともできよう。

 とは言え、パールにできるのは患者の回復を願い、ひたすら祈ることだけだった。その歌声が一体どんなからくりで病気に作用するのかは本人にもわからない。だが、特効薬のないこの病には、それしか対処法がなかったのだ。

 パールは心を込めて歌い続けた。

 毎日毎日…。


 ―疲れた…―

 収容されたロトー王の居城の塔で、パールは横になった。

 睡魔はあっという間に襲ってきて、翌朝までパールは泥のように眠り続けた。

 目覚めた時に目に入ったものは見慣れぬものばかりで、パールは目をぱちくりさせる。

 ―ああ…―

 自分の置かれている状況を思い出し、朝から深いため息が漏れた。

(一平ちゃん…)

 まず思い浮かんだのは一番慕わしい人の顔である。施術に明け暮れている間は思い出す余裕とてなかったが、本来ならもう二人ともそれぞれの任務を終え、トリリトンで再会しているはずだったのだ。

(疲れたよ。一平ちゃん…)

 ぐっすり眠りはしたが、パールはまだ疲れていた。身体ももちろんだが、精神の方がより辛い。今回パールが治療に当たった黒死の病は、その名の示すごとく、見た目も醜く、内状も非常に恐ろしいものだった。パールの目に映る患者の生気―オーラ―の色が、今まで見たこともないほどどすぐ黒く、どろどろと患者を取り巻いていた。そうなるともういくらパールでも助けようがない。死相となって現れるこのオーラを取り除くことまでは、パールにもできない。パールの癒しの力は未知数だらけで熟しておらず、完成されたものではないのだ。

 そしてそのオーラは、パールには痛かった。

 実際には何の症状も起こしはしないのだが、ズキズキと浸透するような痛みを感じ、ともすればオーラに取り込まれて捕まってしまいそうな錯覚にも襲われるのだ。力があるが故に体感しなければならなかった病への恐怖を、カイザーの地でパールは初めて実感していた。

 今までは病に対して恐怖を感じたことはなかった。患者を救えないのではないかという不安で押し潰されそうになったことはあるが、病が自分に迫ってくる恐怖は感じたことがなかった。死を伴う伝染病であるからだと言うことと、自分に力がついてきたせいだと、パールは後になって分析するが、今はまだそこまで思い至らない。昨日までの経験を思い返しただけで身震いがするほどだ。人の死に目に会ったこともほとんど初めてだと言ってよかったのだ。

 だが、それをパールは誰にも言えない。

 一平やニーナはもちろん、施術の時にいつもそばについていてくれた医科の教授たちからも引き離され、たったひとりで異国の地にいるのだ。レレスクの人々は一応丁寧に接してはくれるが、決して気のおけない相手と言うわけではない。心を込めて、と言うよりは、一線を画して応対するように心掛けているように見える。

 ざっくばらんな気風のトリトニアの民であるパールには、どこか冴えざえとして感じられるが、王女という自分の立場を考えると身内に対するような砕けた態度を取るわけにもいかず、そういう点でもストレスを感じていた。


 ―おはよう。パール―

 一平の笑顔を思い出す。

(会いたいよ。一平ちゃん…)

 もう何日、彼の顔を見ていないだろう。キスもしていない。あの暖かい胸の力強い鼓動を聞くこともできない。

 パールは己が腕を自分の身体に回して抱き締めた。寒さを凌ごうとするかのように。寒いのは身体ではなく、心だったが。

(…帰りたい…)

 その望みが叶うとは、さすがにパールも思っていない。気を失ってはいたが、力づくで強引に連れてこられたことはわかっていたし、レレスクのロトー王にも、自分は人質だ、と言われている。

 ―人質―

(どうして?)

 パールは思わずにはいられない。

 自分は何も悪いことをしていないのに。

 どうして、人質などと言うものとして扱われなければならないのか。

 一国の王女である以上、そうなる可能性も一般庶民よりは高い。

 だが、トリトニアは充実した国だ。どこの国からも、ここ何十年と戦を仕掛けられたことはない。一体、レレスクとトリトニアの間にどんな軋轢があったと言うのか。

 レレスクにしろガラリアにしろ、自分そのものを求められているのだということを、パールは実感してはいなかった。

 レレスクは何かの揉め事を有利に運ぶために自分を人質に取り、そのついでに施術に使役した。パールはそのように考えていた。自分がどんなに偉大な力を身の裡に携えているのか。トリトニアのみならず、各国がこぞってその力を必要とし、何とか手に入れようと画策し始めているということを、パールはまるで自覚していなかった。


 施術をするのはいい。

 ぐったりと元気をなくした人々が自分の行為で回復するのを見るのはいつだって嬉しい。施術に入ると自分が疲れているのも忘れてしまう。自分の力を求められるのは喜びだ。

 患者からのありがとうの一言、教授からのよくやったという評価の言葉を聞くと、思わず笑みが溢れる。そして何より、それを報告した時に見せる一平の優しい笑顔と労いの言葉…。

 ―疲れたろう?ここへきて休め。ご苦労さん。パールは偉いな…―

 そう言って、ふんわりと抱き寄せてくれる一平のあたたかさ。それさえあれば、バールの疲れは吹っ飛ぶ。少なくとも精神的な疲労からは一気に解き放たれる。

 だが、今はそれがない。

 顔を見ることさえ許されない。

 一体いつまでここにいればよいのだろう?

 自分はトリトニアに帰してもらえるのだろうか?

 パールの胸を不安が過ぎる。

 このまま一生レレスクに留め置かれることになるのだろうか?

 レレスクの人はパールに詳しいことを話してはくれない。

 おまえは人質だと、ここにいる間は癒しの力をレレスクのために役立てろと、それだけだ。

 逃げ出すのは不可能のようだった。

 パールは隔離された塔の一室にいる。トリトニアのパールの部屋の四倍はある広い部屋だ。

 部屋の出入口には、トリトニアとは違って金属製の扉が嵌められ、施錠されている。窓はあるが、そこにも金属の格子が嵌まっていて、いかに細身のパールと言えど抜け出ることはできない。非力故、どちらも壊して出ることも叶わない。

 だが、部屋の内部は華美と言ってよいほど美しく整えられ、何不自由ないように造られている。パールが横になっていた寝台も、一人では必要ないほど幅広で大きい。

 何もかも広すぎ、大きすぎて、パールには落ち着ける環境ではなかった。

 侍女も側にいないので人恋しさは募るばかりだ。

(あの時キスすればよかった…)

 キルアで一平と別れた時、パールの頭をニーナの一言が過ぎったのだ。

 ―一平さまともほどほどになさいね。特に人前はだめよ。はしたないと思われるわ―

 このままずっと一平と会えなくなるのなら、誰にどんなにはしたないと思われたって構わなかったのに。

 パールは後悔していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ