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第十三章 遠雷

 ナシアスは玉砕した。

 ニーナの平手打ちを手土産にジーへと帰国した。

 二週間の間子どもに返ったように明るく振る舞い、充電整った一平も、再び多忙な日常へと戻り、精進していた。

 夏になると、ポセイドニアの上空でも雷が鳴る。空はどんよりと曇り、海は荒れ、魚たちは避難場所を求めて右往左往する。

 海の底でも、普段より薄暗くなる。少しの光を増幅して明るさを感じることのできる海人たちにとっても、微妙な変化が感じられる。子どもは特に海上に出てはいけない決まりになっていたが、こういう時は大人も滅多なことでは海上には出向かない。

 そもそも海人たちは海上に用などないのだ。国外へ出れば星で方向を確かめることも必要になるが、ポセイドニアの中においては大体匂いで方角を感知することができる。海人が海上へ赴く主な理由の一つは漁であった。時間や季節によって、海面近くには決まった生物が集まってくる。それを狙って遠出するのだ。

 どこかでゴロゴロと鳴る雷の音は、女子どもに漠然とした恐怖を与えることが多い。パールも当然、そのひとりだった。

 その日も医師団のメンバーに加わり、パールは王宮広場にお医師たちと軒を連ねていた。これから出発だというのに遠雷の音が時々届いてくる。パールはその度びくっとしながら両手で耳を塞いでは震えていた。

「パール君はそんなに雷が嫌いだったのかね」

 お医師の中でも年若い医師のセレムが言った。

「セレム尊師(せんせい)…。ええ、嫌い。怖いもの。あの音を聞くと、黒くて大きな妖物にどこかへ連れ去られそうな気がするんです。…ああ、やだ。また…」

 パールは身を縮めて、ぎゅっと目を瞑った。

「困ったことだね。それではまともに泳げはしないではないか。今回は軍の方々と一緒だというのに足手纏いになってしまうよ。誰かと替わってもらうかね?」

「いいえ!大丈夫です。行軍が始まる頃には雷も収まりますわ、きっと。そうしたらちゃんと泳げますから。今だけ勘弁してください」

 交代を仄めかされると、パールはきっぱりと顔を上げて拒否した。パールには、どうしてもこの派遣団に籍を置きたい理由(わけ)があったのだ。


 それより二日前、トリトニア北東部のレレスクに近いキルアという小さな村で大きな事件が起こっていた。偏在のバルルの森に住むチラコッタという妖物が大暴走して、人々を恐怖に陥れたのである。

 チラコッタは猫くらいの大きさのサンショウウオに似た妖物で、鰓の脇の袋に毒を持っているが、普段はおとなしい性質をしている。こちらから攻撃したりしなければ噛み付いたり毒を撒き散らしたりすることはなく、その肉は柔らかくて美味なため家畜化にする計画があるほどの、妖物の中では一、二を争うほど害の少ない生物だった。

 そのチラコッタが集団で大暴走したバルルの森から、大量のチラコッタが村に入り込み、人々に飛び掛かり、噛み付き、毒を撒き散らしてうろつき回ったのだ。チラコッタの毒は自分には効かないが、海人たちにとっては猛毒だ。大して鋭くはない歯も、尋常でない力が加わったことで凶器と化していた。バルルの森に隣接するキルアの村は壊滅状態になっていたのだ。数少ないお医師もほとんどが怪我人になっていて、絶対的に数が不足している。

 急を聞き、オスカーはキルアにお医師を派遣することにした。チラコッタの鎮圧のため、軍隊も発動された。

 五十人ずつ二個中隊の計百名だ。その中に一平もいた。第一中隊の隊長であり、ヴァルス中佐率いる第二中隊をも束ねる総隊長。すなわちこの行軍を率いる責任者だ。行軍のトップを務めるのは初めてである。ひとえに一平の特技を買われての抜擢だった。

 隊長が二人いるのは任務がもうひとつあるからだ。キルアでの鎮圧が一区切りしたら、一平の隊は部下と共にトリーニへ移動、ガラリアとペニーノの動向調査に向かうことになっていた。キルアからトリーニへはおよそ一日半の距離であったが、そちらの方は極秘任務であり、表向きは物見処の監査と要員の交代だった。

 医師団と軍隊が同時に同じ目的地へ出発する。こんな好機を自ら振り捨てるのはパールにとっては愚の骨頂であった。せっかく一平ちゃんと一緒に行くことができるのに、雷くらいで怖気付いてどうするの!と、必死で自分を奮い立たさせていた。

「そんなに嬉しいかい?軍隊が同行するのが」

「はい!」

 セレム医師の問いにパールは即答した。

「そりゃあそうだよなあ。あちらにはパール君のいい人がいるんだ。しかも総隊長だろう⁉︎」

 もうひとりの若手のペパー医師が揶揄した。パールの代役など誰にも務まらないのはわかっているのに、代わってもらえとはセレムも人が悪いと思いながら。

「うふっ…」

 一平が総隊長、というのがパールには誇らしく、たまらない。きっと一番目立つ位置にいるだろうから、雄姿を見るのも難しいことではないだろうと、期待に胸膨らませている。

「どうせなら一緒に乗せてもらったらどうかね。彼の騎乗するイルカに。その方が雷も怖くないだろう」

「そんな…やん…」

 無理とは知りつつ、セレムの言ったシーンを想像して、思わず恥らった。

「……」

 二人の医師は呆れて見ている。素直すぎてからかいがいがない。この少女は、あの勇者にベタ惚れなのを隠そうともしないのだから。

 ゴロゴロゴロ…。

 遠雷が近くなる。

「ああっ、いやっ…」

 今度は耳を塞いで身悶えした。

 気持ちを揺さぶられないではない光景だ。そっと抱き寄せて庇ってやりたいくらいだが、今回ばかりはそうできない。万が一にもかの有名な『勇者』に見られでもしたら…。身の安全は保証されないかもしれないのだ。一平の勇猛果敢な部分しか知らない大方の人はそう思ってびびっている。

 結局イルカに乗せてもらうことはせずに、パールは医師団に混じって出発した。


 位が上になるとイルカに騎乗することを許される。斥候と伝令部隊にも支給される。イルカは海で最速だからだ。海人を乗せて泳ぐのに適した体型と大きさでもある。荷を運んでもらうこともあった。

 地上での馬と人間の関係に似ていたが、馬と違ってイルカは、海人と話を通じさせることができる。海人たちの都合のいいように使役するためには、契約をして軍の中に入ってもらわなければならない。互いの縄張りを侵さないこと、助けが必要な時は助力を惜しまぬこと、という決まりが取り交わされていた。   

 イルカというとやはりパドを思い出す。

 一本気で自分勝手で情に篤い奴だった。

 ペンタクスではお姉さんに会えただろうか。追いかけてこないところを見ると、手に負えない病ではなかったのだろう。きっと今頃はかわいいお嫁さんを見つけて、子どもたちと仲良くやっているのに違いない。

 そんなことを考えながら、一平は自分に支給されたイルカに近寄って行った。

 イルカは雌だった。もう子どもも育て上がり、自由気儘にやっていると言う。雌には珍しく大柄であった。

「たくさん産んだからね。丈夫が取り柄だよ」

 と、いかにも肝っ玉母さんらしい口振りで初対面の挨拶をして寄越した。一平のガタイがいいので選りに選りすぐった人材―いや、イルカだ―であった。

 一平は自分が人より大きいのでイルカに負担がかかるのではないかと危惧していた。体力も持久力もいい線いっているという自負もあった。丈夫が取り柄なのは自分も同じなのに、隊長だからといって自分だけイルカに騎乗するのは無駄に思え、なおかつ気が引けたのである。

 副隊長のフレックにその疑問を投げかけているとイルカは言った。

「私ゃ楽しみにしてきたんだけどね。噂に高い勇者どのの騎イルカに、ってことで呼ばれたから、孫の顔を見に行く予定を取りやめてこっちに来たんだ。それであんたに干されたんじゃ、私の立場がないよ」

 二人は顔を見合わせた。歯に衣着せぬ物言いとその剛毅な頼もしさに知らず笑みがこぼれた。一平はイルカに名を尋ねた。

「ルカだよ。みんなルカおばさんと呼ぶね」

「ではオレもルカおばさんと呼ぼう。敬意を込めて。少々重いが、よろしく頼む」

 出発、と一平の号令の下に、トリトニア軍と医師派遣団の総勢百二十人はキルアに向け進軍を開始した。


 キルアでの惨状は酷いものだった。

 人口三百人弱のこの村の人間のほとんどが、何かしらのチラコッタの被害に遭っていた。

 到着するなり、お医師たちは治療に忙殺された。村の集会所を臨時の診療所としていたがとても収容しきれない。軍人の手を借りて、怪我人を症状別に運び込み、手当てにかかるが、予想以上に難航した。

 一方、一平は第二中隊に病人の搬送を任せ、自分の隊を率いてチラコッタの鎮圧に向かった。キルアの村には既にチラコッタの姿はなく、次なる獲物を求めて他の地へ移動した可能性が高かったからだ。鼻の利くイルカの助けを借りて移動先を突き止め、直ちに追跡を開始、三時(さんとき)後には隣村であるチュルリの手前二十アリエルのところでバタバタ倒れているチラコッタの集団に出会した。

 チラコッタは悶絶して事切れたように見えた。薬の切れた中毒患者の末路を思い起こされる苦悶の表情を浮かべていたのだ。退治しようとしていた妖物であっても、その様は哀れを誘った。

 何匹かはまだかろうじて生きていて、泡を吹きながらも必死で生き延びようと戦っていた。

 医師ではない彼らにはどうしてやることもできず、また元気になって暴れられても困るので、楽にしてやることしかできなかった。原因究明のために一体だけをキルアに持ち帰った。


 今回の医師派遣団のアーサー医師にチラコッタの解剖と調査を依頼し、念のためバルルの森の巡回を行った後に、一平たち第一中隊は次の任務地に発つことになった。

 まだキルアに到着して、一日も経っていない。あまりの展開の速さにパールはついて行けなかった。お互い大事な任務を胸に、真摯に受け止めて、キルアの人々に心を砕いてはいたが、恋しい人と一緒だという浮わついた気持ちはどうしても消せないものであり、夜になって一段落ついたら少しは話もできるだろうとパールは密かに期待していたのだ。それなのに一平は少しの仮眠を取ったらすぐ出発してしまうと言う。

 ガラリアの一件は表立って動くことができないせいもあって、調査が遅れていた。ここへ来て、やっと一平も動くことができる状態になり、可能になったからには一刻も早く調査しておきたい、というのが偽らざる気持ちだった。またパールにちょっかいを出されてはたまらない。だが、そんなことはパールには知る由もない。せっかく一緒に来たのに…とがっかりし、次にムラムラと欲求が高まり、それなら今のうちに会っておかなくちゃ、と一旦就いた床から抜け出して第一中隊の駐屯地へ足を向けた。

 駐屯地では既に出発の準備が慌ただしく整えられていた。天幕を畳んだり食事の後始末をしたりと忙しく立ち働く軍人たちの中に、パールは必死で愛しい人の姿を探した。

 一平の姿はすぐに見つかった。パールにはいつも一平のいる所からは、リンという涼やかな音色が発されているように思える。耳を澄まし、目を凝らすと、一平の姿が目に入ってくるのだ。

「いっ…」

 思わず駆け寄ろうとしてためらった。

 彼は真剣な顔で、部下の人たちと何かを打ち合わせている。

 邪魔をしてはいけないと思った。

 急に一平が遠い人になってしまったような気がして、胸が苦しい。

 近くにあった岩場に寄りかかるようにして身体を支えた。

 確かに疲れてもいるのだ。丸一日泳ぎ続けて休む間もなく治療に入り、それでも尊師がか弱いパールの体調を気遣って先に休むように取り計らってくれたのに、それすら切り上げてのこのこ余計なことをしに出てきたのだから。

 縋るような目をしてそっと一平を見つめるパールに副官のフレックが気づいた。一平はパールの方からは斜めに背を向けていて、話に集中しているために全く気づかない。フレックは集まっていた伝令への指示が終わるや否や、一平に耳打ちしてパールの存在を知らせた。

 一平がはっと振り返る。その目に誰より大事な人の切なそうな姿が映る。

(パール…)

「先ほどからずっとこちらを見つめておられました。ここは私が預かりますから、少しご一緒されてはいかがですか?特に軍規に触れることでもありませんし」

 フレックは部下ではあるが、軍においては先輩である。年も一平より重ねている。一平と王女の仲については誰知らぬものとてない公然の秘密である。むしろ同行していて接触がまるでないということの方が不自然極まりなかった。初めての重責に、この勇者もかなり緊張し、必要以上に重圧感を跳ね除ける努力をしているのだと感じ取っていた。

「あのままでは姫さまの方にこの後支障が出ましょう。かまってもらえなかったとなると、女性はこちらが思っている以上に不満を感じると言いますからな」

「……」

「それほどの時間もございません。さ、お早く。声をかけてあげていらっしゃいませ」

「フレック…」

 罰が悪そうに頬を緩め、一平は部下に背中を押されて泳ぎ出した。


「パール…」

 優しい声がパールを呼ぶ。

 こっちに来てくれるなんて思いもしなかった。王宮の中であれば…三の庭や自分の部屋など私的な空間であれば当たり前のことが、ここでは奇跡に思えた。一平が任務を置いて自分の所へ来るなんて。

 嬉しいのに、パールは岩場の陰から出て行くことができない。足が竦んで震えて、まるで初めて好きだと告白しようとする純情な乙女のように、パールは全身固まっていた。

「…そんなところにへばりついてないでこっちへおいで」

(行きたいよ。でも行けないよ。行っちゃいけないんだよ。一平ちゃんのお仕事の邪魔しちゃ…)

「…ごめんなさい…」

 思わずパールは謝っていた。自分の行動をものすごく軽率だと思った。一平は忙しくて気がつかなかったのに。あの部下の人が気がついて勧めてくれなかったら、自分なんかに煩わされずに済んだのにと。

 パールの様子がいつもと違うことに一平は心を痛めた。今回一平は意識してパールが同じ隊にいるということを気にしないようにしていた。彼とて嬉しくなかったわけではない。むしろ心の底ではにやけていた。医師派遣団に加わっている時のパールは、今まで一平にとって手の届かない存在だったから。パールがどういう人たちに囲まれてどのような施術を行ってどんなふうに輝いているのか…。それを見ることのできるチャンスが初めて巡ってきたのだから。

 一方で、そんな不謹慎なという思いもある。自分が向かう戦地では、三百人もの人々が助けを持って苦しんでいるのだから、そんな浮ついた気持ちではいけないと、厳しく自分自身を嗜めた。しかも今回は一平にとってはじめての責任者としての仕事になるのだ。自分の肩に多くの期待がかかっている。へまはできないし、したくもなかった。パールの前で格好悪い姿を晒すのも御免だった。

 だから、努めてストイックに自分を律していた。王宮での朝餐でパールに会ったきり、瞳を見交わすことも言葉をかけることも、敢えて一切しなかった。パールが施術のために飛び回っているのを遠目に拝すだけにして、彼女に会いそうな医師団の方には極力近づかないようにしていた。

 パールはそれを敏感に感じ取っていたのに違いない。いくらお役目第一だとわかっていても、あの天真爛漫なパールが寂しい思いを感じずにいられるわけがない。

 そして今夜も一平は、無意識にパールに会わないで済む出発時間を選んだ。未練が残るからだ。少なからず期待しているであろうパールのががっかりする顔を見たくなかったからだ。


 だが、今のパールの顔を見て、それはもっと残酷なことだったのだと一平は知る。

 会いたいのに我慢をしてひとり耐えて、そっと自分を見つめる。そんなパールにはこの方であったことがない。一平の前ではいろんな顔を見せるパールであったが、これほど切ない、心締め付けられる表情に出会したのは初めてのことだった。

 一平はほんの数分前の厳しい表情からは想像もできないほど穏やかな微笑を浮かべていた。手を差し出してもいつものようにその胸に抱きついてこないパールを暖かく見つめ、ゆっくり近寄った。

 パールは目に涙を溜めて一平を見上げている。瞬きも惜しんで、恋しい人の姿を瞳に刻んでいる。

 一平はパールの手を取った。岩場の陰からそっと引きずり出し、右の手でパールの左手を、左の手でパールの右手をしっかりと握り締めた。背丈の差を縮めるために屈み込み、間近に顔を寄せて囁いた。

「トリーニに行ってくる。おまえはここで自分の務めを果たせ。オレはいつでもおまえのことを思っているから。だから頑張れ。おまえにしかできないことを。オレもオレにしかできないことをしてくる。おまえのために…」

(パールのため?)

 極秘任務を明かすわけにはいかない。例えパール本人にでも。

 不思議そうな顔をするパールの手を一平は持ち上げた。唇を寄せ、啄んだ。もう片方の手にも同じことをした。

 パールの全身に震えが走った。唇にされた時以上に鮮烈な何かが彼女の身体中を走り抜けた。

「天幕まで… ひとりで帰れるか?」

 額を合わせ、青い目を覗き込んで一平は言った。

 パールは微笑んで答えた。

「うん」

 よし、と一平の目が笑う。

 パールは思わず一平に抱きついて、キスを返そうとした。だが突如、ここが戦地にも等しく、周りに多くの人が立ち働いているということを思い出した。

 ―ここは人前だ―

 名残り惜しそうに握って離さない一平の手を、パール自ら振り切って地を蹴った。

「いってらっしゃい。一平ちゃん…」

 小さく手を振りながら、バールは自分の天幕へと泳ぎ出した。

 その姿が見えなくなるまで黙って見送る一平の姿を、フレックをはじめ第一中隊の面々はほのぼのとした思いで見守っていた。

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