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第十一章 手合わせ

 武道会が終わって十日後、一平の昇進祝いとナシアスの歓迎会を兼ね、オスカーは小さな宴を催した。家族ぐるみと規模は小さい。一平があまり大袈裟にしないでくれと頼んだせいもあるが、オスカーとて元々が派手は好まぬ。パールの成人祝いの時にこじんまりとできなかった分、気楽な宴を楽しみたいと思ったのだった。

 使いをやってナシアスを逗留先の宿屋から呼び寄せると、彼らには馴染みの深い三の庭を使用したガーデンパーティーが開かれた。


 娘の命を救ってくれた青年にオスカーは大変興味を示した。

 一般庶民が王宮に招かれることはあまりない。トリトニアのように他国に比べ質素な造りの宮殿であっても、人々が普段生活している場所の何倍も広く大きい。人も多く規律も厳しい。一歩足を踏み入れただけで気後れしてしまう者も少なくないような場所だ。

 だが、ナシアスにはそんな様子はまるで見られなかった。何恥じることなく堂々と、王宮の通路を闊歩して三の庭まで辿り着いた。案内の侍女をからかったりする余裕まであり、大胆不敵で場慣れしていた。

「おぬしがナシアスどのか。オスカー三世だ。この度は娘たちが大変にお世話になったそうだな。まずは心より礼を言いたい。本当にありがとう」

 国王自ら近寄り、両手でナシアスの手を包み込む。気取りのないその様子にナシアスは目を丸くした。庶民的で飄々とした王だと聞いてはいたが、なるほどその通りだと納得した。

「一平どのとも互角の腕前だとか。ぜひ後で披露してもらいたいものだが、受けてもらえるかな?」

「仰せの通りに」

 ニーナから見れば無礼千万な男だったが、公式の場できちんと話せない人間ではないようだ。武道を収めるには、精神修養や厳しい戒律、礼節を学ぶことも必要になるので、当然と言えば当然であった。

 それは楽しみだ、とオスカーは実に嬉しそうに頷いた。

「トリトニアで一番の地位にありながら、私は娘ひとり守れない不甲斐ない親だ。生まれた時に命を拾ってくれたのも、行方知れずの娘を連れ帰ってくれたのも、今回のように危険を回避してくれたのも、皆赤の他人であるおぬしたちの功績だ。いくら感謝してもし足りないのだ、私は」

 そう言ってオスカーはナシアスを見上げ、次いで一平を見た。お医師のザザは今日はここには呼ばれていない。

「神のお計らいですよ。陛下は立場上うろうろするわけにはいかないでしょうし、市井の親であっても四六時中かわいい娘の後をついても回るわけにもいきませんからね。それに、そんなことされたら周りの人間が傍迷惑なだけです。特に、手前のような若い男どもには」


「なるほど…」

 こうして女の子と出会うチャンスも少なくなってしまう、と語るナシアスにオスカーは同調した。

「確かに…。私が一緒だったらパールは一平どのについて行ったりしなかっただろうからな…」

 納得する様子が実に子どもっぽい。

 そういうシチュエーションだったら、今のような生活にはならなかったんだな、と一平も改めて思う。パールはあの時、自分のことをオスカーと間違えて飛び付いてきたのだから。

「おかげで私は貴重な人材を手に入れることができたというわけか」

「御意」

「おぬしはジーの方だそうだな。実に残念だ。今回はトリトン神は我が国に傑物を下されなかったか。一平どのだけで充分だろうということかな⁉︎」

「なるほど大した男ですよね。三部門制覇して今度は大佐ですか。それもまだ登竜して二年も経たないのでしょう?」

 武道会が終了してからこっち、一平だけはナシアスと何度も会っていた。修練所の青科を聴講したいということで口利きや案内をしてやったり、一緒に訓練を受けたりと、毎日のように一緒に行動していた。そうこうするうちに互いのことも話をするようになり、好感を抱き合っているだけに親しくなるのも早かった。

「異例であることは確かだな。私はさすがに目が高い」

 自画自賛する王様には初めてお目にかかる。ナシアスは吹き出した。

 隣から一平が脇腹を小突く。堪えろ、と。

「…あ、失礼。決して悪気は…」

 ナシアスには珍しく、少々狼狽えている。オスカーはやんわりとそれを遮った。

「構わんよ。無礼講の席だ。どうせ一平どのに吹き込まれているのだろう?私のあれこれを」

「陛下…」

 更に狼狽えたの一平の方だ。それでは自分が陰でオスカーの悪口を言っているようではないか。無実の罪を着せられるのは真っ平だった。

「失礼だよ、パパ。一平ちゃんはそんな人じゃないって、いつも自分で言ってるくせに!」

 パールの方が激しく抗議する。

(え⁉︎)

「ははははは…」

 オスカーはかんらかんらと高笑いだ。

 またからかわれたのだと一平は知る。

(全くもう…)

 ナシアスは後で言ったものだ。

「さすがの勇者さまも、恋人の親には頭が上がらないらしいな」と。


 和やかな雰囲気の中、三の庭に設えたもてなしの料理は全て平らげられた。そこに集まっていたのは国王一家四人と一平にナシアス、そして給仕係としてニーナとサーニンがいるだけだった。本当に内輪のパーティーである。

 その日の料理は、王宮の料理長の指示で数人の料理人とニーナ、そしてパールとで用意された。ニーナはなるべくナシアスと顔を合わせたくなかったので厨房に籠っていたかったし、パールはパールで料理に手を染めることで少しでもナシアスに感謝の意を表したかったのである。

 果たして出来栄えはと言うと、なかなか大したものだった。パールの切ったものは形が悪かったが、盛り付けの工夫でなんとか様になっていたし、味はなかなかのものだった。

 ニーナの方は生憎と料理係だけでは済まされず、オスカーに給仕を仰せつかる。不満だが逆らうわけにはいかず、ニーナは少し不機嫌顔だった。

「一平どの。いよいよあとひとつで将だな。大佐の位もなかなか責任が重いだろう」

 皿を下げるようニーナとサーニンに告げ、オスカーは一平に感想を求めた。

「はい。まだ部下の顔と名前を掌握するのが精一杯ですが、やり甲斐はあります」

 位が上がれば威厳も求められるので、それにも苦慮をしている一平だった。

「パールもこうして花嫁修行に精を出していることだし、早く資格を得て安心させてもらいたいものだな」

 またそうやってプレッシャーをかける…と、一平はちょっと情けない顔をした。異例なほど進み具合が早い、と先ほど褒めてくれたばかりなのに、と。

「守人になれたらなんて言ってないで、さっさと結婚させてあげたらどうですか?オレの見たところじゃかなりのアツアツですよ⁉︎気をつけないと先にできちゃうかもしれませんよ…」

 早くもオスカーの気さくな気風に与し、ナシアスはこともあろうににオスカーにこそこそとご注進していた。


「ナシアス‼︎」

 真っ赤になって一平が叫ぶ。ちゃんと聞こえている。それもナシアスは計算ずくなのだ。

「見てもいないくせに勝手なことを言うな!」

「じゃあしてないって言うのかよ?こうやったり、こうやったり…」

 そう言ってナシアスが見えない相手にキスしたり抱き締めたりする仕草をして見せた。

 一平の頭に血が上る。

 パールまでほんのり頬を染めて俯いている。それが目に入って余計に煽られた。

「うん、ちょっと危ないよね…」

 キンタまで呟き、ナシアスを後押しした。

(おまえまで‼︎)

 ナシアスはともかく、キンタにはとんでもないところを盗み聞きされてもいた。一平は焦る。

 ぐっと抑えてキンタの頭に軽い拳骨をくれ、ナシアスに掴みかかってその軽口を封じてやった。

「陛下。止めて差し上げて…」

 気の毒そうにシルヴィアが懇願するが、オスカーは面白くてたまらない、といったた様子で言った。

「なに。あれで本人たちは楽しんでいるのだ。一平どのがそんな軽薄で節操のない男だとは私は思っておらぬ。でなければこの私の目が節穴だったということになるのだからな」

 取っ組み合いながらも一平の耳にはオスカーの言葉が届いていた。

 プレッシャーだった。

 自分はそんなできた人間じゃない。ナシアスの言ったようなことを何度もしているし、もっとえげつない妄想だってしている。ニーナが見張っていてくれなかったら、とっくにオスカーにもパールにも愛想をつかされてしまっていたかもしれないのだ。

 そんな心の内を見透かしたかのように、ニーナの声がした。

「大丈夫ですわ、陛下。ニーナがちゃんと見張っておりますから」

 ありがたいのやらありがたくないのやら、一平は聞こえないふりをしていつまでもナシアスとじゃれていた。

「キスまでは許してある」

「承知」

「だがその先は保留だぞ」

「当然でございます」

 オスカーとニーナのやりとりは続く。

「その先ってなあに?」

 パールが問い掛けた。

 本当の大人たちは揃って頬を緩めた。これなら何も危惧するには当たらない、と。

 気の毒に、と思ってくれたのはナシアスただひとりだった。


「さあ、そのくらいにして。おぬしたちの仲がいいのはよくわかった。剣術だけではなく、体術の方も五分五分だということもな。そろそろナシアスどのの剣の腕前を披露してもらおうと思うのだが、どうだね。お願いできるかな」

 オスカーが両手を打ち合わせて二人の気を引いた。

「一平どの。相手を頼むぞ」

「あ…はい…」

 そうだった、と彼らは起き上がる。顔を見合わせ、ニヤリと笑う。

「サーニン。ニーナとそこを少し片付けてくれ。…二人とも剣は持参しているな。パールとキンタはこちらへ来なさい。シルヴィア」

 それぞれに指示を出し、最後に呼ばれた王妃が娘を手元に呼び寄せる。予め予定してあった行動か、多く言わなくてもツーカーでわかるのか。一平はその様子を目にして実に羨ましいと思った。自分もいつかあんなふうに名を呼んだだけでバールに考えが伝わるような関係になれるのだろうかと。

 そうこうするうちに支度が整い、三の庭にはちょっとした試合ができるほどの広さが確保された。

「では始めるとしよう。両者構えを。中剣三本勝負。制限時間は各三分。相手を傷つけてはならん。よいな?」

 二人が頷くのを待ってオスカーは右手を高々と差し上げた。

「始め!」 

 オスカーの手が下ろされたと同時に二人の腕に力が込められる。もう既に何度も経験している手応えだ。

 剥き出しの二の腕の筋肉が固く盛り上がる。ぶつかり合う視線の先で互いの目が光る。にやっと唇を歪め、ナシアスは一平の剣を押し退け飛び退った。

 接近戦では膂力のある一平の方が有利だ。一度距離を取るために採られた作戦だとすぐにわかった。崩されたバランスを立て直し、一平も次の攻撃の構えに入る。

 正攻法で、ナシアスは振りかぶってきた。

 ―フェイントか―

 突いてくると見せかけ、実は違う手段に出る。剣術も駆け引きだ。

 前方から振り下ろされる刃を下から受けた。

 力が拮抗して、離れる。

 間髪を入れず、そのまま逆袈裟に切り上げる。

 ナシアスが体側で受け、身を捩って捩じ切った。

 不意に失った手応えに足場が不安定になる。それを素早く立て直し、今度は一平の方から突きに入った。

 突きに有利な長い手足を持つナシアスのこと、自分の手の内をよく知り尽くしている一平が自ら突きに入ってくることはあり得ないと踏んでいるだろう。それを逆手に取った上での行動だった。

 果たして一平の目論見は当たった。大上段の構えから攻撃に転じようとしていたナシアスの懐に、一瞬早く一平が踊り込んだ。

 喉元で切先が停止する。拳ひとつ分も離れていない。離れ技だ。

「参った」

 ナシアスの口から第一戦の終了を告げられた。

「一本!勝者、一平!」


 パチパチという、闘技場には及びもつかない量の拍手の音が何箇所かで起こる。キャアキャアという高い悲鳴はパールのものだ。審判のオスカーは差し上げた手を戻し、第二試合に入る合図を出した。

 一度剣を収める一平にナシアスは耳打ちする。

「ちったあ手加減にしろよ。遊びだろ、こんなの。ニーナにいいとこ見せたいんだがな」

「断る。陛下の前で偽善は演じられん」

 きっぱりと、毅然とした顔で一平は突っ撥ねた。オスカーの前で気を抜くのは一平にはご法度なのだ。

「頭の固い奴…」

 まあいいや、今度は本気でやるから、とナシアスは思い直したらしい。次の対戦は凄まじいまでの気迫を見せて一平から一本取った。

 三本目は痛み分けだった。時間切れだ。

「まさしく五分五分だな。大したものだったぞ、二人とも」

 この対戦を所望したオスカーはいたくご満悦だった。

「願わくば、ナシアスどのにはトリトニアに与していただきたいものだが…」

「ナシアスさまはジーの国防軍にいるんだって。無理だよ、パパ」

「今年いっぱいは年季が明けないのです。来年自由になったらあちこちに腕試しの旅に出ようと思っているのですが」

「そうなのか?」

 一平も初めて聞く。今回の旅は久しぶりに取れた休暇を利用したものだと言う。

「いい女も探さないとな。適齢期が過ぎないうちに」

 ナシアスは片目を瞑ってウィンクする。

「ナシアスさま」何を思ったかパールが呼び止めた。「年季が明けたらどこに行ってもいいの?よそのお国で暮らしても?」

「その国のお許しが出ればね、お姫さま」

「じゃあ…じゃあ…そうしたら、トリトニアに来て。パパや一平ちゃんを助けてあげて」

 まさかこの少女にこんなことを言われるとは思わなかった。

「パール。無理を言うな」

 一平が嗜めた。この男は鎖には繋がれない。繋いではその輝きを失ってしまう。わずか十日ほどの付き合いではあったが、一平にははっきりとそう感じられるものがあった。

 パールが差し出たことを言った背景も、一平はわかっているつもりだった。パールは一平がこの数日とても生き生きとして楽しそうなのを、ナシアスのおかげだと読み取っていたのだ。やっと一平ちゃんにも心を割って話せる男の友達ができた、と心から喜んでいた。

 

 ナシアスと話す一平の表情に、パールは記憶を呼び覚まされていた。あの洞窟で暮らした懐かしい日々を。四人で過ごした温かい時間を。大好きな一平の屈託のない笑顔を…。

 翼や学とじゃれ合っている時の素のままだと思える一平の無邪気な表情と笑い声。翼を失ってからこっち、ずっと一緒に過ごしてきたパールでさえ目にすることのできなかった、見たいと思っていた無邪気な一平の姿を、ナシアスは導き出すことができるのだ。パールはそのことに気がついていた。

 どんなに一平のことが好きでも、彼の為なら何でもできると思っていても、パールの前で一平は子どものようには振る舞ってくれない。自分では一平の胸に空いている心の隙間を全て埋めてあげることができないと、パールはこの頃時々思っていたのだ。離れている時間が長くなったせいだろうか。

 ナシアスがいれば、一平はもっと満たされる。武術のことも、自分では何の助けにもならない。仕事の面で支えになる人が一平には必要だということを、なんとなくではあるがパールは感じていた。そしてパールは、あの頃の一平の笑顔をもっと見たかったのだ。

「でも…」

 悄然としながらも、パールは踏み止まっている。ナシアスがだめだと言うのなら仕方がない。けれど…。

「お姫さん」目を落とすパールを優しく見下ろしてナシアスは言った。「今のところ、オレはこいつが気に入っている。一緒にいてこいつのそばで生きてみたいと思わないものでもない。年季が明けてこちらの陛下のお許しさえ出ればそれもいいかと今思ったよ。だけど確約はできない。オレは気が多いからね。先の事はその時になってから決めるよ。それじゃだめかな?」

 パールの頬が次第に明るさを増す。それで充分だった。他人の人生を左右する権利は自分にはないのだから、

「パパ…」

 振り返ってオスカーを見る。青い瞳が全てを物語っていた。

「そもそも私が要請した話だったと思うのだがな」

「パパ、大好き!」

 パールは久々に父親の胸に飛び込んだ。

 パールの気持ちが胸に染みた。おまえはそれでいいのかよ?と尋ねるナシアスに、一平は明るい顔で頷いた。

「それまでにもっと人間を磨いておかなきゃな」


「ほう。ナシアスどのはレイピアも使えるのか」

 オスカーの感心した声が片付けものをするニーナの耳に入る。

「これから稽古をつけてもらおうかと思っています」

 一平が言っている。

「ここを使わせてもらっても構いませんか?」

 嫌な予感がした。

「三の庭は今日は貸切りだ。好きなだけ使うがよかろう」

 ここはさっさと切り上げて他の仕事に取り掛かった方がいいと、ニーナはいそいそと下がろうとした。

「おお、そうだ。…ニーナ、おまえも相手をして差し上げなさい。ナシアスどの、このニーナはなかなかのレイピアの名手でしてな。武道会には出られなかったが実力者だ。私が太鼓判を押す」

 オスカーがニーナを呼び寄せるために後ろを向いた途端、一平とナシアスは思わず顔を見合わせた。願ってもない成り行きになった。

 ニーナがいやいや二人の方へ来る。オスカーは有無を言わさず対戦の取り仕切りをし始めた。

「楽しそうですこと。私たちは少し休ませていただきますわ。少々刺激が強すぎますもので。キンタももうセム尊師がお見えになるお時間ですし」

 シルヴィアがパールの背を押して下がろうとするが、パールは身を翻した。

「ニーナとやるの?パールも見ていいでしょう?」

「まだ懲りていないのか?控えなさい」

「やだ。約束したんだもん。必ず見せてくれるって。一平ちゃんとニーナの試合」

 オスカーの制止にもパールは動じなかった。見事な粘りを見せて勝利を勝ち取った。

 まずはナシアスと一平、そしてニーナと一平が対戦することになった。

 ナシアスはレイピアに関しては達人の域に近かった。さすがの一平も及ばない。問題はニーナとの一戦だった。一平がニーナに申し入れてから結構経っている。だがまだ練習量は絶対的に不足していた。ニーナ

のお膳立てを待つまでもなく、思いもかけず機会を得たが、まず勝てる自信はなかった。ニーナの戦いは目にしたことがないが、多分及ばないだろう。パールやオスカーが見ているのなら、できればもう少し上達してから対戦したかったがもう遅い。チャンスは見送らずに掴まなければ。

 ニーナの構えは隙がなかった。以前見た一人稽古の様子が思い起こされた。まるでニーナがレイピアそのもののように剣呑な光を放っている。突きも素早く目まぐるしい。身が軽いので敏捷でもあり、移動も早かった。それでも初めのうちは一平もついてゆけた。息が上がるほどでもなかった。ところが、途中からニーナの動きが変わった。独特の構えなのか、スローテンポで歩を踏み出す。ゆっくりと、妖しげに。

 突如、一平の脳裏に同じ動きが蘇る。暗がりの中歩み寄るニーナのあられもない姿が。

 大きく心臓が跳ねた。思い出してはいけないと思えば思うほど、彼女の白い肌と桜色の唇が大きく浮かび上がる。

(こんな時に…。オレは何を妄想してるんだ…)

 逡巡は一瞬でも、ニーナには充分だった。隙を突かれて、一平の剣は宙を舞った。


 勝ち誇ったニーナの顔に嘲りの表情が浮かんでいた。

 ―やっぱりあなたもくだらないただの男よね。試合中に、一体何を想像してたの?―と。

 惨めだった。どのようにして礼をし、剣を収めて場から降りたのか、全く覚えていなかった。

「おい。そんなにショックを受けなくてもいいだろう。女に一本取られたくらいで」

 ナシアスが意外そうに覗き込む。負けたのがショックなのではない。そんなことは初めてからわかっていた。愕然としたのは自分の心の弱さにだ。あんなことを思い出して舞い上がって…。あれがニーナの策略だったとしたら…わざとあのような仕草をして一平を惑わそうとしたのだとしたら…。

 恐ろしかった。女の嫉妬ほど恐ろしい武器はないと、一平はつくづく身に染みた。

「陛下。私は一平さまとはお約束いたしましたけれど、ナシアスさまとは…」

 ニーナがオスカーに抗議している。それほど固く考えなくてもいいではないかと、オスカーがニーナの懐柔に苦慮している。

 それならば、とナシアスは立ち上がった。

「ニーナさんよ。この一戦だけ、手合わせ願おうか。一平の敵討ちだと思って受けてくれ。オレが負けたら、もうあんたに手出しはしないからよ」

 おや…とオスカーも面白そうにナシアスを見る。そういうことかと、感じ入るところがあったらしい。

 ニーナもここまで言われては引き下がれない。これで小うるさい蝿が追い払えて決着がつけられるのなら、と肚を括った。

 果たしてニーナは強かった。そしてかなり苛々していた。気迫がそれまでとは比較にならないほどだ。ナシアスに息もつかせぬ早業ばかりを繰り出し、一刻も早く始末をつけてしまいたいとばかりに勝負を焦った。

 落ち着きを欠いては負けである。勝負にも、自分自身にも。

 対するナシアスは冷静だった。あの一平が急に様子がおかしくなったのを不思議に思いながら、その原因を探りつつニーナの剣捌きに注意を払った。極めて冷静に。自然、勝負はついた。軍配はナシアスに上がった。

「見事だ。一年後が楽しみだな」

 そう言ってオスカーはこの場を外して行った。後は若者の独壇場だ。引き際というものをも、実に心得た人物だった。

「ニーナ、大丈夫?」

 パールが心配そうに寄り添った。ニーナは怪我をしていた。最後に弾き飛ばされた剣を受け止める時に、目測を誤り、柄ではなく刃の方を掴んでしまったのだ。

「…え…え…。だめね、そそっかしくて。平気よ。大したことないわ」

 手当てしてあげる、とパールはニーナの怪我した右手をとった。まるで懇願するように掌に唇をつけ、そのまま祈り続ける。微かにニーナの掌の周りにオパール色の光が迸り出す。

 ナシアスは息を呑んでその光景を見つめていた。  だがそれよりももっと息が止まりそうになるほど緊張し、驚愕と感動を覚えているのはニーナだった。あれだけいつもそばにいても、こんなふうに癒しの力を注ぎ込まれたのは生まれて初めてだったのである。右の掌から伝わるパールの唇の感触と温かなエネルギー…。ニーナはすっかりそれに酔い、二人の男性に意味ありげに見つめられていることに全く気づかなかった。


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