第一章 珊瑚色の髪の少女
トリトニアの伝説 第六部 王宮円舞曲 を連載します。
これまでのあらすじ
海人と地上人との混血児一平と人魚のパールはついに故郷のトリトニアに到着し、一平はパールを無事家族の元に帰すことができた。
パールはトリトニアの王女であった。
王宮という、トリトニアの中でも最も安全と思われる場所に戻ったということで、一平は自分の存在価値を見失ってしまう。
何よりも守りたい存在であったパールの元を去ろうと別れの言葉を口にするが、パールから愛の告白をされ、その父親であるオスカー王からは国の三大柱の一人となってパールを娶る気はないかと持ちかけられる。
トリトニアの国政は国の守護神トリトンに選ばれた赤白青の剣の守人を中心として回っている。
武の頂点に立つ青の剣の守人の座を己の望みと結びつけ、一平はトリトニアで守人への道を歩み始めた。
たった一人で王女を守り抜いてきた一平を高く評価し、王も人々も彼を勇者の再来と称え、一平は急速に出世してゆく。
パールの持つ癒しの力も、成人の祝いをきっかけに人々の間に広まっていった。
隣国ガラリアの王ガラティスはパールのこの力に目を付けた。
一計を案じ、国境付近のトリーニにパールを誘き寄せたガラティスは、パールの身体を調べ、『徴』なるものを探すが、目的を達成することはできなかった。
そのことを知った一平は嫉妬のあまり憎悪の思いを膨れ上げさせる。
詳しくは、第一部 洞窟の子守歌
第二部 放浪人の行進曲
第三部 ムラーラの恋歌
第四部 アトランティック協奏曲
第五部 トリトニア交響曲
をご覧ください。
「一平…」
キンタが部屋に戻る一平の袖を引いて呼び止めた。
人々の前でパールが妙に積極的な行動をとった後のことである。
「どうしちゃったんだよ。お姉ちゃんのやつ…」
尋ねる相手を間違えてるぞ、と一平は思った。
「もしかして…名実共に女になっちゃった?」
一平はキンタの首に腕を回してがしっと捕まえた。
「ぐえっ…」
大袈裟に舌まで出してキンタは呻いた。
「下衆な勘繰りをするな…」
一言、釘を刺した。
「オレは本気で心配して言ってるんだよう。離してくれよ」
まだキンタは捕まったままだった。
「おまえは自分の心配だけしてろ。セム尊師が嘆いていたぞ。期限までに課題をこなしていないのはおまえだけだそうだな」
「そんなこと言ったってえ…」キンタは情けない声を出した。「隣であんな声出されちゃさあ…気になって何にも手になんかつかないよ…あ、痛!」
言い訳したつもりだったが余計に一平を怒らせたようだ。キンタの頭に拳固が飛んでいた。
「今度覗きなんかしたらただじゃおかないぞ」
口調は怖かったが一平の顔は真っ赤で可愛くさえあった。
昼間の一件をキンタに見られていたと思うと、一平の理性はぶっ飛びそうになる。今度からは隣がこいつの部屋だっていうことをよおく心に留めておかなけりゃ、と一平は自分に言い聞かせた。
件の軍議の結果、一平は翌日から戦線に出ることになった。レレスク方面にあるガブルの森に妖物が出るということで、調査と退治に出向いたのだ。妖物退治なら一平の右に出る者はいない。中尉に昇進した彼がオスカーより討伐隊長を命じられるのは当然の成り行きだと言えた。
無事任務を果たして帰ってきた一平にとって何よりの労いはパールと共にいられることだった。討伐隊の任務は一週間で終了したが、その直前まではパールの方がトリリトンを留守にしており、共にゆっくり時を過ごす間もなく再び離れ離れになっていたのだ。パールもこの一週間は勉学に励んではいたが、朝な夕なにキスする相手がいないのはとても寂しいものだった。しかも戦線に出る前日の経験が忘れられず、あのおののきと心地よさが何だったのか、一平に確かめたくてたまらないのだった。
思い出す度に自分の顔がにやけるのがわかる。一平のことを考えると恋しくてたまらない。いつかの一平のように、心臓の鼓動が早くなる。
(ドキドキするのは男の人だけじゃないのかな?でも変だな。パール、好きな人の裸見たわけじゃないのに…)
教授たちに訊いてみたら何かわかるかもしれない、とパールは思った。
ここ海の中のトリトニアには書物はない。知識は全て口伝えである。従って、自分一人でこっそり調べものをするということは不可能だし、そういう概念はなかった。
でもなぜか訊けなかった。何度か口に出そうとしてみたが、なぜかその度、心のどこかで「そんなこと訊いちゃいけない」と忠告する自分がいて、パールは実行できずにいた。
そんなある日のこと、パールにとって思いもかけない助っ人が現れた。
一平がガブルの森から戻って五日ほど後、パールはオスカーに呼び出され、謁見室へと足を踏み入れた。共に過ごしていた一平も、侍女に、一緒にと促され、入室した。
中には国王夫妻とキンタ王子の他、侍従長、そしてパール付きの侍女のフィシスとキンタ付きの侍従のサーニンがいた。ごく内輪のメンバーだ。
中でも今日のフィシスは改まった格好をしていた。昼前まではお勤め用の侍女のお仕着せを着用していたはずだが、外出用のドレスに着替えていた。何やら荷の袋まである。
促されて皆の前へ進み出るとオスカーが言った。
「フィシスが暫く暇をとるとこになった。おまえたちも挨拶するように」
「え⁉︎」
一平はもちろん、パールも寝耳に水であった。
「本当?あの…どうして⁉︎」
また何か自分のしたことで迷惑を掛けたか嫌気がさしたかしたのだろうか、とパールはビクビクしながら尋ねた。
「フィシスの四番目のご息女が出産で面倒を見なければならんそうだ。体調が思わしくないのでついていてやりたいということでな。二ヶ月の休暇を許可したところだ」
「二ヶ月も…」
フィシスとはトリトニアへ戻ってからの関わりであり、まだ日が浅いが、パールにとってはまたとないベストサポーターであった。年長の良さを活かし、上手く煽てたり貶したりしながら行儀や振る舞いを身に付けさせてくれている。身の回りの世話係というよりは教育係の意味合いが強かった。
そのフィシスが二ヶ月とはいえそばからいなくなることに、パールは一抹の不安を覚えた。
実はパールはいまだに朝一人では起きられないことが多いのである。それもフィシスのお世話になっていたからこの知らせは痛かった。
「申し訳ありません、姫さま。四女には姑もいませんのでね。私しか当てにできる者がおりませんのです。幸い、姫さまも随分と成長なされましたし、陛下が代わりの者を見つけてくださいましたので、暫く宿下りさせていただくことにしました」
「そうなの…。寂しいけれど…仕方がないわね。赤ちゃんが生まれたら、ぜひパールにも会わせてちょうだいね」
「‥それはもう…。身に余るお言葉で….。ありがとうございます」
一平も言う。
「娘さんももちろんですが、フィシスどのもご無理をしてお身体を壊されませんようお気をつけください」
「ありがとうございます。私が申し上げるのも僭越ですが、一平さま。姫さまをよろしくお願いいたしますね。あなたさまが一番の頼りでございますから」
「…もちろんです」
一平を頼もしげに見上げてから、パールは思いついたようにフィシスに目を戻した。
「娘さんの体調はどうなの?お母さんの具合が悪いと赤ちゃんに悪い影響が出ると言うから気をつけてね。何かあったらすぐパールを呼んでちょうだい。飛んでいくから」
そうは言っても、パールとて暇なわけではない。そのことを重々承知しているフィシスは言葉半分に、だが真心は十二分に受け取って平伏した。
フィシスが下がると徐にオスカーが向き直った。
「さて、フィシスの後任の侍女についてだが…」
「見つかったって…さっき言ってたよね」
「そうだ。適任者がな。しかも経験者だ」
「経験者?」
パールの世話をしたことがある人と言う意味だろうか。頭を捻るパールの前に、オスカーの指示で控えの間からひとりの女性が姿を現した。
「姫さま…」
控えの間から現れたのはパールと同年代の少女だった。同年代といってもパールよりはずっと大人びて見える。パールと同じ珊瑚色の髪と青い瞳を持つ美少女だ。既に成人している。
しかしそのいでたちは男のものだった。短い胴衣からすらりとした足が伸び、肩からはマント、腰には細身の剣を提げていたが、胸の膨らみも腰の腫れも肌の美しさも、どう見ても男性には見えない。目鼻立ちも整っていて美しい。
(パールに似ている⁉︎)
一平でなくとも、誰でもそう思ったことだろう。
年頃と目と髪の色以外の外見は全く違うのに、なぜかそういう印象を受ける。初めて見る人を誰かに似ているのだと感じる時、それはある一部分が似ているだけでそう思えるのだと聞いたことがある。少女のどこが一番パールに似ているのか、一平は必死に考えた。
それは唇だった。桜色のふんわりと優しく艶やかな唇。
その感触も、手に取るようにわかるような気が、一平にはしていた。
だが、その他の造りはまるで違う。
引き締まった眉にきりりとした目元。通った鼻筋。どちらかと言えばこけていると言えなくもない薄い頬。全体的に気の強い男っぽい性格であるように伺える。唇の柔らかさがそれを緩和して、女らしさを醸し出す。魅力的な女性であると言えた。
「ニーナ‼︎」
一平の横でパールが叫んで飛び出してゆく。
少女はパールと旧知の間柄であるらしい。それもとても親しい。
パールの口調にそのことが表れている。
瞬く間にパールは泳ぎ寄り、ニーナと呼んだ少女の肩に腕を回した。抱きつかれた少女も、嬉しそうにパールの細腰を抱き締める。
「ニーナ。ニーナ、ニーナ、ニーナ。ニーナぁぁ…」
パールは何度も何度も少女の名を呼び、しがみつく。単に再会を喜んでいるだけではない。出し惜しみせず流れるパールの涙が、もっと深い背景があったのだと感じさせる。
こんなふうに泣いて喜ぶパールを一平は知っていた。それは他でもない自分にかつて向けられたものだ。それがどれほど嬉しかったか、どんなに一平の心の渇きを満たしてくれたか、忘れてはいない。今、目の前にいる少女も、きっとあの時の自分と同じ心境でいるだろう。
それは一平には簡単に予測がついた。パールにとっても嬉しいことなのだろうとは思ったが、なんとなく面白くなかった。あれは一平ひとりの特権だと、心のどこかでもうひとりの自分が言っている。
(やきもち…か⁉︎)
不愉快な思いが心にあることを認識して一平は考えた。もっとはっきり憎らしいと思った相手だっていた。だが、今一平がその感情を向けている相手は女性だった。そのことが一平の気持ちを落ち着かなくさせている。
(心配性だな。あの人は女性じゃないか。そんなに神経質になってどうするんだ。とうとうヤキが回ったか…)
一平は自分で自分を嗜めた。
まさかその女性が一番強力なライバルになるのだとは、その時の一平は全く思ってもみなかった。




