願わくば花の元にて
喜兵衛はしわだらけの顔をもにゃもにゃしてから女郎の膝に横たわり、着物ごしに女の膝をなでた。枝を伸ばした葉桜が風に揺れる。女の肩にぶつかった桜の実が続けて喜兵衛の顔に転がり落ちて、老人はくすぐったそうに首をすくめた。
「ご隠居はん、うち、あんまり器用やないから気ィつけてぇや」
この半田喜兵衛、娘ほど歳の離れた女郎に耳掃除をさせるためにわざわざ廓にやってくるほどの遊び好きである。いくら世間様に後ろ指をさされても、本人は平気の平左。今日など女郎を島原の外まで連れ出す。それでやることと言ったら葉桜見物なのだから、酔狂と噂が立つのも無理はない。
「お、そこやそこ」
女郎はさすがに呆れた。この放蕩ぶりに息子夫婦はさぞかし困っていることだろう。勝手に金子を持ち出して、お店に迷惑をかけていないかしらと老人の耳に息を吹きかけた。憂いはするもののそこは女郎、口にしない。
「ご隠居はん、今日はおおきに。春牡丹ももうすぐやねぇ。見頃になったら、また来とおすなぁ」
「ああ、えいえい。連れて来たる」
喜兵衛の言葉に女は心底嬉しそうに笑みを浮かべて身をよじった。はじめの頃は「どうせ戻らなあかんのやし」とふてくされもしたが、近頃は一時でも長く娑婆にいたい。
もちろん週に一度も悪所に通う遊び好きの老人に、女の思惑がわからぬはずもない。残る一生、一夜でも多く夢を見たいのだ。
男と女の思惑が一致して、緋毛氈の上にふしぎとなごやかな気が満ちる。親子というにはしっとりとした、夫婦というには幼いといった塩梅だ。
女郎が艶っぽく「はんたい」と告げると喜兵衛はごろりと向きを変え、桜の葉の向こうに空を見た。春牡丹の次は紫陽花だ。
(2006.10.30)