千の顔を持つ街
扉を開けた瞬間、足元に硬い感触が伝わった。
乾いた石畳――それは隙なく敷き詰められ、規則正しく整列している。
陽光が白と灰の建物に跳ね返り、通りを眩しく照らしていた。まるで、無機質な意思を持った都市そのものが、光を使って自己主張しているように。
「……なんか、整いすぎてない?」
メイは足を止め、視線を巡らせた。
「悪いことじゃないだろう」
耳元に落ち着いた声が響く。
その声の主――バルドは、今、黒く光沢を帯びた仮面の姿となり、メイの顔を覆っていた。
世界に応じて姿を変える彼は、今回も例外ではなく、この街に自然に溶け込む装いを選んだようだ。仮面の表面は簡素だが洗練され、街の空気と齟齬を起こさない。
メイは仮面に指先でコツリと触れた。軽い音が響く。
「まあね。でも、なんていうか……人の気配が薄いというか」
視線を前方へ向けた。
街の中心には広場があり、そこには整然と並ぶ屋台があった。
果物、焼きたてのパン、染め布、金属製品――多彩な商品が几帳面に陳列されている。
一見すれば活気ある市場に見える。
だが――
「……ああ、そういうことか」
メイの目が、そこに立つ人々を捉える。
全員が仮面をつけていた。
商人たちは同じ丸みを帯びた滑らかな仮面をつけ、
衛兵たちは一様に、表情を排した無機質な仮面をつけている。
買い物客も、どこか似通った意匠の仮面をつけていた。
仮面の種類は、そのまま職業や階級、社会的役割を示す記号のようだった。
「……仮面、見事に統一されてるね」
「職能別か、あるいは階層別だろうな」
バルドの声は穏やかだが、観察者としての冷静さを含んでいた。
メイはゆっくりと市場の端を歩き、目につく仮面を一つひとつ観察していく。
果物商は丸みのある温和な仮面、革職人は鋲が打たれた重厚な仮面、衛兵は隙のない無表情な仮面。
仮面が「顔の代わり」であることが、すぐに理解できた。
「……表情の必要がないのは、確かに楽そうではあるけど」
「その代わり、感情の所在が仮面の形状に集約されている。厄介だな」
「バルドみたいな仮面もあると思う?」
「過去の事例からすれば、あるだろうな」
「だよね〜」
メイは苦笑しながら、懐からネックレスを引き出した。
それは、鈴のような形をした白い花を象ったペンダント。
かつての世界で手に入れた、戻る手がかりとなるかもしれないもの。
「この街に……ないといいなあ」
ふと独りごちたその声に、バルドは何も返さなかった。
懐から懐中時計を取り出す。
ガラス越しに見える針は「2」を指している。
「2日か……」
「時間の短さは、時に密度を生む」
「でも、いつも駆け足になるのは、ちょっと損した気分になるんだよね」
時計を懐に戻し、メイはさらに市場の奥へと進んだ。
街の中を歩きながら、住人たちの動作に目を配る。
仮面をつけた彼らは、まるで定められた脚本をなぞるかのように、同じテンポ、同じ距離感で移動している。
「ちょっと、機械っぽいね」
「機械?」
「うん。揺らぎがないんだよ。偶然が起こらない。人と人がすれ違う時の、あの自然なブレが一切ない」
確かに、通りすがりの会話も、どこかおかしい。
「昨日の市場は賑わっていましたね」
「ええ、とても賑やかでした」
「今日の市場も賑やかでしょう」
「ええ、きっとそうでしょう」
それとまったく同じ会話が、別の場所でも繰り返されていた。
「……本当に機械化かも?」
「さあな」
バルドの声に、少しだけ警戒の色が混じる。
メイは市場の端、色とりどりの花が並ぶ小さな店に目を留めた。
花屋だ。だが、あの花――白く、小さな鈴のような形――は見当たらない。
「こんにちはー」
店の奥から、仮面をつけた店主が現れた。
「いらっしゃいませ」
「ねえ、この街には、こういう形の白い花ってある?」
ネックレスを手に取り、店主の前にかざす。
「申し訳ありません。そのような花は、ここにはございません」
「昔はあったりしない?」
「申し訳ありません。そのような花は、ここにはございません」
「似たような花でも、見たことない?」
「申し訳ありません。そのような花は、ここにはございません」
言葉は、完全にループしていた。
「……本当に知らないのかな」
「知っていたとしても、言えない可能性もある」
「あっ……あの、ありがとうございました」
「またのご来店をお待ちしております」
ぴたりと一礼するその動作は、もはや礼儀というより儀式に近かった。
市場を抜け、さらに奥へ進むと、道の両側に均一な家々が広がっていた。
どの建物も、同じ色、同じ大きさ、同じ形。窓枠も植木鉢の配置すらも寸分違わぬ作りだった。
一見すれば、整然とした美しい街並みに見える。だが、その完璧さにはどこか寒々しいものがあった。
「こういう統一感ってさ、大体ろくでもない理由があるんだよね〜……」
メイが目を細めて周囲を見渡す。
「つまり、個性がない」
バルドが静かに応じる。
「うん。ほんのちょっとでも違ったら、すぐ正されそうな感じ。悪い意味で完璧なんだよね」
通りの脇では住人たちが掃除をしていた。
箒を動かす角度、水やりのリズム、背筋の伸び具合に至るまで、彼らの動きは驚くほど揃っていた。まるでひとつの巨大な仕組みが、人を模して動かしているようだった。
「どこぞの軍人さん達に見習って欲しいね……」
「あそこはあそこで、変わった場所だった」
歩き続けていると、並ぶ家の中にただ一軒、風景から浮いている家があった。
壁の色はやや褪せ、庭には伸び放題の草花。掃除をする者の姿もなく、家だけが時間から外れているかのようだ。
「何か違うね」
門の前に立つと、家の扉がきぃと音を立ててゆっくり開いた。
中から現れたのは、仮面をつけた老人。
だが、他の住人と決定的に違う空気を纏っていた。
動作には僅かなためらいがあり、視線は機械ではなく、人としてメイを見つめている。
「……旅人か」
静かな声が、門越しに落ちた。
一瞬戸惑ったが、メイはすぐに頷いた。
「うん。そんな感じ」
老人はメイの仮面をじっと見た後、小さく頷く。
「珍しい。旅人は常にいるはずなのに、お嬢さんのような者は滅多に現れん」
「旅人は常にいるんでしょ? じゃあ、私と何が違うの?」
「そのままの意味じゃよ。すでに役を持っているが……お嬢さんお節介かもしれんが、忠告しておこう。なるべく早く、この街を離れなさい」
唐突な忠告に、メイは眉をひそめる。
「どうして?」
「この街は……旅人が滞在するには、あまりにも静かすぎる」
「でも旅人、いるんでしょ?」
「そう名乗っているだけじゃ」
老人はそれ以上何も語らず、ゆっくりと扉の向こうに姿を消した。
メイはしばらく、古びた家の扉をじっと見つめていた。
「会話、できたのに……内容が重かったなあ」
「危険を避けたいなら、街を離れればいい」
「それでも、こういう街こそ、なんかある気がするんだよね。寄り道、大事」
「いつものことだ」
「でしょう?」
仮面の下で笑うと、メイは再び街の中心へと向かった。
夕暮れが近づき、石畳には長い影が伸び始めていた。
「宿、あるかなあ……仮面の街だし、泊まれるのかも怪しいけど」
「旅人が存在するなら、旅人用の宿もあるだろう」
「でもこの街の旅人って、絶対変だよ。おじいさんもそんな事言ってたし」
そんなやりとりを交わしながら歩いていると、木製の看板が目に飛び込んできた。
《旅人の宿》と、手彫りの文字が掲げられている。
「お、引き寄せた!」
メイは笑みを浮かべ、扉を押して中へ入った。
中は、普通だった。
木のカウンター、柔らかいランプの灯り、食事をとる客たち。
だが、彼らもまた全員、仮面をつけていた。
「……やっぱりね」
客たちはそれぞれ食事をとり、言葉を交わしていたが、その会話はどれも無難すぎて記号のように聞こえた。
そして、視線がふと止まる。
バルドとまったく同じ仮面をつけた人物が、テーブルに座っていた。
旅人らしい衣装。革のバッグ。雰囲気もそれっぽい。
だが――向かいに座るもう一人も、まったく同じ仮面をつけていた。
二人は談笑しているようだったが、仮面のせいで表情は読み取れない。
「あらま。ペアセット」
「まあ、見ればわかる」
「旅人って、この仮面なのかな」
「おそらく。だが、片方は――いや、俺たちとしては普通か」
「どういうこと?」
メイが目を凝らすと、確かに、片方の動作がどこかぎこちない。
セリフを忘れかけている役者のように、妙な間があった。
「あの人も、おじいさんみたいに会話できそうな人って事?」
「あるいは、俺達に近い可能性もある」
「今まで会ったことないけどね」
カウンターへ向かい、宿の主人に声をかける。
「宿をお願い。一泊」
「一泊、銀貨三枚です」
淡々とした口調だった。
メイは銀貨を差し出し、鍵を受け取った。
仮面たちが食事を続ける中、彼らの“顔の奥”にあるものを思いながら、階段を上がっていく。
廊下の左右に並ぶ扉は、すべてが同じ。
鍵を差し込み、扉を開くと、質素ながら清潔な部屋が待っていた。
ベッドと机、窓際のランプ。それだけだ。
「まあ、寝るには十分って感じ」
ベッドに腰を下ろし、ため息まじりにバルドを外す。
顔に空気が触れる感覚が戻ってきて、軽く額に手をやる。
髪をかき上げると、赤茶色の髪が揺れた。癖のある毛先がふわりと肩にかかる。
琥珀色の瞳が、窓から差し込む薄明かりを反射した。
「ふぅー……生き返る」
「俺もようやくお前の鼻息から解放された」
「感謝されるべきだよね、むしろ」
軽口を交わしながら、メイは枕に顔を押しつけた。しばらく沈黙が続く。
「ねえバルド、この街ってさ」
「異常だが、今のところは無害だ。老人の言葉がなければ、ただの珍しい仮面都市だ」
「でも、“普通”じゃないことは確かだよね」
メイは懐から手帳を取り出す。
さらさらとペンが走る音が、静かな部屋に響いた。
〈仮面だらけの街観察記録:一日目〉
■市場
・整然とした活気。会話は定型文みたい。
・全員が仮面を着用。職業で仮面が分かれている?
■住宅街
・家も動作も完全統一。軍人以上に整ってる。
・一軒だけ古びた家。老人と会話。忠告あり。
■宿
・客も全員仮面。
・バルドと同じ仮面の“旅人”二人組。うち一人に違和感。
■疑問
・この街の仮面は何のため?
・この街の旅人と私の違いは?
「うん。やっぱり変だね!」
「最初からわかっていたことだ」
「でも、明日までしかいられないし。もうちょっと知っておきたいね」
「もう一度あの老人に会いに行くか?」
「それもいいね。でも、まだ街を見てみたいかな……二日って、本当あっという間だよねー」
時計の針を見つめながら、メイはふっと笑った。
朝日がカーテン越しに差し込み、部屋の空気を薄く染めていた。
光の筋が床を這い、時間の輪郭をそっと描き出してゆく。
ベッドの上、メイはまどろみの淵からゆっくりと浮かび上がるように、目を開けた。
伸びをひとつ。背骨が小さく音を立てる。
「……ふぅ。毎回、二日目の朝は緊張するんだよね」
「寝相を見る限り、その自覚は怪しいな」
バルドの皮肉交じりの声が返ってきた。
「わざと無防備なふりをしてるの。誘い受けってやつ」
「誘う相手がいないのが残念だな」
「それは今後に期待」
バルドを手に取り、顔に装着する。
ひんやりとした感触が頬を包み、次の舞台への準備が整う。
「さて、今日はどんな出会いが待ってるかな」
身支度を済ませて階段を降り、食堂の扉を開けた瞬間、空気が止まったような感覚に襲われた。
昨夜と同じ、木製のテーブルと椅子。
壁にかけられた飾り。
そして、整然と座る仮面の住人たち。
まるで舞台がそのまま保存されていたような既視感。
だが、今日は気づける目で見ている。
「……昨日は人数が少なかったから気づかなかったけど」
「何だ?」
「みんな……同じ動きしてる」
テーブルごとに配置された皿やカップ。
フォークを取る動作、パンに手を伸ばすタイミング、カップを持ち上げる角度。
どの席も、寸分の違いもなく、まったく同じ所作を繰り返していた。
「住宅街だけじゃなくて街全体がこういう感じかぁ……」
「規律か、同調か。いずれにせよ、強い制御を感じるな」
「私は好きな順番でごはん食べたい派なんだけどな」
そのとき、視線が一点に吸い寄せられた。
昨夜、同じ仮面をつけていた男――旅人風の人物が、一人きりで座っていた。
そして、やはり。
彼の手元だけが、どこか不器用だった。
コップを取る動作に揺れがあり、パンを割る手つきにも妙な遅れがある。
「あの人、やっぱりちょっとズレてる」
メイは迷うことなく、そのテーブルに歩み寄った。
「おはようございます」
対面に腰を下ろし、静かに声をかける。
男はゆっくりと顔を上げた。
仮面の奥――その沈黙の向こうに、わずかな迷いが見えた気がした。
「……おはようございます」
返事は少し遅れてきた。
言葉を探していたのか、選びあぐねていたのか。
その遅さは、この街では異質だった。
「私はメイ。旅人だよ」
「バルドだ。今は仮面だけどな」
メイが笑いかけると、男は小さく首を傾げた。
「……私も、旅人……です。名前は……」
ふと、言葉が止まる。
「忘れちゃったの?」
「……いいえ。ここでは、必要ないので」
「そっか。そういう街なんだね」
軽く頷いてから、問いを重ねる。
「この街には、いつ頃来たの?」
「……この街には、何度も来ています。良い場所です。食事も整っていて、住人も……親切で」
一瞬、言葉がスムーズになった。
けれど、それはまるで定められたの返事のようで――
彼は自分の言葉に、微かに違和感を覚えたように、かすかに頭を振った。
「……いや。最近……初めて、来ました」
一つずつ言葉を選びながら、丁寧に話す。
「私は……噂を聞いて。この街に来ました」
「どんな噂?」
「誰もが、何にでもなれる街」
その言葉は、仮面越しでもはっきりとした意志を帯びていた。
彼の目が空を仰ぎ、静かにため息を吐く。
「少しだけ……思い出しました。私は旅人でした。本当に」
その語りは、どこか懺悔のようで、祈りのようでもあった。
「旅をしていたんです。多くの街を見て、たくさんの人と出会って……でも、そのたびに、自分が“何者か”でいなければと思っていた。誰かに見せる顔を、いつも探していた。目的も、終わりもない旅が、不安だった」
「だから、“何者にもならなくていい場所”が欲しかったんだね」
メイの声は優しかった。
「……はい。ここは、形が決まっているから、楽なんです。選ばなくていい。誰にも、何も問われない。自分でいようとしなくても、誰も咎めない」
仮面の奥の表情は見えない。
だが、その言葉は確かに、人の重さを持っていた。
「ここにいれば、心が静かになる。そんな気がしたんです」
メイは静かに頷いた。
「……うん。それも一つの答えだと思う」
男は椅子を引き、ゆっくりと立ち上がった。
「会えてよかったです、メイさん。久しぶりに、誰かと話せた気がします」
「私も。ありがとう」
男は深く頭を下げ、何も言わずにその場を離れていった。
残された席で、メイはそっと息を吐いた。
「何にでもなれる街か……」
「俺も人間になってみたいものだ」
「仮面の上に、さらに人間の仮面をかぶってみる?」
「意味のない偽装は、無意味を際立たせるだけだ」
「うわぁ……深いのか冷たいのか、よくわからないやつ」
くすりと笑いながら、メイは立ち上がる。
そして、朝の陽射しに照らされる街の中へと、また一歩を踏み出していった。
日差しが高くなるにつれ、街の空気はさらに白く、さらに乾いていった。
仮面の住人たちは、まるで焼きついた影のように、いつもの距離を保ちながら通りを行き交っている。
「昨日のおじいさんの家、また見に行こうかと思ったけど……その前に、気になるものがあってさ」
メイは足を止め、一つの建物を見上げた。
白い円柱に囲まれた、小さな劇場。入口に掲げられた木札には、こう書かれていた。
《演目:旅人の記録》
「これ、あてつけ? それとも偶然?」
「演目のタイトルが皮肉なら、演出もまた皮肉だろうな」
「なら観てみないとね。お肉大好き」
仮面をつけた案内係が無言で頷き、手を広げる。
メイは静かに劇場の中へ足を踏み入れた。
中は宿同様、簡素で清潔だった。
木製の椅子が半円状に並べられ、小さな舞台を取り囲んでいる。
すでにいくつかの席には仮面の住人たちが座っていたが、誰一人として声を発する者はいなかった。
やがて場内がわずかに暗くなる。
舞台の幕が音もなく上がった。
スポットライトの中心に現れたのは――仮面をつけていない人影だった。
だが、その人物は顔が存在していなかった。
黒い靄のようなものが輪郭を覆い、目も口も鼻も見えない。
「……私も昨日の夜、あんな感じだった?」
仮面の中で、メイがささやく。
「いいや。見飽きた顔だった」
バルドも、同じく小声で返した。
舞台上に、若い男のナレーターの声が流れはじめる。
だが語っているのは演者ではなく、あくまでどこかから聞こえる声だった。
「旅人は疲れていた。幾つもの街を、国を跨いでも、求める答えはなかった。
何を見ても、誰と会っても、自分が何者なのかを見失っていた。
選び続けることに、終わりがほしかった」
「そんな時、旅人は耳にした――
『誰でも、何にでもなれる街』があると」
「旅人は思った。
何者かにならねばならないのなら――
いっそ、“何者でもない者”になってしまえばいい、と」
演者は一言も発しない。
ただ黙って、ナレーションに合わせて身体を動かしていく。
街の門をくぐり、市場を歩き、仮面を受け取る所作。
仮面をつけ、宿に入り、食事をとる。
仮面をつけた者と向かい合い、ゆっくりと頭を下げる。
――それはまさに、今朝、宿で出会ったあの旅人そのものだった。
背景が次々に変わっていく。
市場、住宅街、宿の部屋。
仮面をつけた旅人の姿が、街の風景にゆっくりと同化していく。
違和感が消え、馴染み、そして透明になっていく。
「こうして、旅人は“旅人”となった」
「もう、選ぶ必要はない。迷うこともない」
「何かになろうとする苦悩から、解放されたのだ」
「――ようこそ、誰もが何にでもなれる街へ」
その言葉と同時に、スポットライトがふっと消える。
舞台が暗転し、幕が無音で下りていった。
客席の仮面たちは、静かに立ち上がり、何も言わずに劇場を後にする。
拍手はなかった。誰ひとりとして、評価も感情も表さなかった。
席に残ったメイは、小さくつぶやく。
「……あの人、もう彼自身じゃなかったんだね」
「そのようだな。あの男は、街に来たばかりの旅人だったという訳だ。探せば同じ仮面がいそうだな」
「バルドが同じ仮面なのも納得だね。私たちも、街に来たばかりの旅人だ」
劇場を出ると、昼の光が石畳に白く跳ねていた。
街は変わらず、何も言わず、何も問わずに、仮面の静けさを保っていた。
その沈黙が、演目の余韻よりも、ずっと重く背中にのしかかってくる。
劇場を出たあとも、メイの足取りは軽くなかった。
舞台の中で見たあの男――仮面の奥にあった誰かが、舞台の外ではもう見えない。
それがただの芝居だったとしても。
あるいは、芝居だからこそ、事実よりも重たく感じる。
街の光景は、何も変わっていなかった。
整った家並み、寸分違わぬ植木鉢、等間隔で行き交う住人たち。
その静けさが、かえって異物を際立たせていた。
そして、昨日目にした一軒の古びた家――
そこだけが、今日も時間から取り残されたように、街の中にぽつりと存在していた。
メイは門の前に立ち、軽くノックを打つ。
ギィ、と静かな音を立てて扉が開く。
中から現れたのは、やはり昨日と同じ仮面の老人だった。
「……まだ街を出ておらんかったか」
「うん。でも、もうすぐ出ると思う。最後に、ちょっとだけ話がしたくて」
老人は一瞬、言葉の続きを探すように沈黙した。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「中へ入りなさい……今日は、陽射しが強い」
案内されるまま、メイは家の中へ入った。
古びた木の床、擦れた家具、時間の痕跡を宿した部屋。
けれど、そこには微かな温もりが残っていた。
仮面ばかりの街で唯一、誰かが暮らしている気配があった。
老人は椅子を引き、メイにも腰を促す。
二人きりの沈黙が、数秒だけ流れた。
「……あらためて、聞いていい?」
メイの声が、そっと空気を揺らす。
「昨日、“早く出ろ”って言ってた理由」
老人は目を閉じて、考えるふりをした。
いや、きっと、本当に考えていたのだろう。
どこから語ればいいのか、あるいは語る価値がまだあるのか。
「お嬢さんは、この街では異質じゃ」
「異質?」
「仮面が……街のものではない。いや、それだけではない」
仮面の奥から、静かに息を吐いた。
「この街の空気に、まだ染まっていない。だが、それも時間の問題かもしれん。だから、早めに出るべきだと言ったのじゃ」
「時間が経てば、私もこの街の人になってしまうってこと?劇場の旅人みたいに」
「あぁ、あれを観たのか。そうじゃな、実際はもっと静かに、自分でも気づかぬうちに、そうなっていくものじゃよ」
老人の声には、どこか遠い記憶をなぞる響きがあった。
「この街、ずっとこんな感じなの?」
問うと、老人はゆっくりと顔を上げる。
「……昔は、千の顔を持つ街と呼ばれていた」
メイの目が、わずかに見開かれる。
「……千の顔?」
「かつてはな、誰もが違う顔を持っていたのじゃよ。同じ通りを歩くだけで、毎日、世界が違って見えた」
老人の声が、ゆっくりと解けていく。
「北の細道には染物師の店があってな。女主人は、気分に合わせて毎日違う髪飾りをつけておった。季節ごとの布に合わせて、色を選ぶ。それが、彼女の自己紹介だった」
「……素敵」
「中央通りでは、朝になると大道芸人が現れての。火を吹く男、糸で人形を操る女、口上だけで泣かせる語り手……彼らの顔は仮面よりもよほど豊かだった」
「鍛冶屋の夫婦は、同じ鉄を使って全く違う剣を作ることで競い合っておった。夫は重くて真っ直ぐな剣を。妻はしなやかで美しい刃を。どちらも、自分の仕事に誇りを持っていた」
淡々とした語りのはずなのに、その情景が、メイの中に鮮やかに浮かんでくる。
「楽器職人、詩人、劇作家、星を読む女、塔に住む発明家……誰もが“自分の顔を持っていた。顔だけじゃない。声、動き、話す内容、全てが違いだった」
語るごとに、老人の声には熱がこもっていく。
「そういう世界が、確かにあった。人と人が違うのは、自然なことだった。誰もが違う自分でいられる街だった。それが、千の顔と呼ばれていた所以じゃ」
「すごく、生きてる街だったんだね」
「そうじゃな」
老人は、しばし黙る。
そして、視線を窓の外に投げた。
「ある時から、誰もが“似たようなもの”を好むようになった。一番人気を選ぶようになった。誰かみたいであることに、安心を覚えるようになった」
「違いが、ズレになっていったんだ」
「うむ。いつしかズレを無くす仮面が流行り、役割が決まり、顔はただの装飾になった。
本当は、仮面は新たな自分を探すための道具だったはずなのに……いつからか、与えられるものになってしまった」
老人の声には、怒りではなく、ただ淡い疲労が滲んでいた。
「違っていいはずだったものが、同じ中の違いで済まされるようになって……そして、いつしか本当に誰でもよくなった」
「誰でもいいってことは、もう自分である必要がないってことだもんね」
その一言に、老人はそっと頷いた。
「……それが、この街の今じゃ。千の顔はもう、千も要らん。仮面が一つになっても誰も文句は言わないだろう」
静かな時間が流れた。
仮面の下で、メイの瞳がわずかに揺れた。
「ありがとう。聞けてよかった」
そして、問いかけた。
「おじいさんは、ずっとこの街にいるの?」
その問いに、老人は答える前に、わずかに笑った。
「ああ。街にくる者を案内をするために残ったつもりだった。自分を無くさせないためにな」
そして、ゆっくりと、自分の仮面に手をかける。
パチリと音を立てて外された仮面――
そこには、顔がなかった。
黒い霧が、目鼻立ちの位置を柔らかく覆い隠し、まるで顔という情報そのものが失われているようだった。
メイは言葉を飲み込む。
その黒い霧は、劇場の旅人のそれと同じだった。
老人は、あくまで静かに語った。
「最初は仮面をかぶっても、自分は違うと思っておった。だがな……気づけば、案内人という仮面が馴染んでしまっていた。今では、自分の言葉で話しているつもりでも、それが自分の意志かどうかも、もはや定かではない」
メイはそっと、仮面に手をかけた。
自分の顔を、見せるために。
「……見ておいて。忘れないうちに」
仮面を外したその瞬間、
赤茶色の髪が揺れ、琥珀色の瞳が光を反射する。
それは、誰かの顔ではなく、彼女自身の顔だった。
老人は、仮面の奥で何かを確かめるように、しばらくじっと見つめていた。
「……ああ、そうだった。人とは、こういう顔をしていた」
その言葉が、やけに優しかった。
「ありがとう、おじいさん。話せてよかった。そろそろ行くね、お元気で。」
「あぁ、お嬢さんも元気でな」
玄関に向かい、扉を開く。
振り返ると、老人は椅子に座ったまま、統一された街並みを眺めていた。
「個を保った仮面の旅人か……いつか現れるとは思っていた。いや、できるならわしがなりたかった」
その呟きは、メイには届かなかった。
扉が閉まり、静寂が部屋を包む。
午後の陽光が、街の中心広場をやさしく照らしていた。
白く磨かれた石畳が、まるで時間の層を跳ね返すように淡く光を反射している。
その中心に、メイは立っていた。
静けさの中に、わずかな気配のうねり。
やがて、仮面をつけた住人たちが静かに集まりはじめる。
市場の商人。住宅街の掃除をしていた者。宿の食堂にいた客。
皆が、それぞれの仮面をつけたまま、整然と広場へと歩み寄る。
一定の間隔を保ち、同じように立ち止まり、同じ角度で顔を向ける。
誰もが声を発することはなく、ただ静かに――メイを見つめていた。
「……これはちょっと、送迎にしてはやりすぎじゃない?」
仮面の下で、メイは苦笑を漏らす。
しかし、その視線には敵意も圧力もなかった。
ただ、観察する者の目。
彼らは、メイという異物の行動を、記録するかのように、静かに囲んでいるだけだった。
バルドの声もまた、抑えたままだった。
「……でも、わかる。みんな、待ってるんだ」
「お前が、何を選ぶのか」
メイはゆっくりと息を吸い、胸元のネックレスに指を添える。
白い、鈴のような、小さな花を象った飾り。
この街では見つけられなかった。
誰も知らず、誰も思い出せなかった、かつてあったはずのもの。
でも、自分の中には、まだ――ある。
そして、決める。
メイは静かに、仮面に手をかけた。
ゆっくりと、その冷たい曲面を外していく。
顔を包んでいた仮面が、ぱちり、と音を立てて離れる。
光が、その素顔に落ちる。
赤茶色の髪が風に揺れ、琥珀色の瞳がまっすぐに、前を見据える。
広場にいた住人たちは、誰一人、動かなかった。
ただ、微動だにせず、彼女を記録するように見つめ続けていた。
その静けさは、沈黙ではない。
無関心でもない。
むしろ、選んだ者に向けられる敬意にも似た、空気の変化があった。
だが、それは街の誰も言葉にしない。
言葉にしてはいけない、という沈黙だった。
変わったものは、何もない。
変わらなかったものも、何もない。
メイは目を伏せることなく、その視線をすべて受け止めるように立ち尽くした。
「メイ、時間だ」
バルドの声が、仮面越しではない場所から響いた。
メイは懐中時計を取り出す。
その針は、静かに“0”を指していた。
次の瞬間――
広場の中央、光が小さくきらめき、空気がわずかに震える。
空間の真ん中に、柔らかな光の縁を持った“扉”が、ゆっくりと現れる。
まるで何もない場所に、唐突に行き先だけが差し出されたかのようだった。
メイは仮面を手に持ち直す。
そしてもう片方の手で、ネックレスを握りしめる。
この街では、花は咲かなかった。
でも、忘れていなければ、きっとどこかにある。
それを探す旅は、まだ続く。
広場の住人たちは、動かない。
ただその姿だけが、証人として静かにそこにいた。
メイは何も言わず、背を伸ばし、扉へと歩き出す。
足音が石畳に優しく響き、仮面を外した彼女の姿が、真っ直ぐに光へ向かう。
語りかける言葉は、要らなかった。
誰にも説明する必要はなかった。
――選んだ、という事実だけが、今の彼女のすべてだった。
そしてその背中を、街はただ、静かに見送った。