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idea note 8

作者: 戸倉谷一活

 九州の戦国大名に立花宗茂という人が居ます。この人の正室は誾千代という人ですが、初めてこの名前を知った時、私は「?」となりました。

 例えば徳川家康の幼名は竹千代ですが、この竹千代という名前は家康の父や祖父も使っており、代々嫡男の幼名として竹千代を用いていたようです。

 家康も長男の信康が生まれた時には竹千代と名付けており、後に三男の秀忠にも竹千代の幼名を与えています。

 家康には男子が十一人いますが、次男の秀康は於義伊、四男の忠吉は福松丸、五男の信吉は万千代丸、六男の忠輝は辰千代の他に竹丸と藤松、七男は松千代、八男は仙千代、九男の義直は五郎太丸、十男の頼宣は長福丸、十一男の頼房は鶴千代となっています。

 三男の秀忠に関しては竹千代を使う前は長松が幼名だったようです。

 家康には娘が五人いまして上から順に亀姫、督姫、振姫、松姫、市姫です。

 男子は十一人いましたが、女子は五人しかいなかったので家臣や親族の娘を養女として迎え、他家へ嫁がせていました。その養女の中で名前がわかっているのは小松姫、満天姫、栄姫、阿姫、蓮姫、国姫、亀姫、万姫、振姫、菊姫です。他に養女は十三人いますが、本名はわからないようです。

 家康の正室である築山殿、この人の本名は瀬名とも言われていますが、瀬名氏の出身を意味しているのでは無いか、その様にも考えられています。江戸幕府の史料でも築山殿との表記はあっても本名は全く記されていないようです。

 築山殿の後、秀吉の妹である朝日姫が家康へ嫁ぎましたが、朝日もしくは旭が本名であったか否か、こちらも史料では確認できないそうです。

 家康の側室は西郡局から於古茶、於愛、於竹、於都摩、於茶阿、於亀、於久、於万、於梶、於富、於夏、於六、於仙、於梅、阿茶局、於牟須、於松、他に名前がわからない側室が二人か三人と言った感じです。

 簡単に徳川家康とその息子達の幼名、そして妻や娘の名前を並べてみましたが、誾千代という名前が四百年前の女子の名前としては異例な気がします。

 現代ならば美千代や千代子という感じで名前に千代が付いていても不自然では無いが、この時代だとやはり不自然に感じてしまいます。

 土佐国の殿様で有名な山内一豊の妻である千代も史料でも千代と記されているものは無いそうです。今の時点では千代が正しいのか否か、まだ判明していないと言うことです。

 改めて誾千代について調べてみたのですが、父親である立花道雪は男子に恵まれず、娘である誾千代へ家督を譲ったそうです。

 戦国時代、女性で城主となった人は何人かいますが、夫である本来の殿様が亡くなって後継者である息子が幼い場合、臨時として城主となる例が多いです。

 しかし、誾千代は七歳で家督を継承します。父親である道雪は引退したわけでは無く、主君である大友家のために戦場を駆け巡っていました。

後日、道雪は同僚でもある高橋紹運の長男を婿養子として迎えます。これが宗茂です。

 誾千代と宗茂、別居している時間の方が長く、不仲説もありますが、こちらも史料として不仲説を裏付ける物は無いそうです。本当に運が悪かっただけなのでしょうね。

 残念ながら二人の間には子供が生まれませんでしたし、誾千代は三十代で亡くなってしまいます。宗茂は再婚しますが、子宝には恵まれず、弟の子を養子として迎えて立花家を継がせます。こうして立花家は幕末まで続くのですが、宗茂は関ヶ原の合戦で西軍に属し、一度は領地を全て取り上げられて浪人者となってしまいます。しかし、人柄が良かったからか、徳川家康は宗茂を呼び寄せて旗本として領地を与えます。さらに加増して大名として復活、大坂夏の陣では戦功もあったので柳河城主十万九千二百石へと復帰します。

 宗茂は伊達政宗、幸村の名で知られる真田信繁と同い年で三人の中では一番長生きしています。宗茂は島原の乱にも参戦、活躍したそうです。


 以前から誾千代という名前が気になっていました。近年ですと「男の娘」という言葉がありますし、戦国時代を駆け抜けた「男の娘」誾千代として主人公にライトノベルとかが書けたら面白いかもしれません。

 また宗茂はその生涯で幾度となく名前を替えています。幼名の千熊丸に始まって弥七郎、統虎、鎮虎、宗虎、正成、親成、政高、尚政、俊正、経正、信正、宗茂と一体何回名前を替えているのか、数える気も失せてしまいます。

 幼名の千熊丸、弥七郎は良いにしても何がきっかけで統虎から宗茂まで名前を替え続けたのか、そして宗茂で落ち着いたのか、今回は手を抜いてWikipediaのみを参考としたのでこの辺りは謎のままです。詳しく調べたらどこかに答えはあるのかもしれませんし、案外、宗茂のきまくれだったのかもしれません。

 これがライトノベルとかならば誾千代が姓名判断か何かに凝っていて次から次へと改名を迫ってくるとか、自分が病に倒れた時も先のことを考えて良い名を考えて書き残していたとか、そういう設定を思い浮かべてしまいます。

 本当は「史的な夜話」で誾千代と宗茂についてしっかり調べて書きたかったのですが、今回は「idea note」へ残しておきます。

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