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それからの日々は楽しく、穏やかに、四人共に夢みたいに過ぎた。
ひと月が過ぎようとしている。
レンブラントはネロの中にいる黒いのがネロの支配下に入るように手伝い、十歳になるまで自由にしていた魔物は多少厄介な部分もあったが、最終的にはネロに懐いた。レンブラントにとってのイーサンのように、ネロは黒いのに『アイデン』と名を付けた。アイデンは名を持つ前よりも遥かに力を得て、呼ぶと姿を見せるようになった。彼は巨大な恐ろしい蛇の形をしていて、一度ケイティに見せた時は気絶していたくらいには凶悪な面構えをしている。
アイデンを下してから、ネロにも魔物との一体感が生まれ始めた。
魔はひとつだ、と言ったアンの言葉の意味を理解するようになる。
魔物達は互いに好きに融合出来たし、分離もできた。殆どの確たる形を持たない魔物達は自分と他者との境界が曖昧で、常に喰い合ったり離れたりして生きている。そこには個があるようでない。それぞれの記憶は誰のものかもわからず靄に溶けていく。
高位の力を持つひと握りの魔だけに形や自我が生まれて意思の疎通を自由にするが、その自我の記憶さえ黒い靄に容易く溶けた。溶けた記憶は望めばどの魔であっても手に入る。
例えばイーサンが見た異国の記憶をネロが見ることも出来たし、連綿と続く魔物達の歴史は誰に教えられずとも既にネロの記憶にあった。ネロは何十、何百、何万年分の生を重ねた十歳の少年になった。
「急に色んなことがわかった…皺くちゃの老人になった気分だよ」
「ちゃんと覚醒できた証だ」
レンブラントは当たり前に言った。魔力に関して言えば、覚醒が訪れた後には過去の記憶を紐解いて行使するだけでよかった。人は確たる身体に強い自我を持ち、記憶をストックできて理論を立てることができる。その上で強い魔力を宿し、また練り上げた結果、レンブラントは約四百年の間に並ぶもののない魔物…魔法使いになった。ネロもまたこれに続く存在になることは明白であった。
「僕の魔力は…アイデンは他と比べると最初から随分強いな。どうしてだろう?」
ネロの単純な疑問に、レンブラントは口を噤むが、アイデンが代わりに主人に答える。
「人を模して更に子を孕ませる程の魔力を持つのは余程の高位の魔物なんだよ!その魔力を注ぎ込まれて生まれる子供の魔力が弱いはずがないのさ」
「あ…そうか…ママは…」
はっと気が付いてネロが絶句する。自分の出自の根源は母と魔物に他ならない。
「父さん、ママは魔物のことを」
レンブラントは伏し目がちに首を振る。
「ケイティは分かっていない…覚えていないだろう」
そもそも魔物は人間の魂と悪意が大好物である。
自身の醜さを中和させる目的もあって、清らかな魂であればあるほどその味は抜群になる。魂は人のありとあらゆる感情をぎゅうぎゅうに詰め込めば、最も熟した食べごろを迎える。多くは老人の一歩手前くらいが食べ頃だった。
悪意というのは身に馴染み、主食として好まれた。大きく鋭い悪意であればなかなか手に入りにくくなるので、それだとご馳走になる。
ケイティの身体はその中心が巨大な宝石のように輝いて見えた。生まれながらに恐ろしいほど美しい人間なのである。人にはわからない、魔物にしかわからない麗しいひかり。きっとその魂を喰らうと極上の味がするだろう。身の内に取り込んだ後は何年も恍惚として魂と遊び耽ることもできる。
そんなケイティなので、かなりの高位の魔物が食べ時になるのを待たず手を付けにきても何ら不思議はなかった。その魔物によるマーキングと、その後生まれたネロとアイデンがケイティを護った。だからこそケイティは喰われずに今まで無事だったとも言える。
「ケイティにはまだ魔物の目印が残っていた。熟すのを待って食べに来るつもりだったんだろう」
ネロは渋い顔をする。いくら魔がひとつだと言えど、ネロは人であった。アイデンは困惑しているが、どうしても母を慰み者にした魔物を許せない気持ちが顔を出す。
「記憶の引き出しは多いが、知りたいと思っても全ての記憶を見るのはやめておけよ。途方もない時間、苦しむことになるかもしれない」
レンブラント自身が、ケイティとネロという存在と出会って初めて出自についてイーサンに尋ねた。そこで初めて、四百年近い昔に存在した母の魂がケイティと同じくらいに美しかったことを知る。
レンブラントの覚醒は言葉より早く訪れていたので、母も父も気味が悪かっただろう。だから自分は気が付いたら山の中にいた。あのまま山の中で魔術師が来なければ。
「さぁ、ネロ。では少し難しい魔術をおしえよう」
ネロが嬉しそうな顔をする。
二人は花の溢れる庭で黒い靄と戯れた。
****
「なぁケイティ、今日もあの男前が迎えにくるのか?」
厨房から店の主人が冷やかしてくるのを肩を竦めていなし、料理を運ぶ。
毎日毎日病院へも洋食屋へも、レンブラントは迎えに来る。
本当は乗合馬車と徒歩で四十分ほどの道のりだったが、朝も一瞬で送ってくれる。
こんな楽は癖になったら大変だ、彼はその内居なくなるというのに…と思ったが、どうやらネロがその内出来るようになるらしく、この生活はずーっと続けることができるらしい。
ケイティはこの所、ようやくネロが健康な体になったことを信じ始めていた。
毎日顔色がよく、足取りも確かでふらつく時間もない。毎日アンと遊んで何やらわけのわからないレンブラントとの授業に励んでどんどん強くなっていっている。らしい。
一度『僕の一部だよ』といってべらぼうに極悪な顔つきの巨大な蛇を見せられた時は気を失ったが、自分の産んだ愛する息子が普通じゃないというのなら受け入れるしかなかった。強くなっているのなら、もう何も心配もしなくていいのだ。
だからケイティは内職を一旦ストップした。
代わりにお金の計算に関する書物を買い、食事後の落ち着いた夜に勉強している。どこのお店や事務職も、お金の計算ができる人材が重宝されると聞いたので。
一文無しのレンブラントは博識で、わからなければ丁寧に教えてくれた。お金が無いのに家を作り替えてくれて、大量の食べ物を運んでくれた学校の先生みたいな男の人はびっくりするほど優しい。
だけど、アンとネロの意味不明な話を統合すると、レンブラントという人は魔物の親玉みたいな存在なのだという。蛇より全然強いのだと。あんなに親切で優しいのに?と言ったら、二人とも笑っていたが。
最初は得体の知れなさが恐ろしかったけれど、今となってはそれすら頼もしいと感じるくらいに、自分は彼とアンに対して心を許していた。
仕事が終わって扉を開けるのが、いつの間にか待ち遠しくなった。穏やかな顔で『おかえり』って言ってくれて、壊れ物に触るみたいに包んで目線が合うその一瞬の内に家に運んでくれる。食事中もお酒を注いでくれて、皿が空いていたら何かを取ってくれて、美味しかったら当たり前みたいに口に運んでくれた。ケイティの作るご飯を、世界で一番美味しいと言う。いつの間にか、自分の隣はアンじゃなくてレンブラントが座るようになった。
一緒に暮らし始めてしばらくは戸惑いが勝って認識出来ていなかったけれど、レンブラントの顔は美しかった。それはもう十人並みのケイティなんかよりずっとずっと。そんなレンブラントから優しくされて嫌な気はしなかった。ちょっとだけ、お姫様みたいな気持ちになれた。
「よぉ、ケイティ。男が出来たって、男前だと専らの噂じゃないか」
「サムさんまで!別にそんな人じゃないですよ。彼にお世話になって、すごくネロの体調がよくなっているんです」
「え、男前で医者?」
中らずと雖も遠からずなので、曖昧に頷いておく。
「ええ~っ。そりゃあ相当な良い男を手に入れたな」
「そんなんじゃないですって。もう少ししたら、戻られますしね」
「なんだ、そうなのか」
不思議と少しホッとしたサムを尻目に、ケイティは自分の言葉で淋しくなった。
また二人暮らしに戻るんだわ。
「そう言えば知っているか?リュタ州が今度独立するらしい」
「えっ!?知りませんでした!しばらく新聞を読んでいなくて」
リュタというのはケイティ達の国イグリアスの北東に位置する州で、もとはリュタ国とうい小国だった。イグリアスもかつては小国だったが、急激に近隣諸国を侵略した歴史があり、その頃から強国となって今がある。リュタ州もミタバル州もラーニア州もみんな元は国だった部分だ。
「いや、それも何故か新聞には出ないんだよ。だから何故かみんな口伝いに聞いてるだけでな。併合して百年以上経つリュタと縁戚になった者だって大勢いるし…急に親子供と別の国の人間になるんじゃ困るから。国同士の諍いで家族が分断されちゃたまらないってんで民間レベルで敢えて噂を回しているのさ。ケイティはリュタに親類はいないかい?」
「ええ、聞いたことが無いので、たぶん」
「どうもリュタに続けって、グジマルとラーニアも独立したいって手を挙げているらしい。この所突然税金の値上げが相次いでいるのはそのせいだって噂だ」
「そんな背景が…」
リュタはまだ併合した歴史が浅く約百年ほどだが、三百年以上前から併合した国はいくつもある。
「領土がごっそり無くなるんじゃ、今まで入っていた税金も莫大な金額分減るだろ。その皺寄せがこっちにきてるんじゃないかって。商売の売り上げにかかる税率も半年後から十パーセントあげるって噂もある」
「十パーセントもですか!?」
「ああ。去年にも二パーセント上がったところだから…本当に十ならもう五割を超える。売り上げから原価や人件費を抜くと雀の涙だ。これから急に経営が苦しくなる」
「そんな」
仕事をクビになるかもしれない…
「だけど公表されないのは独立の条件が出揃ってないからじゃないか、ってのが大方の見立てだ。もしすると州府が大金を納め続ける可能性も考えられないこともない。だけどまぁそれもないだろう」
「どうしてですか?」
「今のイグリアスには金を要求できるほどの軍事力も政治力も外交力も何もないからさ」
ふぅん、そうなのか。
あまり難しいことの分からないケイティは心配だけを覚えてまた仕事に戻った。
昔学校で習った知識だとイグリアスは大陸の中で大きな領土を持っていたが、そのいくつかの外側にあたる州の部分がなくなるということだ。確か昔の王、アレクシス王が歴史上最も多くの国を併合して、今のイグリアスの礎を築いたと言われている。第二の父などと呼ばれている王で、戦争にめっぽう強かったとか。
この時に併合した国々はかなり不平等な条件で統合されることになった。二、三百年以上の時を経てまで独立したいという禍根があっても不思議ではない。
迎えに来てくれたレンブラントに礼を言い、少し街で買い物をしたいと断って新しい参考書と資格試験についての要綱を買うために本屋に向かった。
だけど探し求める本はどこにもない。法律や会計に関する本が本棚から消えていた。
「すいません、会計に関する本を探しているのですが、何もなくて…」
「ああ、すいません。今一旦全ての本が回収されているんですよ」
「回収、ですか?」
「ええ。これから税率がまとめて多く変わるでしょう?先月から大幅に変更になった税も多い。だから国から一旦各出版元に回収するように。古い税率の本を売ると混乱元になりますから」
ケイティの横で、キョトンとレンブラントが棚を見ている。
「ゴッソリないな…そんなに多くの税や法を変えるのか?」
「ええ、そうですよ。ご存じないですか?色んな税率が軒並み上がります。ウチの店も正直カツカツになりますよ。この書店が所有物件だからまだマシな方ですけどね。賃貸の店だと潰れる店も多そうだ」
本屋を出て街を歩くと、急に街全体が寂れて見えてくる。
家がないのか、路上の生活者も増えたような気配があった。
「治安が悪いな」
魔物が言うのも何だがと、レンブラントが見渡して感想を漏らす。
「必要なのは魔物からの守りだけではなさそうだ」
ケイティを見下ろして言った言葉は意味不明だったが、レンブラントは抱き寄せた頭にキスをひとつ落とした後、瞬きの間に家へと飛んだ。
「洋食屋の常連客に聞いた話ですけど、イグリアスのいくつかの州が独立するようです。そのせいで税収が減って、国内の税率が色々と上がることになるとか」
いつものように転がり出てきた可愛い二人を抱きしめて頬に口づけ合い、居間の大きなソファでレンブラントとお喋りをする。アンとネロは台所とダイニングをちょこちょこと往復して食事の支度を始めてくれた。
「あれ、なんだか今日はすごく不思議な香りがしますね」
「今日は父さんがご飯を作ったんだよ」
「えっ!そうなんですか? わぁ、それは楽しみですね」
「ん~…うまいかどうかはわからないけど。米やパンみたいな物に色々とかけたりつけたりして食べる異国の料理だ。前から食べてみたかった」
「へぇ。なんだかちょっと、スパイシーな香りですね?」
「ああ。まるで薬の調合のように色んな粉を混ぜて作る。結構楽しかった」
「今度私にも作り方を教えてください」
「そうだな。カレーと言うらしい。美味しかったものはアンにもレシピを残しておくように言おう」
「ええ」
確かめ合うよう、にっこりと二人で微笑みあう。
ケイティは胸の奥に生まれる淋しさを見ないようにして口角を上げた。
「そうだ、ネロ!そろそろ学校に行くように学校へ連絡しようと思うの」
「えっ、学校に!?」
ネロの顔がきらきらと輝く。
「そうよ。あなたが学校に行ったのは入学式の三日後の一日だけだったわよね。その日も結局熱が出て」
「そうだったかな」
「進級はしているはずだから、問い合わせていつから行くのか決めましょうね」
「アンも行くぅ」
「お前はダメだ。ネロが学校に行くなら、俺たちもそろそろ帰るぞ」
「むぅ。レンの馬鹿ぁ!」
「ネイフンもそろそろ体力がついてきたか確かめなくては。イーサンの話だと前ほど寝なくて済むようになってきたと」
「ネイフンて誰?」
「アンの、一番末の弟だよぉ」
「弟!?」
「そう、アンが一番お兄ちゃんで、九人兄弟。みぃんなアンそっくり!可愛いでしょ」
「九人も!」
思わずケイティが叫んだ。
「末がネイフンだが、これは先月出来上がった。ハチが今三十歳くらいだな。アンは一番最初に作ったから一番時間がかかったんだ」
「アンはレンブラントさんが魔力で作ったと聞きましたが、他にもそんなに沢山作られたんですね」
「そうだ。九人だ!結構長くかかった。それで完成を目の前にしてコイツが逃げ出したから慌てて探しに来たんだ」
「完成?」
「ああ。皆、装置のパーツだ。俺が十番目になって、装置が動く」
「はぁ」
いったい何の装置だろう?相変わらずの意味不明な話で、ケイティは深追いするのはやめておく。魔力だの魔物だの、目に見えないものは聞いてもわからないことの方が多かった。
「お城というのは遠いのですか?」
「ああ。近くはないな」
「ネロがレンブラントさんみたいに一瞬でどこかに行けるようになったら、遊びに行っても良いですか?九人兄弟の他の子たちを見てみたいです」
「いや、遊びに来られても出迎えることができないな」
一旦装置の中に入れば、ずっと眠った状態になるので城に誰が来ても返事すらできないし、多分来客にも気がつかないだろう。だからレンブラントはそう答えた。
「あ……そうですか。そうですよね。すいません、ふふ」
ケイティは厚かましいことを言ってしまった、と内心焦りながら『お腹が減ってきた』と台所に向かう。
「異国の料理に合うようにその国の酒も手に入れたんだ。一緒にどうかな」
「良いですね!ではいただきたいです」
大人の二人は普段通りの会話を続ける。
アンが思い切りレンブラントを睨みつけていた。