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「ママ、荷物を持つよ」
「ダメよ、ネロ。折角体調がいいんだから。ネロの好きなことに体力を使おうよ」
「そう。だから荷物を持たせて?」
「荷物を持つのが好きなこと?そんな訳ないでしょ」
「ママのお手伝い、が好きなこと!」
ケイティは相変わらず出来過ぎた息子に舌を巻く。
私が十歳の頃なんて、お手伝いなんてしないでずーっと近所のアミと木登りしていたんじゃなかったかしら。
小さな息子の手をギュッと握って、じゃあ一つ頼んでいい?と聞く。
「もちろん!!」
ケイティはポケットから銀貨を取り出しネロに見せ、少し先のカラフルなお店を指差す。
「昨日ママが働いているお店のお客さんがネロに、ってお小遣いをくれたのよ。病院の帰りにお菓子を買ってあげて、って。私、ネロがどんなお菓子が良いのかわからないから、その店で一緒にえらんでくれる?」
「え~っ!本当に?」
「本当!」
「でもそれ、ご飯を買うのが先じゃない?お菓子を買っても良いの?」
「当り前じゃない、ネロに、って貰ったんだから!」
「わぁ」
目を輝かせて見上げる丸い額を撫でてやると、ネロは嬉しそうに菓子屋に向かう。
菓子など贅沢品なので、ネロは殆ど食べる機会がない。
ケイティとネロは二人暮らしだ。
ネロは十歳で、ケイティは二十六歳。
ケイティがネロを身籠っていると気付いたのは、かなりお腹が膨らみ始めてからだった。ケイティの生まれた家は裕福ではなかったが、愛し合う両親は子だくさんで常に家計は火の車だった。子の父親がわからぬ事実は両親に対して恥でしかなく、また金銭的な迷惑もかけられず、ケイティはひっそりと教会へ身を寄せてネロを産んだ。
出産後は教会のツテで職を得て、それ以来あくせくと仕事を掛け持ちしながらネロを一人で育てている。ケイティは木登りや駆けっこが大好きだったこともあり、体力には自信があった。だけど、働いても働いても暮らしは豊かにはならない。
ネロは身体が弱い。体調がいいのは時々で、大抵をベッドの中で過ごす。体力が落ちると直ぐに高熱を出しぐったりして、何も食べられなくなる。
全ては母親である自分自身のせいだった。顔も声も覚えていない相手とそういう事をして、ネロを授かった罰だ。身に覚えのない行為には満足な贖罪すら出来ないが、こどもに何の罪もないことだけは確かだった。
ケイティは昼間に洋食屋のウェイトレスと病院の清掃などの雑務、夜は内職をして時間とネロの体調が許す限り働いて、色んなお医者に診せたり高価な薬や栄養剤を買う。
だけどいくらお医者に診せても原因も病名も判然とはせず、特効薬もなかった。
「これ、美味しいと思う?」
「甘くて酸っぱい味ね。ネロ、イチゴ味が好きならこっちの方が良いんじゃない?」
「そうなの?これイチゴ…あ、本当だ、イチゴの匂い!」
二人で飴やクッキー、ラムネなどの小さな菓子をいくつも選んで、袋に詰めてもらった。菓子屋の老婆に銀貨を渡す。本当は、今日の薬代になるはずだった銀貨達。
「残念ながら、効果がないですね…。これ以上は私に出せる薬はありません」
診察室で二人きりになった後、申し訳ないと医師は項垂れて言った。
また次の病院を探さなくちゃ。どこか近い街でまた良さそうなお医者が見つかるかな。
ああ…はやく、ネロと幸せになりたいなぁ。
ケイティは、ぼんやり夕暮れを見つめる。
選んだ菓子が袋に詰められている間、ネロはジーっと老婆の横で口を動かしている小さな生き物を見つめる。金色の瞳に黒髪で、十歳のわりに体の小さな自分よりもさらに小さく、だけど頬っぺたなんかはぷっくりしてる、やたらと可愛い生き物だった。
だけどコイツは人じゃない。
その小さいのは、むちゃむちゃとチョコレートの付いた小さなドーナツを咀嚼して、横にいる母に目が釘付けになっている。
老婆と母には見えないこの小さい生き物は、よく母の周りに現れる悪い奴らと同じだ。自分が威嚇して追い払わないと、そのうち母の魂を喰らおうとする。母ケイティの魂はネロが知っている人たちの中では最も美しい輝きに満ちている。それはもうあまりに弱く悪い奴らは近づきすぎると溶けてなくなってしまう程に。
ネロは威嚇を始めた。威嚇するのは簡単だ。
身体の奥に眠る黒いのを呼び起こすだけでよかった。
小さな可愛い生き物が今度はポカンとしてネロの方を見た。
どうだ。恐ろしいだろう?
ネロは嘲笑う。
だが、小さいのはネロを見た後、また一つ飴玉を選んで勝手に口に放り込み、もう一つを手の中に隠してネロの許にやってくる。
おい、と開きかけたネロの口に、さっと飴玉を押し込んで手を握ってきた。ネロの胸元辺りにすり寄って甘えてくる。
それから小さいのは反対の手でケイティのスカートをギュッと掴んでひっぱった。
「あ、ごめんごめん。じゃあ帰ろうか」
うん、と小さいのが頷く。ネロはえっという顔で母を見た後、小さいのを見る。母には勿論コレは見えているはずはない。小さいのはにやりと笑ってポケットの中を見せてきた。そこにはブラックホールのように菓子が詰まっている。
「………」
ネロは母に頷き、歩き出した。
親子は夕暮れ時、家路につく…アンを連れて。
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最初に雪崩のようにランチの注文を取った後、ドリンクの注文を作って出し、冷蔵庫から付け合わせのサラダを出して運んで、水の無くなったグラスがあれば注いで回る。だんだんと厨房らランチが出てきて、運び出せば少しずつウェイターの仕事は落ち着いてくる。
今日はなかなかお客が多い。
「ケイティ、俺にも水をくれる?」
「あ、ごめんなさい」
常連客のサムがケイティを呼んでグラスを突き出してくる。
「今日はやっぱり混んでるな」
「街で何かあるんですか?見た感じ何もなかったですけど」
「役所で大きな集会があるらしい。いくつかでかい飲食店が仕出しを担当してる。そのせいで開いてる店が少ないんだ」
「あー、そういうのですか。最近時々大きな集会がありますね」
「ああ。税金がまた上がったからなぁ。役所も説明、説明で大変だろうよ」
「本当に困りますよ。また医療費も上がるって言うし」
「あ、ネロはどうだ?」
ゆるゆると首を振るケイティに、そうか、とサムが眉を下げる。
「新しいお医者様を探しているんです。何かいい話が合ったら教えてください」
「またそこからか…わかった、誰か聞いておくよ」
そこまで人気店という訳でも無い勤務先の洋食店もピーク帯が長く、客が入れ替わり何度も忙しい波を繰り返した。夕方前に店を出た時にはケイティもクタクタである。だけど今日は帰ったら内職で造花を十五本仕上げなければいけなかった。
最近ネロの調子が良いことだけが救いである。
朝食のパンを切らしていたことを思い出し、ケイティは疲れた身体に鞭打って少し足を延ばした場所にあるパン屋へと向かう。長年通うパン屋の女将は親子共々仲良しで、いつも不出来な余ったパン等を分けてくれるのだ。
今日はネロの好きな甘いパンがオマケで付いてこないかな…
そんなことを考えながら歩いていると、怒鳴り声が聞こえてくる。
「だから、その金は使えないって何度言ったらわかるんだ」
「だが、これしかない」
「知るかよ、そんなこと!外国の金かなんか知らんが、両替してから来い」
「違う店でも言われたが、両替所という所に行っても交換できないと言われた」
「じゃあ偽物の金なんだろ!!あーもー!早く出て行ってくれ」
「だがもう、何日も食べてない…腹が減って死にそうなんだ…」
「知らねぇよ!」
屋台からは沢山の湯気と、焼いた豚肉のいい香りが漂っている。
最後はドン、と屋台の親父に肩を小突かれ、ボサボサの髪をした男がよろけた。
皆が遠巻きにして見ていたが、しばらくして男がペッタペッタと革のサンダルを鳴らし壁際にしゃがみ込むと、知らんふりをして歩き出す。
お腹がすいているんだわ…気の毒に。そう思ったが、ケイティ自身の手持ちもわずかだ。
進行方向にその男がしゃがんでいるので近寄ることになる。お腹がすいているのは、とても辛い。何度も身をもって体験しているので、何日も食べていないと聞けば同情心がわいた。
そのうち冗談みたいなお腹の音が聞こえてくる。
「あ~ぉ…はらへったぁぁ」
だけどなんだか呑気な声だった。悲壮感が全くない。
俯いている長い髪も衣服もくたびれているが、元は仕立てのいいものに見えた。
「あの…」
男が俯いている顔を上げる。くちゃくちゃの長い髪で殆ど見えない顔かたちだったが、汚れて疲れている様子はわかる。
「お腹、すいているんですよね」
男は髪と髪の間から群青の瞳でケイティを見て、口をあけ放っている。
「私、今からパン屋さんに行くんです。そこの屋台ほど豪華じゃないですが…余ったパンを分けてくれたりするので、もし良かったら一緒に行きませんか?」
「………」
「聞いてます?」
小刻みに男が首を縦に振る。
男は膝に力を入れて立ち上がって、こっちよ、とケイティが誘うままフラフラと付いていく。
軒先の赤いオーニングテントが目印のパン屋の前で男を待たせ、ケイティは朝食用に日持ちのする大きな硬めのパンと惣菜パンをひとつ選ぶ。あとは女将から砂糖をまぶしたパンの耳を大量にもらって頭を下げながら店を出た。
「ちょっと待ってね」
近場の公園まで移動して、腹の音を高らかに響かせながら付いてくる男にベンチを勧めると、油紙で包まれた惣菜パンを渡してやる。
「はい、どうぞ」
「……かたじけない!!」
ひとくち食べて感極まる様子にホッとして、その後ケイティはパンの耳も分けてやった。男は『あまい』と呑気に声を上げ、口の周りに砂糖を付けている。
「大変助かった。死にそうだった!この礼は必ず」
「いえお礼なんて。お金、外国のお金なんですか?」
「昔は遣えたんだが」
「昔?見せてもらっても?」
ごそごそとポケットから取り出したコインは重たく、見たことのない図柄と数字が入っている。
「確かに見たことないコインですね。どこかの外国の古いお金なのかしら。観光者の方ですか?」
「いや…この国に住んでる。もう少し北の方に。今は…あー、人を探してて」
「人探しですか。見つからないんですね」
「ええ。城…家から出てきて三日経つけど、まだ。でも」
「でも?」
見つかりそうだ、という言葉を男…レンブラントは飲み込む。
この目の前にいる、恐ろしいほど美しい女の首元に、アンの涎がついている。かなり困惑した気持ちでレンブラントは頭を掻いた。
なんだ。こんな綺麗な女は何百年と生きてきて初めて見た。生唾が出てくる。
どうしよう。自分の中の魔が疼く。この女の首に俺も涎を垂らして、噛みついて…
アンもこの女を喰らおうとしているのか?
人としての胃がやっと少し落ち着いたというのに、今度は魔物としての欲が湧いてくる。だけど長い人生でこんなこと初めてだった。
「人探しって、ご家族ですか? おじいさんとか?」
店に来る客に聞けるかもと思い、ケイティは尋ねる。
「……いや、子供なんだ」
「こ…こども!?」
ケイティが目を見開く。子供が三日も行方不明など緊急事態である。
「おいくつくらいのお子さんですか?」
「いくつ…」
二百五十歳くらいだが、それだと辻褄以前の問題である。レンブラントはアンの身体の大きさで考えた。
「三歳くらい…?」
「え~!?そんな小さな子! 警察には届けたんですか!?」
「警察…あ、ああ、それはもちろん」
言ってない。
どうやらアンはこの女の前に姿を現していないようだと踏む。めったやたらに綺麗だから、思わず魔物の本性丸出しで付いていってしまったのだろう。馬鹿者め。
「それで、ご自身もそんなクタクタになるまで探していらっしゃるんですね…辛いでしょう。私も気にしておきますよ。どんなお子さんですか」
「黒髪で、瞳が金色で、身長は…このくらいかな」
「わかりました。早く見つかると良いですね」
ああ、もう見つかった気がする。君の家にたぶんいる。
レンブラントはどうやってこの女の家に行こうかと思案する。普通人間社会は成人した男が知り合ったばかりの女の家を許可なく訪れたりはしないだろう。何百年経とうが断りは必要だ。たぶん。だが何と言う?「家についていっていいか?」「どこに住んでいる?」え~っと他は…
と考えてから、レンブラントは自分が魔法使いであることを思い出した。
そうだった。俺に出来ないことはない。
「では、気になるお子さんを見かけたら、警察にお伝えしますね」
「あ…ああ、ありがとう。すまない」
ケイティは『じゃあ』と言って、公園を出て行った。
一旦見送って、レンブラントは自らの姿を消す。それからこの世で最も美しい女の後を恍惚とした顔で追いかけた。