9 白めし、味噌汁、ポテトサラダ
〈会社出ます。〉
義理だけは果たしておこう。
涼太は、会社を出る間際に、愛菜にメッセージを送った。まるで事務的な内容だが、それで構わない、その方が良いと思った。
バイクショップの営業時間に間に合わせるため、早く帰らなければならないが、定時で帰宅すれば、丁度愛菜の帰宅時間と重なってしまう。この前、帰りの電車で愛菜と出くわした時よりも、意識的に会社を出る時間を遅らせた。きっと、彼女はもう家路に就いているだろう。
〈電車乗ったら、教えて〉
B原駅のホームで電車を待っている間にSNSを確認したら、愛菜から返事が入っている。
おや?こりゃ、どうあっても送ってくれるつもりだな。
世話になるのは気が引けるが、かと言って、どうしても避けたい訳じゃない。大体、毎朝顔を合わすのだって、涼太にしてみれば何だか楽しみだ。じたばたせずに、ここは素直に厄介になると腹を決める。
〈用事が終わったら、連絡して〉
電車に乗って、メッセージを送ると、直ぐにこんな返事が返って来る。バイク屋での用事が済んだら連絡しろと言う事か。これは、愛菜はすっかり準備して、涼太を家まで送る気で待っているって証だ。余り待たせるのは申し訳ない。注文通り、バイク屋に原付を持って行き、話が付いた後で愛菜に連絡する。
〈用事済んだ〉
〈駅前ロータリーに来て〉〈赤い軽〉
駅前ロータリーの送迎停車場所に、それらしい赤い軽自動車が停まっている。きっと一旦家に帰ったのに、涼太の帰宅のタイミングに合わせて、改めて出て来たのに違いない。涼太が近付いて行くと、運転席でフロントガラス越しに愛菜が手を振る。
「申し訳ない。」
助手席に乗り込みながら、涼太は出来るだけ事務的に言う。
「バイク直りそう?」
愛菜は車を発進させながら、明るい声を出す。
「取り敢えず、どこが悪いのか調べてもらう。原因が分かったら、手を付ける前に、直すのに時間と費用がどのくらいかかるか、見積もりの連絡をしてくれる。」
「じゃ、まだかかるね。」
「早くても、明日にならないと見積もりの連絡は来ないだろう。」
「じゃ、明日の朝、迎えに行く?」
「いや、良いよ。ほんとに良いから。」
「そんなに遠慮しなくても良いのに。」
「いや、そう言うんじゃない。」
今も愛菜の車の助手席で落ち着かない感じだ。これが明日もあるとなったら、緊張で今夜は眠れない夜になってしまう。
「じゃ、今日、うちで夕飯食べてって。この前、振られちゃったけど、今日はどうかな?」
ええ?
涼太の緊張が一気に高まる。
しまった、そこまで考えていなかった。そう言われるまで気付かなかったが、愛菜の性格を考えれば、こんな展開になるのは読めた筈だ。愛菜のアパートにお邪魔する自分の姿を想像してみる。一人娘と同居しているって言っていた。娘さんに会ったら、どんな顔すれば良いだろう?娘さんがもし留守だとするなら、二人っきりだ。二人で食事って、それはそれで大丈夫か?愛菜は平気な顔しているけど、一体どういう気持ちでそんな事言っているのだ?よく考えずに、軽いノリで物を言っていないか?かと言って、二度も断るのは流石に悪い。
「…良いけど、桐岡は良いのか?」
涼太は恐る恐る返事する。
「何が?」
「これでも、俺は男だぞ。家に上げたりして平気なのか?」
「ハハハ、そうだねぇ。そうか、霧河君、それ気にしている?平気だよ、霧河君だから。中学校の頃のお礼って事で。」
言い終わっても、クスクス笑いながら運転している。そんなに変な事を言っただろうか。って言うか、男の範疇に入っていないって事じゃないか。それはそれで屈辱だ。
「あのね。霧河君に私の事、話しておきたくて。霧河君は、朝の電車の中で、自分の事を何でも隠さず話してくれるでしょ?霧河君ばかりじゃなくて、私も話しておかなきゃ不公平だなって思いながら、流石に電車の中の、他の人に聞こえる所じゃ、ちょっと話せないから。」
そうか、愛菜はそんな事を考えていたのか。でも、それは相手の気持ちを考えもせずに不躾に話した涼太が悪い。こんなだから、元カノ達は、離れて行ったんじゃないか。結局、そこから何も学んでいないって事だ。
「すまん。俺、気が回らなくて、不快な思いさせてしまっただろ。遅いかも知れないが、これから気を付ける。」
「ううん。別にそんなつもりじゃないよ。私、電車の中で喋りたくない事は、勝手に喋らないだけだから。」
喋りたくない事があるなら、人前でだけじゃくて、涼太に話したくない事だってあるだろう。
「前にも言ったかな、私、田中君との事、ほんとに霧河君に感謝しているんだから。でもね、田中君との付き合いは、中学卒業してから直ぐに終わりにしちゃった。最初は、嬉しかったのよ。田中君に憧れてたから、霧河君のおかげで付き合うことが出来て、ワクワクしていたんだけど…、何だか、田中君が付き合ってるのは、私の為みたいに感じてきちゃって。」
想像は出来る。田中は良い奴だ。別に付き合っている相手がいなければ、自分の事を好きだと言ってくれる子を無下に断ったりしないのだろう。きっと田中にとって、愛菜はそう言う存在だったのだ。田中は、愛菜から彼への気持ちに感謝しつつ、その気持ちに応えたいと思ったのに違いない。でも、それは恋じゃない。
「ほら、私って我儘でしょ?自分が好きなだけじゃなくて、相手にも好きでいて欲しいから。」愛菜はフフフと笑う。「田中君じゃないかなぁ~って感じ始めて、田中君にそんな話をしたら、彼もそんな風に感じていたらしくて、それじゃ、卒業を区切りにして、お互い新しい未来に向かって行こうって話になったの。…喧嘩別れしたんじゃないからね。私これでも、好きな人には従順なんだから。」
自分が我儘だと言う言葉と、好きな人には従順というのは両立するのか?女性のロジックは分からない。
「折角、霧河君が間に入って結び付けてくれたのに、御免ね。そんな簡単に別れちゃって。」
「別に、田中と付き合って欲しかった訳じゃないから。二人がそれで良いとしたなら、気にしないさ。」
「そう、安心した。それでも、霧河君が仲を取り持ってくれたのには感謝しているんだからね。」
もう良い。それを何度も言わないでくれ。
「桐岡の家、娘さん居るんだろ?」
涼太は無理に話を変える。
「うん。聖良ね。」
「俺がいきなり行って、びっくりしないか?」
涼太は兎に角、娘さんの反応が心配だ。
「え、大丈夫、大丈夫。…何?心配?」
「当たり前だ。娘さんからしたら、いきなり知らない中年男が自分の家に上がってくるんだぞ。普通、『なんだこいつは』って完全拒否だろ。」
「そうかな。二十歳になって、もう大人だから、そんな事で騒がないでしょ。大丈夫。」
「いや、年齢の問題じゃない。むしろ年頃の娘さんじゃないか。得体の知れない、それも独身男がいきなり家に入るのは駄目だろ。」
「ヘーキ、ヘーキ。気にしないで。」
「俺は、その子の事、何て呼べば良い?第一、お前の事も、桐岡って呼んじゃまずいのと違うか?」
「色々、心配するねぇ。私の事は、桐岡で良いんじゃない?幼なじみなんだから、桐岡って呼ぶの不思議じゃないし。」
「娘さんは苗字で呼ぶのか?梶間って苗字だっけ?」
「そう、梶間。」
「梶間さんって言えば良いか?…でも、親子なのに、お母さんは桐岡って呼んで、娘さんは、梶間さんって呼ぶのおかしくないか?」
「細かいなぁ。霧河君ってそんなに心配性だっけ?」
「神経質なんだ。」
こんな状況に突然追い込まれれば、頭の中がパニックになって当然だ。
「それじゃ、名前で呼ぶ?それなら、良いでしょ。」
え?
「それって、桐岡を名前で呼ぶって事か?」
「他に誰かいる?私しかいないでしょ。私の名前憶えてる?」
「…知ってる。勿論。」
「じゃ、それで。」
「いや…、それは、急に馴れ馴れし過ぎないか?」
「え~、幼なじみでしょ?別に普通じゃない?」
「幼なじみって、そう言うのは、もっと小さい頃から一緒に遊んでいた者同士の事じゃないのか。」
「え~、良いでしょ。小学生から知っていれば、充分幼なじみよ。」
何だか、咄嗟に名前が発音出来る自信がない。会話の途中で名前でまごつくのは絶対変だ。
「私の事、呼んでみて。」
愛菜の声は揶揄っている声だ。
「ん?」
「ほら、呼んでみて。」
「良いよ、別に。」
「ほら、恥ずかしがらなくて良いから。」
「恥ずかしがってない。」
「なら、言えるでしょ。練習、練習。聖良の前でつかえちゃったら、却って恥ずかしいよ。ほら、呼んでみて。」
「…愛菜さん。」
「ハーイ!」愛菜が元気よく返事する。「じゃ、私も、霧河君の事、名前で呼ぶ様にするね。名前、涼太で良いんだよね、涼太君。」
「合ってる。」
何故だか不機嫌な言い方になる。
「オッケー。」
上機嫌の愛菜と気後れしたままの涼太を乗せた車は、アパートの駐車場に入り込む。住宅街の狭い道に隣接してアパートの住人用駐車場があり、その奥に二階建てのアパートが建っている。愛菜はその一階角のドアを開けた。
「まだ、聖良は帰ってないみたいね。」
ドアを開けながら愛菜が呟く。ドアの向こう、ぽっかりと口を開けた暗がりに、彼女は構わず突入し、手探りで明かりを点ける。黄色味を帯びた明かりの中に、こじんまりとした玄関と、それに続く短い廊下が浮かびあがる。
「入って、入って。」
「お邪魔します。」
涼太は、愛菜に続いて玄関で靴を脱ぎ、樹脂製のシートが貼られた廊下に足を上げる。恐らく、このシートの下は、古い木の床になっている。愛菜や涼太が動く度に、キシキシと僅かな音を立てる。
「随分、古いアパートでびっくりしたでしょ?私のお給料じゃ、高い所は借りられないから。」
廊下脇のドアを開けて中に入ると、そこは所謂ダイニングキッチンと言われるスペースだ。壁際にキッチンがあり、反対側の壁際には、冷蔵庫と食器棚。部屋の中央にダイニングテーブルが四脚の椅子とともに置かれている。
「安普請だから、上の階の人の音とか、隣の人の音とか、良く聞こえる。もうちょっと良い所があれば、引っ越したいけどね。」
涼太の実家の殺風景な景色とは違い、壁掛けの小物入れや、ダイニングテーブルに掛けられたテーブルクロス、食器棚の板に付けられたキャラクターグッズに女性らしさが漂っている。涼太は勧められるまま、テーブルの椅子の一つに腰掛けた。
「ちょっと待ってて。直ぐに作っちゃうから。」
愛菜は、テーブルの上の小物入れに鍵を入れ、隣の部屋に手荷物を置いて戻って来ると、そのまま台所に立つ。
「あ、あんまり慌てなくて良いよ。」
こう言う時、どう声を掛ければ良いのだろう。大したものでなくて良いと言うのは、失礼な気がする。
「あ、そこに湯呑と急須。ここにポットがあるから、悪いけど勝手にやってて。」愛菜はキッチン台に向かい、手を動かしながら、ヘヘへと笑う。「あ、それともビールにする?」
「いや、お茶で良い。」
この上、酔っ払ってしまったら、どんな失態を演じるか分かったものじゃない。
「じゃ、ビールは食事の時にね。」
「いや…、えっと、愛菜はアルコール飲むのか?」
「うん、たまにね。聖良も飲むよ。涼太君は?」
「都会に居た時は毎晩だったけど、こっちに帰って来てからは、二日に一度くらいだ。」
「じゃ、今日も良いでしょ?バイク無いんだし、飲めるよね。」
重ねて断るのも何だか憚れる。もしかしたら、愛菜が飲みたいのかも知れない。自分と?まさか。
「じゃ、ビール一杯だけ付き合うよ。」
「フフン、オッケー。」
外から物音が聞こえる。ガチャガチャと軽い金属音に続いて、玄関ドアが開く音がする。涼太の体に電気が走る。直ぐにドアが開いて、スラリと背の高い若い女性が姿を現す。愛菜よりも十センチは高い。トウモロコシの髭の様な黄色味の強い茶色に染めた髪を後ろで一つに纏めている。縦に長い、すっきりとした輪郭と、鼻筋が通った顔は、きっと、涼太は知らない父親に似ているのだろう。涼太は、勢いよく椅子から跳ね上がると、直立不動で女性と向き合う。女性も見慣れない男の姿を見付けて、身を固まらせて立ち止まる。
「あ、いらっしゃい。」
「お邪魔しています!」
「聖良、お帰り。」料理を続けながら、愛菜が娘に声を掛ける。「この人、前に話した霧河君。」
「どうも、初めまして。」
爽やかな笑顔と共に聖良が涼太にお辞儀をする。完璧なまでの営業スマイル。
「初めまして、霧河です。」
涼太は、腰から三十度に曲げ、こちらも完璧な営業挨拶を返す。長年続けた営業畑の仕事で無意識でもちゃんとした挨拶が出来る。
「ゆっくりしていって下さい。」
聖良はそう言いながら、奥の部屋へと消えていく。涼太は、直立不動のまま、その姿を見送る。
「なぁに、変なの。」
愛菜は笑っている。涼太は、背筋を伸ばして椅子に腰かけ直す。
聖良は、暫く姿を見せなかったが、部屋着に着替えた姿で戻ってくると、愛菜と並んでキッチンに立ち、一緒に料理を始める。きっと今日が特別じゃない。いつもこうして、親子で一緒に料理をするのだろう。二人の後ろ姿には、外連味の無い、力の抜けた、心の近さが感じられる。二人は、涼太の前で取り繕う必要など無いのだろう。
「…あの、何かやる事があれば。」
涼太の存在を忘れた様に料理に集中する二人を見て腰を浮かす。
「良いから、そこに座ってて。却って邪魔だから。」
愛菜の言い方はストレートだ。隣で聖良が含み笑いをしている。
「そう…。」
涼太は落ち着かない腰を椅子に戻す。
我慢すること暫し、テーブルが料理で埋まっていく。主菜はメンチカツ。白めし、味噌汁、ポテトサラダ…。ちゃんとした食事。都会で長く一人暮らしをし、帰って来ても実家で一人暮らしている涼太にとって、いつ以来のまともな家庭料理だろう。
「ビール、飲むでしょ?」
愛菜が冷蔵庫から缶ビールを一つ取り出して、涼太に掲げて見せる。
「愛菜は?どうせなら一緒に飲もうよ。」
「え~、私は要らないかな。」
「じゃあ、俺もやめておく。」
愛菜は両眉を上げて、つまらなそうな意思表示をしたが、それ以上しつこく勧めない。
三人で料理を囲む。涼太の前に愛菜が座り、その横に聖良が座る。話題には気を付けなければいけない。愛菜と涼太だけで会話してしまわない様にしなければ。涼太は、聖良に簡単な質問をする事から始めた。
「聖良さんは、いつもこんな時間まで働いてるの?」
「ええ、時々。特に月末は忙しくて。」
「へえ、経理か何かの仕事かな…」
何気なく会話を続けながら涼太は思う。若いこの子に涼太はどう見えているのだろう。どういう経緯があったのかは知らない。でも、これまでの彼女の人生のどこかのタイミングで、父親と母親が仲違いをして別々になった。それからずっと、母と二人で暮らして来たのだろう。そんな母が、幼なじみとは言え、彼女が知らない男をいきなり家に招き入れた。それも、カッコ悪い、加齢臭がにおい始めそうな中年のオヤジだ。例え単なる知り合いに過ぎないと分かっていても、愛菜が母親であると同時に女性である事を、そして、虫も殺せない様な冴えない中年でも、訪問者が男性である事を、改めて意識してしまわないだろうか。
「…この子、私に似てないでしょ?」
会話の中で愛菜が発した一言にぎくりとする。涼太は答えに窮する。
「いつも冷静なの。この前も、ケーキが今日だけ半額って広告出てたから、買いに行ったら全然安くなってなくて、『どうしてですか?』って店員さんに訊いたら、『会員限定です』って言われて、そんな事、どこにも表示してないじゃないですかって、私ばかり怒って、この子は、横ですました顔しているの。」
愛菜は今でも悔しそうに話す。
「あれは、しょうがないでしょ。そうだって言われたら、それ以上何か言っても変わらないじゃん。」
聖良は今も涼しい顔で母親を諭す。
「ね~、涼太君、聖良はいつもこんな風。私よりもずっと冷静。私の方が子供。」
「しょうがない、歳をとったからって性格は変わらないよ。」涼太は愛菜に笑顔を向ける。「お互い、中身は子供のままだ。」
「今じゃ、聖良の方が背も大きいし、私、子供のままでも良いかな。」
愛菜は、横目で聖良を見る。
「ご自由に。」
聖良の返事は冷たい。
「ほんと、私と違って冷静な子。…あ、でも、私に似ているところもあった。」不意に愛菜は思いついて、嬉しそうに声を上げる。「聖良、サッカー観戦が好きなところ。」
涼太の頭を田中の面影が過る。
「あ、私、今度の日曜は、友達と試合観に行くから。」
聖良は、事務的に予定を母親に告げる。
「なんかね、血は争えないって感じ?」
そう言って、愛菜だけが笑っている。
「血は争えないって、母さん、サッカーの試合なんか見ないじゃん。」
「え?今はそうだけどさ。ねぇ、涼太君。」
愛菜は意味あり気な笑顔を涼太に向ける。
「…ああ。」
涼太は、曖昧な笑顔を作ってやり過ごす。聖良は、母親のそんな勿体ぶった態度など、興味ないとばかりに食事に専念している。
「私が中学の頃に好きだった男の子がサッカー部だったの。その人、涼太君の友達で、涼太君が仲を取り持ってくれたの。」
そうやって言葉にされるのは抵抗がある。それじゃ、まるで馬鹿みたいだ。もしもう一度あの時に戻ったら、もう、あんな事はしない。
「ふーん。」
聖良は、冷たい相槌を打つ。彼女がこの話に興味を示さない事に涼太はほっとする。
「いつもは、二人でどんな会話しながら、食事しているのかな。」
涼太は別の話題に変える。
「特に、他愛もない話かな。」愛菜は、聖良の方に視線を向けるが、聖良は食べる事に専念して、母親を見もしない。「今日会社で何があったとか、明日はどうするとか…。」
「成る程。親子はそう言う会話をするんだな。」
涼太は、大皿に盛られたメンチカツに手を伸ばし、少しソースをかけてから頬張った。
食事が済むと、涼太は長居せずに愛菜の家を辞した。気持ち的には逃げ出した感覚だ。愛菜は涼太を家まで車で送って行くと言う。そのために、ビールも飲まなかったんだからと恩を着せられたが、頑なに辞退した。
「すこし歩きたいんだ。」
「また、そんな格好つけちゃって。似合わない、似合わない。」
「いや、ほんと。家までそんな遠くないし、歩きたい気分だから。」
愛菜は最後まで、良い訳だと決めつけていたが、涼太は本当に少し歩きたい気分になっていた。愛菜がアパートの外に出て見送るというのも、近所の人の目があると愛菜親子に迷惑がかかるだろうからと止めはしたが、結局、愛菜が通りまで送りに出て来た。
「あのな、愛菜。」
アパートの外で図らずも二人になった機会を得て、涼太は話を切り出す。
「ん~?」
愛菜は、夜空を見上げている。
「田中との仲を取り持った話、もうしないでくれるか。」
「何?ごめん、しつこかったかな。」
「いや、そういうんじゃなくて…、俺、別に二人をくっつけたかった訳じゃない。ただ…、愛菜に笑っていて欲しかったから、そうしただけだ。」
あの時、愛菜を笑顔に出来るのは田中だった。涼太じゃない。
「そうなの?ありがと。でもそれなら、やっぱり私の恩人じゃない。」
「いや、そんなんじゃない。」
「うん、御免、もう言わないね。」
「すまない。」
愛菜は黙って首を横に振る。
簡単におやすみの挨拶を交わして、涼太は生暖かい空気に包まれて一人夜道を歩き出す。街灯はそこら中にあるから足元は確かだ。初めて来た場所だが、大体どっちに向かえば自分の家があるのかくらいの土地勘はある。涼太は狭い道から大通りへと、ブラブラと歩きながら考えた。
久し振りに誰かと一緒に食事をした。異動してきた後に職場で涼太の歓迎会をしてくれたが、それは食事するというよりも吞む会、宴会だ。愛菜のアパートで、自分が不釣り合いな存在に感じられて、終始落ち着かなかったけど、電車の中とは違って周囲を気にする必要もなく、思ったままを口にする愛菜を見ているうちに、自分の事をこうして受け入れてくれる人が、まだ世の中にはいるんだと、なんだか救われた気分になった。
愛菜は明るい。彼女は話した後で、少しでも相手の反応に不安を感じると、笑ってその場を取り繕おうとするのが悪い癖だ。でも、彼女のその笑顔に、どんな相手もついついほだされてしまう。涼太もそんな一人だ。だから気づかなかった、いや、気付いていても、無理に手を伸ばそうとはしなかった。彼女の中の奥深くにしまわれた、小さな小さな彼女の存在に。
愛菜の結婚した相手がどんな人だったのかは知らない。だが彼女の事だ。些細な事で別れてしまった訳じゃないだろう。きっと悩んで悩んで、それでもどうにもならなくて、えらい勇気を振り絞って別れると決めたのだろう。娘さんと彼女の間に感じられた見えない絆は、二人が共に味わった逆境の中で育まれたものに違いない。愛菜は今も、哀しみや寂しさと共にいろんな後悔を彼女の中に包み隠したまま、毎朝笑顔で涼太の前に現れるのだ。
愛菜の為に自分は何が出来るだろう。
傷付くことに憶病になって、可能性を諦めて、しまい込んだ情熱に気付かないふりを決め込む自分をふがいないと思いながらも、涼太はそのぬるま湯の中に漬かっている。
愛菜の本当の笑顔が見たい。取り繕う笑顔じゃなく、誤魔化す笑顔じゃなく、彼女の奥の、小さな小さな彼女が発する笑顔。そのためなら自分に何か出来るのじゃないかと思うのは思い上がりだろうか。愛菜にとって、余計なお世話だろうか。
ひっきりなしに車が往来する幹線道路を歩いて、涼太が人気のない実家に帰り着いたのは、丁度三十分後だった。
駅までバスに乗って来た涼太は、次の日も電車の出発間際に車内に滑り込んだ。愛菜は先に電車に乗って、涼太を待っていた。
「やっぱり、迎えに行った方が良かったんじゃない?」
愛菜がクスクス笑う。
「いや、何とかなってる。これは、俺の勝手な拘りだ。」
「何の拘り?」
「その…、人に甘えてばかりじゃ、駄目な人間になるからな。」
「ストイックなんだ。」
「あの、娘さん、俺の事何か言っていなかったか?」
涼太は我慢しきれずに、一番気になっている事を口にする。
「えぇ?別にぃ。何か気になる事でもしたの?」
「しない、しない!愛菜だって、その場に居たろ。でも、聖良さんにとって、俺は知らない中年の小父さんだ。拒否反応が出ていなかったか?」
「ふーん、そんなに気にしているんだ。…駄目だからね。うちの娘に変な気起こしたら、承知しない。」
「待て待て!どうしてそう言う話になる。」
「中年になっても、恋愛対象は若い子のままなんでしょ。」
「そんな事、考えているもんか。」
「じゃ、何で聖良の事が気になるの?」
「え…、そりゃ…、こっちが無意識でも相手に迷惑かけてる所が有るなら、直さなきゃいけないだろ。」
「へー。…別に何も言ってなかったよ。関心ないんじゃない。」
何故か愛菜の言い方は、突き放す様だ。何か気に入らないのか。
「そうか…。なら良い。」何故だろう。妙に心がざわつく。愛菜の機嫌が直れば落ち着くだろうか。「昨日はありがとう。久し振りにまともな夕飯を食べられたよ。」
「あんなものでも、お口に合いましたでしょうか。食べたくなったら、いつでも言って。」
「じゃ、その内にまた。」
「今度はビールも飲みましょ。私も飲めば良いよね。」
「そうだな。そう言う食事がきっと幸せなのかもな。」
愛菜が一瞬びっくりした様な顔を見せた後、フフフと笑う。
「あれ、何か変な事言ったか?」
「ううん、別に。」愛菜は慌てて否定する。「そうだよね。そういう食事が幸せだよね。」
涼太は愛菜の反応を訝しがりながらも、視線を車窓の外に移す。その後も電車に乗っている間中、愛菜は時々思い出した様に含み笑いを浮かべていた。