8 原付バイク
今から振り返ってみれば、学校はメンタル強度のカースト制度の世界だった。見せかけでも良いから自分が正しいと強く押し通せる者が上位者だ。細かい事を気にせず、こんな事をしたら後で困らないだろうかなどと余計な事は考えずに、その時の感情で無茶が出来る奴が最強だ。だが、歳をとって社会と言う、他人が守ってくれない世界に放り出されれば、それまでの世界は幻想に過ぎず、学校カーストは世の中で通用しない事を思い知る。学生時代の成功体験にしがみ付く者は、いつかどこかで痛い代償を払う事になるのだろう。学校という特別な世界しか知らず、その中に閉じ籠った学生達には、社会に出た後の事など知る由もない。いつの時代もカースト制度は、目に見えない霧の様にクラスを覆っている。
何が何でも自分を主張する力は無く、無茶を押し通す腕力も無い涼太は、中学校の中で静かに目立たずに生活していた。厄介事に巻き込まれるのは御免だ。弱い立場でも、強引な奴等と関わらない様にしていれば良い。涼太からすれば、田中はそういった世界の外にいる様に見えた。性格が良いままで、誰からも認められる存在にはどうやったらなれるのだろうと、涼太は田中を見て不思議に思っていた。仮にそれが、コミュニケーション力のなせる業だとしたら、それが分かったところで、涼太には到底真似出来ない事でもあったが。
だから、愛菜の思いを実現させてやろうと思った。弱者の涼太には、愛菜が田中に憧れる気持ちが理解出来た。自分が愛菜の為に出来る事は、彼女の思いを遂げさせるための手助けぐらいが精一杯だ。今から思い返せば、きっとそうだ。あの時ははっきり理解していなかったけれど、それが涼太の行動の原動力だったに違いない。
〇 〇 〇
愛菜は、席が離れても毎日の様に涼太の席へと数学を教えてもらいにやって来た。涼太は、そのタイミングを捉えて、愛菜に話し掛けた。
「田中の奴、カノジョは居ないみたいだぞ。」
「え!…ホント?」
愛菜は目を丸くして、声を潜める。もう、数学の事はどうでも良いらしい。
「うん。付き合っている相手は居ない。だから、きっと桐岡にもチャンスがある。トライしてみれば良いじゃないか。」
「え~、でも、他にも田中君を好きな子いっぱい居るから、私が言っても無理。」
愛菜は眉を八の字にして口をとがらせる。
「何言ってんだ。それじゃ、俺が確認した意味がないだろ。桐岡なら、可能性は充分にあるって。頑張ってみろよ。」
愛菜がお前を好きみたいだと田中に言ってしまったとは流石に言えない。だが、その時の田中は、けっして悪い反応じゃなかった。
「う…ん。」
愛菜は足元を見つめて、何か考えている。
「二人きりになるシチュエーション、作ってやるか?」
「…良い。それくらいは自分で何とかする。」
「そうか。じゃ、頑張れ。」
これで自分の役目は終わりだ。田中にカノジョがいないと分かっても、愛菜の事だ、結局言い出せないかも知れない。だから、背中を押してやる事までした。後は、愛菜が自分で決める事だ。
結局、数学の話は何もしないまま、愛菜は自分の席に戻って行った。
一ヶ月が経った。愛菜に田中の事を伝えた直後は、二人の様子を気にしていたが、二人には何も変化がない。田中に告白されたかなんて訊けない。涼太がこの件に関わっていて、何か裏で動いているのじゃないかと感じたら、きっと田中は嫌な気分になるだろう。それが、涼太と田中の友情を傷付けるだけなら涼太の自業自得だが、愛菜の告白の結果にまで影響したら取り返しがつかない。と言って、愛菜に訊くのも躊躇われる。何だか他人の色恋沙汰を面白がっている様になってしまうし、もし悪い結果だったら、聞かない方が良いに決まっている。
他人事、他人事。関係ない。
そう自分に言い聞かせる程、気になる物だ。二人の様子から何も読み取れないでいる内に、それは突然にやって来た。
いつもの様に、休み時間に愛菜が涼太の前の席に来て座る。
また、数学か。今日は、何の問題だ?
大抵、涼太が何をやっているかなど気にせずに、机の上に数学の教科書を広げ、彼女の愚痴が始まる。だが、その時は、椅子に横向きに座ったまま、両手を膝の上に置いて、遠くを見ている。
「…私、告白したよ。」
静かに呟く愛菜の言葉は、予想していた数学の愚痴とは全く違う響きで伝わって来て、涼太は不意打ちを食らう。すんなり頭に入って来ない言葉の断片を頭の中で繋ぎ合わせて、なんとか意味を理解する。俄かに胸騒ぎが襲ってくる。
「桐岡、それ…、それで、どうだった?」
「うん。」愛菜は顔を涼太に近付け、更に小さな声になる。「少し考えるから時間をくれって。」
「…そうか。」
田中のその反応は、どういう事だろう。愛菜の事が嫌いじゃないのなら、直ぐにOKしても良い様に思える。つまりは、冷却期間を置いて断るための前振りだろうか。何だか頭がガンガンする。
「誰かと付き合うなんて考えた事無かったから、気持ちを整理したいんだって。」
愛菜はそこまで話すと、顔を涼太から遠ざけ、両眉を上げてみせる。元気がない。どうにも冴えない表情だ。
「…駄目って決まった訳じゃないだろ。」
なんとか涼太はそれだけ口にする。
「どうなんだろう。」
こんな元気のない愛菜は初めて見る。数学のテストの前だって、もっと元気だ。
自分のやった事は正しかったのか?心の片隅で、こういう結果を想像してなかったか?…分からない。
「霧河君のおかげで、踏み出すことが出来たよ。ありがと。」
愛菜は一瞬ニコリと笑顔を見せて、直ぐに席を離れて行った。
そんな出来事が関係しているのかどうか涼太には分からなかったが、いつの間にか愛菜が涼太に数学を教えてもらいに来ることは無くなり、三年生のクラス替えで愛菜と涼太は別々のクラスになって、言葉を交わす事も無くなってしまった。
〇 〇 〇
春は駆け足で過ぎ去り、肌に纏わりつく湿った空気に苛まれる季節がやって来た。結局、涼太は会社の近くにアパートを借りる気になれず、相変らず実家から毎日通勤している。雨の日が増えた。駅までバイクで出る涼太にとって、雨は難敵だ。対策としてレインウエアを買って使ってみたが、雨粒で視界が悪くなるのは避けられず、駐車場でレインウエアを着脱するのも厄介で、二、三度使ってやめた。近所のバス停で時刻を調べて、雨の日はバイクを諦めて、バスを使う事にした。道路が混雑しているといつもの電車の時刻にはギリギリになるが、それでも乗り遅れる事は無い。
通勤電車で愛菜と話す毎日は続いていた。時々、用事や寝坊で、いつもの電車に愛菜が間に合わない日もあるが、大抵、次の日には元気に姿を見せて、照れた様に笑顔で挨拶をし、前日電車に乗れなかった言い訳をするのだった。
涼太は、もう愛菜の過去の話を訊こうとしなかった。気にならなくなったのではない。彼女が中学を卒業した後、どんな人生を歩んで来たのか、ずっと気になったままだったが、考えれば考える程、それに踏み込む資格を自分が持っていないと言う思いが強くなる。愛菜にとって、涼太は単なる中学の同級生の一人だ。こうして毎朝電車で顔を合わせて、親しく話をしているから、つい勘違いしてしまいそうになるが、お互い子供の頃を知っているから着飾る必要が無いと感じているだけで、結局は他人だ。何気ない会話を続けながら、涼太は自分にそう言い聞かせ続けていた。
小さなアクシデントが涼太の未来を変えた。
いつも仕事を終えて、バイクが置いてある駅近くの駐車場に戻って来る頃には、他の利用者は殆ど帰宅した後だ。スカスカになった駐車場内がやけに寂しく見える。小さな蛍光灯が申し訳程度に点いている薄暗い駐車場の中で、残っている自分のバイクを探す手間は必要無い。涼太は駐車場の敷地の中を、最短距離で自分のバイクへと近付く。座席シートを持ち上げて、メットインスペースからヘルメットを取り出して被る。座席に跨り、セルモーターを回す。ここまでは、いつもと変わらず平常通りだった。
あれ?
いつもなら、直ぐにエンジンがかかる。なのに、暫くセルモーターを回しても、一向にかからない。一旦スイッチを切り、もう一度回してみる。駄目だ。もう一度…。三回回して諦める。エンジンがかかる気がしない。セルモーターは元気よく回っているから、バッテリー上がりではない。燃料は?満タンではないが、まだ充分に入っている。バイクの脇にしゃがみ込んで、スマートフォンのライトを点け、分からないなりにも、燃料の配管や、キャブレター、エンジンを外から見ておかしな所が無いかチェックしてみる。
何も分からない。
困った。もう、この時間だとバイクショップは閉まっている。明日店に持って行くなら、家まで押して行くより、今日はここに置いておいて、ここからショップまで運んだ方が近い。バスで帰るか。多分、駅から最寄りのバス停までの便がまだ残っている時間の筈だ。
涼太は、スマートフォンの時刻を確認して、ヘルメットを脱ぐ。額の汗を手で拭い、肩を揺らして大きな溜息をついた。
次の朝、いつもの電車が出発する間際に涼太は駆け込んだ。愛菜は、既にいつもの場所でつり革を前に突っ立っている。彼女は、涼太の姿を見付けると、隣に彼の為のスペースを空けてくれる。
「ぎりぎりだったね。」
電車が動き出すと当時に大きく揺れる。愛菜はすかさずつり革に掴まる。
「ああ。」涼太は息を弾ませながら、何とか声を出す。「昨日、原付が壊れちゃって、雨でもないのにバスで来た。道が混んでて、ギリギリになった。」
「そんなに慌てないで次の電車にすれば良いのに。」
「いや」涼太は大きく深呼吸して呼吸を整える。「そうもいかない。始業時間ギリギリになりたくない。気持ちが焦るとろくな事ないから。」
「なんだ、私に会いたいからじゃないのね。」
愛菜がケラケラと笑う。
「勿論、桐岡に会いたいからさ。だから必死で走って来た。」
「そう、私も霧河君に会えるから、毎日この電車に乗れる様に頑張ってる。」
笑顔の奥で悪戯好きそうな眼が光っている。
それ、どう考えても冗談だろ。時々、一本遅れるじゃないか。
「バイクすぐ直るの?」
「まだ分からない。昨日の夜、帰ろうとしたらエンジンが掛からなかったんだ。だから、今日、バイク屋に持って行ってみないと。…随分前に買った奴だから、もう直らないなんて事になるかも。」
「そうなったら、大変ね。えらい出費じゃない。」
「ああ、でも、それならその方が、早くケリがつく。」
「修理に時間かかる様なら、通勤どうするの?」
「バスしかないだろ…。」
「ね、私、朝迎えに行ってあげようか。」
「え?良いよ。朝は大変だろ。」
「大丈夫。娘は勝手に支度して出て行くから。あ、今日の帰りはどうするの?バイク屋さんに持って行って、それからバスで帰るの?」
「そうだよ。そうなるだろ。」
「携帯出して。」
「え?」
「早く。携帯出してみて。」
そう言いながら、愛菜は自分のバッグの中を探っている。涼太は言われるまま、ポケットから自分のスマートフォンを取り出す。
「SNS出来る様に連絡先交換しよ。」
久しくそんなもの交換していない。やり方にまごつきながらも、何とかやり切る。
「じゃ、今日帰る時に連絡して。」
「いいよ、悪いよ。自分でなんとかするから。」
「バス代掛かっちゃうでしょ。上手く時間帯が合えばって話。私が先帰っちゃってたら、その時は御免ね。」
「バス代は大した金額じゃない。」
「それより、バスを待つ時間の方が堪らないか。」
確かに昨日、夜のバス停で三十分も待たされた。
「まあ、でも家に帰って何か用事がある訳じゃないから。」
「良いから、会社出る時、連絡だけしてみて。良いでしょ?」
涼太は渋々、頷いた。