7 名簿
部活動が無くなるテスト期間、教室に田中が一人になるタイミングを捉えて、涼太は一緒に帰ろうと声を掛けた。幸い、田中は素直に応じてくれる。中学校からの帰り道、ブラブラと二人並んで歩く。随分学校から離れて、他に生徒の姿がないのを確認してから、涼太は田中に愛菜の話を切り出した。
「桐岡?何で、お前がそんな事言い出すんだ?」
霧河涼太から桐岡愛菜をどう思うか訊かれた途端、田中柊人は、訝しそうな顔で涼太を振り返る。涼太が愛菜から田中を好きだと聞かされたとは言いにくい。自分の知らない所でそんな話がされていると知ったら、良い気はしないだろう。当然、田中にこんな話題を振れば、そう言う質問が返ってくると、ちょっと考えれば思い至る筈なのに、その時の涼太は何の答えも準備していなかった。一瞬、彼は返答に迷う。
「いや…、この前、女子同士の会話をたまたま聞いちゃって、桐岡が田中を好きだって言っていたから、ちょっと気になってさ。」
とても上手い言い訳が出来たとは思えない。
「霧河が気にする事ないだろ。」
「ん~、まぁ、そうなんだけどさ。お前、モテるだろ?だから他に好きな人いるならしょうがないけど、そうじゃないなら、桐岡とお前ならお似合いかなと思ったんだ。」
「なんだそれ。お似合いって、どこ見てそう言ってんだ。」
モテる事は否定しないのか。勢いでお似合いなんて言ってしまったが、さて、どう答えるか…。
「…どっちも、爽やかなアスリートだ。」
「あいつ、部活、なにやってるんだっけ?」
「確か、卓球部じゃないかな。」
「ふーん、霧河、詳しいんだな。」
「別に。他の女子がどの部活かだって知ってるぞ。」
本当はそうでもない。自分が気になる女子数人だけだ。
「だけど、相手が何も言って来ないのに考えたってしょうがないだろ。」
田中は、一瞬間をおいてから、そう突き放す。
端から拒まないと言う事は、今付き合っている彼女は居ないと言う事か。
「でも、桐岡は友達にスゲー勢いで言ってたぞ。あれだと、その内、お前に告白してくるんじゃないか?そうしたら、どうする?」
「さぁな。言ったろ、『もしも』なんて仮定の話を考えたってしょうがない。そうなったら、そうなった時に考えるさ。」
「そうか…。」
涼太はそれ以上、この話題を続けなかった。
田中は良い奴だ。家が近所だったから、小さい頃から一緒に遊んだ。フェンスの隙間から空き地に入り込んで虫を取ったり、公園でどっちがブランコから遠くに跳べるか競争したり…。小学校に通い始めると、身体能力に長けた田中は、地域の少年サッカーチームに入り、インドア志向の涼太とは自然と付き合いが浅くなっていった。それでも、学校で顔を合わせれば仲良く会話する、涼太にとっては気兼ねせずに話が出来る数少ない友達の一人だった。
だから田中を妬む気持ちになれない。愛菜と田中ならお似合いだ。そう言ったのは嘘ではない。二人なら、きっと他人もうらやむカップルになるだろう。そして、それが愛菜の望む幸せの形だ。
涼太は、田中にカノジョがいない事を愛菜に教えて、愛菜が踏み出せる様に後押ししてやろうと決めた。
〇 〇 〇
『私もそれで失敗しちゃったかな。』
愛菜があの日、朝の電車の中で漏らした言葉がずっと頭の中にある。言われた時、涼太は自分の事で精一杯だった。何故、自分が恋愛を成就出来ないのか。何故、相手の気持ちに寄り添えないのか。そればかりに関心が向かっていた。でもその後、愛菜といつもの駅で別れて気持ちが落ち着くと、あの時見せた彼女の笑顔と声が蘇ってきた。昨日の電車の中でも、彼女は失敗したと言った。どうしてあんな事を言ったのだろう。勿論、離婚したのだから、夫婦生活に失敗している。でも、そこには原因がある。何故彼女は、一度は結婚すると決めた相手と最後は別れる決心をするに至ったのか。涼太はそこが知りたい。
一方で、それが涼太とは全く関係無い事なのも理解している。愛菜がどんな人生を歩んで来たかを、ずかずかと無神経に立ち入って知る権利なんて持っていない。だから出来るだけ考えない様に努力してきた。昼間、ふと考えている自分に気付いた時は、自分に知る権利はないと言い聞かせて意識を仕事に集中させる。帰りの電車の中で、頭の中に湧き上がって来れば、夕飯をどうするかに頭を無理矢理切り替える。それでも、何かの拍子にまたそんな事を繰り返し考えている。
そうだ、そもそも愛菜は、一体今なんて苗字なんだ。
涼太はそれすら知っていない事実に気付く。愛菜は、旧姓の桐岡に戻していないと言ったが、今なんて苗字なのかは口にしなかった。確か前に同窓会名簿を見た時、彼女の氏名は、『桐岡』ではなく『田中』でもない、知らない苗字が当てられていたとだけ記憶している。
そうだ、同窓会名簿。
こんな事に躍起になるのは馬鹿らしい、何をしているんだと、涼太は頭の片隅で思いながら、それでも確認せずにいられない。家に帰り着くと直ぐに自室に行き、二十年近く時間が止まったままの本棚の中に同窓会名簿の背表紙を探す。直ぐにそれは目に留まる。涼太が記憶していた位置に、イメージ通りに存在している。取り出してページをめくってみる。彼女の苗字は『梶間』と書かれてある。その後ろに括弧書きで旧姓桐岡と印刷されている。やはり自分の知らない苗字だ。彼女の苗字を知ったところで、何かを納得出来た訳じゃない。尚更、愛菜が抱えている事情が知りたくなってくる。このままでは居られない。拒絶されるかも知れないが、明日の朝、愛菜に会ったらその事を尋ねてみよう。涼太は何とか自分を宥めすかして、その夜は無理にでも眠る努力をした。
次の日の朝、涼太は駅のホームで列に並びながら、愛菜が来るのを待っていた。階段から降りて来る人の波に何度も視線を投げて、彼女の姿をその中に探す。いつまで経っても人の群れの中に彼女の姿は見付からない。いつもなら、もうとっくにすました顔でホームを歩いて来る筈だが、今日は彼女が来ない。
電車の入線を告げるアナウンスが流れる。何故だかイライラしてくる。電車がモーター音と風を伴い、ホームに滑り込んで来る。自動ドアが開いて、乗客の列が動き出す段になっても、彼女は現れない。
あいつ、何やってるんだ。きっと慌てて駆け込んでくるのに違いない。早くしろ。
つり革に掴まりながら、改札口に繋がる階段口の方ばかりが気になる。発車のベル。自動ドアが閉まる。一呼吸おいて、電車はゆっくりと動き出す。
何だ。今日に限って来ないって、どういう事だ。…別に約束している訳じゃない。愛菜と朝の電車で会えなかったのも今日が初めてじゃない。寝坊して後の電車に乗る事もあると言っていたじゃないか。
自分に言い聞かせても、裏切られた気分が拭い切れない。
何で、こんなにイラついているんだ。折角、今日、思い切って愛菜に尋ねようと決めて来たのに。
気持ちの整理がつかないまま出勤し、業務を始める。些細な事が癇に障る。メモ用紙が二枚くっついて、一枚が取れないだけでもイラつく。パソコンのキー入力をタイプミスしては腹を立てている。まるで赤ん坊だ。良い大人が自分の感情をコントロール出来ないなんて。全く酷い一日だ。仕事が上手く行かない時の一番良い解決策は心得ている。こんな日は、思い切って早く仕事を切り上げて、しっかり睡眠をとる事だ。
定時になるのを待って、涼太はさっさと机の上を片付けて退社する。
「あれ、霧河さん早いですね。」
いつもグループで一番最後になる涼太が、誰よりも先に帰る姿を見て、彼の部下が声を掛ける。
「ああ、ちょっと、今日は早く上がらせてもらう。お先に。」
何だか大事な用でもある様な素振りで、そそくさと事務所を後にする。まだ退社時間が始まったばかりだからか、帰りの電車も空いている。涼太は、電車に乗り込むなり空いている席にどっかりと腰を落とした。席に座れれば、いつもなら程無く眠りに落ちてしまうのに、今日は何だかそんな気になれない。気持ちが高ぶっている。これじゃあ、家に帰っても眠くならないだろう。それなら帰る途中でビールとつまみでも買って、すんなり眠れる様にしよう。夕飯が面倒だから、いっそ、それ込みで駅前の居酒屋チェーン店で済ませて帰ろうか。あ、バイクどうしよう…。押して帰るのは面倒だし、置いたまま帰ってしまうと、明日の朝困る。やっぱり、コンビニで買い物して帰るか…。
「霧河君。」
自分を呼ぶ女性の声に顔を上げれば、愛菜が笑顔で近づいて来るのが見える。今停まった途中駅で乗って来たに違いない。
「あ。」
「こんばんは。」
「…ああ。なんだ、今帰りか?」
なんだか、気持ちが急にざわざわし始める。隣に座っていた乗客が気を利かせて、愛菜が座るだけのスペースを作ってくれる。愛菜は軽く会釈をして、涼太と並んで座る。車窓の外は暮れかけている。青白い空ばかりが澄み渡っていて、地上は街灯の光以外、田舎の街並みは闇に溶けてしまっている。代わりに車内の様子が鏡の様にガラス窓に映る。愛菜の隣に座る中年男のくたびれた姿も容赦なく晒されている。
訊いて良いものだろうか。
今日の朝まであんなに尋ねる決意を固めて待ち構えていた筈なのに、いざ不意にこんなシチュエーションが仕立てられると躊躇してしまう。
ええい、何とでもなれ。
「あのな桐岡、今朝、居なかったろ。」
「あ、気にしてくれた?朝、娘が携帯無いって騒いでて、一緒になって探したの。寝坊した訳じゃないんだからね。」
愛菜は何だか嬉しそうだ。
「別に、寝坊でも良いんだが…」
「やだ。誤解されるのは。」
「遅い電車になる時もあるって言ってたから、気にしてないけど。…朝、桐岡に訊きたい事が有ったんだ。今訊いて良いか?」
「訊きたい事?何々?」
やけに乗り気だ。
「前に俺が結婚出来ない原因は何だろうって話した事あったろ。憶えているか。」
「あ~、そうね。…まだ、そんな事言ってるの?」
愛菜はクスリと笑う。愛菜の揶揄いは無視して話を続ける。
「その時、お前、自分自身が失敗しちゃったって言わなかったか?あれ、どういう意味だ?」
「え~、そんな事言ったっけ?」
愛菜は電車の天井を見上げる。
「言った。女性は、好きだって言って欲しいもんだって言って、自分はそれで失敗したかもって言った。」
「嘘、憶えてるよ。そーね、私そう言ったかな。」
愛菜は自分の両手に視線を落とす。
「それ、どういう事なんだ?」
「気になる?」
また、揶揄う様な視線を涼太に投げてくる。
「気になる。」
そう言い切るのに何故か勇気がいる。
「て言うか、まだ、その話したいの?」
「気になる。」一度そう言ってしまったら、後に引けない。「桐岡は、今は梶間って言うんだろ?昨日、前に話した同窓会名簿を探して確認させてもらった。勝手な事をして、気分を害したのなら謝る。」
「別に。隠す事じゃないから。」
「田中じゃなくて、他の人と結婚したから、あんな事を言ったのか?」
「あれ?」真顔になりかかっていた愛菜が一気に破顔する。「なに、そんな風に捉えたかぁ~。田中君との事、霧河君はそんなに気にしてくれてたんだ。なんか悪いなぁ。」
「いや、別に田中の事は気にしていない。そうじゃなくて、お前が失敗したなんて言うから、何を失敗したのか気になるじゃないか。」
何だか、ムキになっている自分がこっぱずかしい。
「御免、御免。妙に勿体ぶった言い方しちゃったね。」
一頻り、愛菜は一人で声を抑えて笑った。笑い終わると、酷く明るく彼女は言う。
「元の旦那は高校の同級生。別に、それは後悔してないよ。」
「何故、苗字を戻さなかったんだ?」
「娘が居るでしょ。聖良。その聖良の苗字が変れば、あの子は、嫌でも周りを気にしなけりゃならない。聖良の苗字はそのままにして、私だけ戻しちゃうと、親子で苗字が違くなっちゃう。それもあの子はきっと気にする。なんか、そんなんで気を遣わせたくなかったから。」
「そうなのか…。」
高々苗字を変えなかった事にすら、これだけ彼女の思いがある。本当に訊きたい事はもっと核心に迫る事だけど、そこはやっぱり、他人の涼太が安易に踏み込んではいけない領域に違いない。
涼太は口をつぐむ。
「霧河君、今日の夕飯、どうするの?」
愛菜が不意に話を変える。
「え?駅前のコンビニで買って帰るつもりだ…。」
「なら、うちに来て食べる?」
「いや、いいよ!」涼太は慌てて手を振る。「悪いよ。」
「別に構わないよ。帰ってから作るから、大したものは作れないけど。」
愛菜はフフフと笑う。
「いや、ほんと。だって、娘さん居るんだろ?急に見知らぬおっさんがやって来たらびっくりするだろ。」
本当は娘さんの反応の心配よりも、自分が娘さんと会って、どんな顔して挨拶すれば良いのか分からない事の方が問題だ。
「聖良も働いているから、帰ってくるのはいつも遅いし、別に気にしなくて良いよ。」
「いや、気にするよ。得体の知れないおっさんが、お母さんと二人で帰ったらまずいだろ。やめておくよ。気持ちだけ。気持ちだけもらっておく。」
「そう?無理には勧めないけど。…じゃ、また今度ね。今度、帰りの電車の中で会ったら、その時は食べに来てね。」
「ああ、そうしよう。」
もう、こんな早い時間に帰らなければ良いだけだ。
「田中君の事、気にしていてくれたんだ。あの時の霧河君には、ほんと感謝しているんだから。田中君とは、中学卒業してから別れちゃったけど、お互い新しい高校で頑張ろうって約束したんだよ。喧嘩とかして別れた訳じゃないからね。…せっかく霧河君に力になってもらったのに、御免ね。」
「いや、気にしなくて良い。それより、俺の方こそ、言い難い事を訊いてすまない。」
そんな事を言ってもらう為にこの話をしたんじゃない。謝らないでくれ。
二人は、その後、当たり障りの無い会話に逃げて、駅の改札口を出た所で別れた。