6 飴
俺達は変わっていない。
『そんなことは無い』と脇からツッコミを入れるもう一人の涼太がいる。中学を卒業してから大体三十年が過ぎている。その間にいろんな人と会話し、いろんな困難を乗り越えて来た。自分の好きな事だけやっていれば生きていける様な、生半可な世の中じゃない。嫌な事にも手を染め、打ちのめされる思いもして来た。それが涼太を成長させもしたが、それはつまり、生まれたままだった自分を変容させる事だ。愛菜も、結婚して子供をもうけ、離婚まで経験して、一人親で娘を成人まで育て上げた。楽な人生だった訳が無い。その中で彼女も成長し、そして変容してきたのだろう。だが、それを理解しきった上で、敢えて言う。
俺達は変わっていない。
『三つ子の魂百まで』と言ってしまえば、それだけで終わりかも知れない。涼太は四十を過ぎても、まだグダグダと詰まらない言い訳を繰り返して、己の感情を言葉にするのが苦手な点は変われずにいる。愛菜は、中学生の頃と違って、化粧をばっちりしているし、顎の輪郭は丸みを帯びているけど、気取らない性格で、思ったままを口にしている様に見えて、実は相手の反応をいつも気にしているのは昔のままだ。少しでも相手の反応に不安を覚えると、小さな笑顔を作って自らの心の不安をかき消そうとする。
中学生の頃、大人はもっと立派だと思っていた。あの頃、涼太が関わる大人は学校の教師や両親ぐらいしかいなかったけど、とても立派な大人に見えた。自分も歳を重ねていけば、きっとあんな立派な大人になれるのだろうと深く考えもせずに思っていた。でも、そうじゃなかった。涼太の中の自分は、欠点だらけの子供のままだ。それに、当時大人に見えていた大人達も、実は彼等の中にある子供の部分が、当時の涼太には見えていなかっただけに過ぎなかったと、今の涼太は気付いてしまっている。こんな涼太でも小中学生から見たら、あの時の教師や両親の様に、立派な大人に見えるのだろうか。
〇 〇 〇
中学二年のクラス担任が生徒の顔と名前を覚えられた頃に、もう一度席替えが行われた。愛菜と涼太は離れた席になった。それでも彼女は、日に一度くらい、休み時間に涼太の所へやって来て、分からない問題を教えて欲しいと言うのだった。
「これ、ここがさぁ。」涼太の机の上に教科書を広げて、愛菜は自分の分からない部分をシャーペンのキャップでトントン叩く。「全然わかんない。なんでこうなるの?」
質問と言うよりも、殆ど愚痴。イラついているのが丸わかりだ。何だか、その姿はいじらしい。
「どこが分かんないんだよ。これは、昨日、授業で先生が説明してくれたろ。」
半分面倒臭いと思いながら、涼太は愛菜の相手をしてやる。
「してた。先生が説明してたけどぉ、その説明が分かんない。」
愛菜はがっくりと肩を落とす。
プロの先生の説明以上の説明など、一中学生に過ぎない涼太が出来る訳が無い。
「良いか、ここに補助線を引くのがポイント。」
「うん、だけど、どうやってその補助線を引けば解けるって気付くの?」
「そりゃ…、自分で図形とにらめっこして、いろいろ考えるしかないだろ。」
「え~、そんなの思いつかないよぉ。」
「こういうのは、いくつも問題解けば、大体どの辺に補助線を入れれば解けるか分かる様になるんじゃないか。」
嘘だ。勝手に想像した事を口にしただけだ。自分はそんなに沢山問題解いてないし、どんな場合に補助線が必要かなんて分からない。その時のひらめきに頼っている。それでも愛菜には希望を持たせてやりたい。
「そうなんだぁ~。」
愛菜はもう未来を失った様な表情をしている。
「元気出せよ。数学は苦手でも、英語は俺より出来るだろ。」
「…ありがとね。」
力の抜けた声。すっかりしょげ返っている。
愛菜は制服のポケットから飴を取り出して、机の上に置く。オレンジ色の丸い飴と半透明な白い四角い飴。透明なフィルムにくるまれている。涼太は徐に飴に手を伸ばす。手の中のそれを見て、どうしようか迷ったが、取り敢えず、今は制服のポケットにしまい込む。
「こういう問題って、そのまま解けそうにないって思ったら、何か足さなけりゃならないって、考えた方が良いと思うぞ。解き方が分かるまで時間がかかるし、焦ると考え方が広がらなくなって却って解けないから、テストで出たら、解けそうにないと思った瞬間に後回しにして、他の問題からやった方が良いと思う。」
愛菜の反応が無い。
涼太は教科書から顔を上げ、愛菜に視線を向ける。愛菜の視線は、明後日の方向を向いている。何かに気を取られて、涼太の話など全く聞いていなかった風だ。涼太は愛菜の視線の先を追う。教室の隅で一塊になった四、五人の男子が、何やらふざけているのが見える。
「…やっぱり、田中君ってカッコイイよね。」
視線を彼等に向けたまま、愛菜が呟く。
おい、数学の問題はどうするんだ。
「お前、前にもそんな事言ってなかったか。」
「うん、言ってたと思う。…なんかさ、漫画に出て来そうなスポーツマンって感じじゃん。」
涼太は、友達の輪の中の田中を見遣る。確かに、笑顔が爽やかな良い奴だ。涼太が持っていない物を全て持っている。そのくせ、偉ぶったところが無い。陰気な涼太とも気さくに会話してくれる。小さい頃から一緒に遊んだ幼なじみだからだろうか。
「そうだな。良い奴だ。」
涼太は、素直に認める。
「なんかさ。…良いなぁって。どうしようもないけど。」
愛菜は赤らんだ顔を両手で隠して、足をばたつかせる。
「どうしようもない事は無いだろ。本人に告白してみなけりゃ分からない。」
涼太は何だか愛菜を突き放さずにはいられない。
「無理だよ。私なんか相手にしてくれない。きっと、モテモテだもん。」
きっとそうだ。
「だからって桐岡に冷たくする様な奴じゃないだろ。第一、田中が女子と二人でいるのなんか見た事ないぞ。桐岡ならチャンスあるかも知れない。」
愛菜はいきなり勢い込んで涼太の腕を掴む。
「ね、田中君にカノジョいないって言うの、ほんと?」
なんか勢いでまずい事を言ってしまったか。田中が女の子と仲良くしているところを見た事が無いのは確かだが、本当は付き合っている相手がいて、人に見られない様に注意しているのかも知れない。愛菜に突っ込まれると、何だか自信が無くなってくる。
「…いや、本人に訊いた訳じゃないから、本当にいないかどうかは分からないけど…。」
「…そうだよね。」
今度はまたしょげかえる。
「本人に確かめれば良いだろ。」
「無理。出来ない。…ね、霧河君確かめてくれない?田中君と仲良いじゃん。」
「馬鹿、そんな事訊ける訳ないだろ。」
田中とは家が近所で幼なじみだが、今じゃ遊び仲間が違い、何だか距離が出来てしまった。
「え~、お願い。」
愛菜は、涼太の前で両手を合わせて頭を下げる。
「駄目。知りたけりゃ、自分で訊けよ。」
「駄目?だよね~。」
愛菜は田中を目で追いながら、浮かない顔で溜息をつく。そんな愛菜を、涼太は黙って見ていた。
〇 〇 〇
「ねぇ、聞いて聞いて。」
今日、電車の中で畳みかける様に話し始めたのは愛菜の方だった。
「聖良…、聖良が娘だって言ったよね?その聖良が最近、サッカーに凝ってるの。やる方じゃなく、観る方。…そう、Jリーグってやつ。会社の同僚でサッカー選手のファンの人がいるみたいで、数人のグループで時々、サッカー観戦に行ってる。」
「この辺にJリーグのチームってあったっけ?」
「あるんだよ。J1じゃないけど、J2とかJ3のチームなら。どうも、その同僚の子が好きなのはチームじゃなくて、特定の選手みたい。それで、ホームの試合だけじゃなくて、アウェイって言うの?相手チームのスタジアムまで応援に行く事もあって、それに一緒について行ってて、遠いから帰りが遅くなったり、時には向こうで泊まって来る事もあって。それって、どう思う?」
どう思うって言われても、不健全な匂いがしない。
「会社休んでまで行ったりしているのか?」
「ううん。その泊まりで行くのは、休日の時。」
「そのJリーガーのファンの子って言うのは、女の子なんだろ?」
「そうなんだけど、一緒に行くグループの中には男の子も入っているみたいなんだ。」
漸く愛菜の言いたい事が見えてきた。要は、その男の子が心配の種なのだ。
「一体、何人くらいのグループで観戦に行っているんだ?」
「えっと、詳しくは分からないけど、四、五人くらいのグループみたい。」
「必ずその中心になっているだろうJリーガーのファンの女の子が一緒に行っているんだろ?」
「うん、…多分。」
どこか不安気だ。
「なら、大丈夫だろ。娘さん以外に女の子がいて、グループで行動している分には、危険な事にはならないんじゃないかな。」
「そうかな。」
「もう、成人を迎えて、働いているんだろ。そんな危なっかしい感じなのか?」
「何が?」
「娘さんが。」
「ううん。私よりずっとしっかりしてる。」
「じゃ、大丈夫だよ。ちゃんと自分で判断して行動しているさ。」
「うん…。」
頷きはしても、彼女の表情は浮かないままだ。
「何か気になる事でもあったのか?」
「それがさ、そのメンバーでグループチャット作っているみたいで、しょっちゅう携帯でやり取りしているみたいなんだ。」
「一緒にサッカー観戦に行くんだろ?だったら、待ち合わせの相談とかあるから、そのくらいするだろ。」
「男からモーション掛けられたりしてないかな。」
「グループチャットじゃしないだろ。周りに筒抜けだ。それに、それは防げないよ。会社の中でだって、その気になれば声が掛けられる。」
「そうだけど…。」
「娘さんを信じてやれよ。誰にだって付いて行っちゃう様な子じゃないんだろ?」
「あの子、男の人と話した事が少ないから…。」
「短大出だっけ?高校は女子校だったのか?」
「ううん、共学の公立校。」
「だったら、男に対する免疫はあるだろ。」
「うん…。」
「もし、どうしても心配なら、自分の経験を話してやったら。親子だけど女同士だ。そう言う事も話せるだろ。」
「私の話なんか聞いてくれるかな。」
「真剣に話せば大丈夫さ。桐岡の実体験の話なら、きっと興味を持つんじゃないか?」
「結婚に失敗しちゃったのに?」
「…失敗しちゃってても。」
「話さなきゃ駄目?」
「なにも何でもかんでも話せとは言ってないだろ。娘の為になる事だけ話してやれば良いさ。」
「じゃ、霧河君の事も話して良い?」
「なんでそうなるんだ?俺の事を話したって役に立たないだろ。」
「私を助けてくれた。」
「だから、何も救ってない。それに、中学時代なんて子供の頃の話じゃなくて、もっと大人になってからの話をしてやれよ。」
「私、そんなに恋愛経験ないから、娘の為になる様な話出来ないかも。」
「ん~、そんなの話してみなけりゃ分からないだろ。話をすればそれがきっかけになって、桐岡が心配している、そのJリーグ観戦メンバーとの内情が訊けるかも知れないじゃないか。」
「そだね。…ちょっと話してみようかな。」
「ああ。やってみて、また考えよう。」
「ありがとね。」
愛菜は肩から下げた鞄の中を探り、何かを掴んだ拳を涼太の目の前に突き出す。
「はい。」
思わず、広げた涼太の掌の上で愛菜が手を開くと、ぽろぽろと飴の包みがこぼれ落ちる。
あ、飴か。
透明なフィルムに包まれた淡い乳白色の丸い粒を見つめて、涼太は苦笑いを浮かべる。
「愛菜はいつも飴だな。」
「そう。いつもバッグに入れてるから。飴、嫌いだった?」
「いや、そんな事はない。」
「良いでしょ?ちょっとした感謝の気持ち。」
愛菜はヘヘへと笑う。
「そうだな。」
涼太は、手に握った飴を一つだけ残して、残りをポケットにしまう。残した一つは、包みを解いて口に頬張る。その様子に愛菜は満足気に笑みを浮かべ、車窓に目を移す。
ちょっとした感謝の気持ち。それは、その通りなのだろう。愛菜自身の事で手を煩わせてしまった他人に対して、重たくなり過ぎずにその場で感謝の気持ちを伝えられる、不器用者の為のアイテム。
でも…と、愛菜と並んでつり革に掴まり、電車に揺られながら涼太は考える。きっとそれは、愛菜自身にとっての免罪符でもある。他人に迷惑をかけた。ほんの小さな事だったとしても、彼女はそれを心に背負い続け、自らが潰れそうになるくらいの重荷に育ててしまいかねないから。こうやって、僅かな事でも感謝の気持ちを伝えて自らの身を軽くする。そうしなければならない程、繊細で脆い心を、愛菜は大らかで無頓着を装う彼女の内側の奥底に隠している。
降りる駅に着いて愛菜が挨拶するまで、涼太は口の中の甘過ぎる飴を持て余しながら黙っていた。