4 欠点
「言ったっけ?私、アパート暮らししてるんだ。」
いつもの様に、朝の電車の中で顔を合わせて話をしている内に、不意に愛菜がそんな事を言い出した。
「実家出ちゃってるから、別にこの町に住まなくても良かったんだけどね。」
アパートで暮らしていると言った。それはおかしな事じゃないが、この町に住まなくても良いとも言った。住む場所は仕事の都合で制約される。例えば、涼太が地元に戻って来たのは、転勤になったからだ。
「桐岡は、旦那さんの仕事の都合でここに居るのか。」
「あ、旦那とは別れちゃったから。」
「そうか…。」
よく考えもせず口にしてしまってから、失敗したと気付く。愛菜と最初に電車の中で会った時に、苗字が変わっていると言った。今も旧姓に戻っていないと言う事だから、勝手に結婚したまま夫婦で暮らしているものと決めつけていた。こういう場合、どう取り繕えば良いか分からず、思わず口をつぐむ。
「別に気にしなくて良いよ、随分前の話だから。」
「アパート暮らしだと、収納スペースが少なくて困らないか?」涼太は、何とか話題を切り替える。前のめり気味に話す自身が滑稽に思えても、沈黙を避けたくて話さずにいられない。「俺は男だから、持ち物なんて大して無い。埼玉でアパート借りていた時も、収納は小さかったけど困らなかった。」
「あ~、そうそう。うちなんか、そこら中に溢れてる。あんまり物が多いから、使わない物は、勿体ないけど捨てちゃう。だから、無駄遣いが多くて貧乏なのかな。」
愛菜はヘヘへと笑う。
「そうか思い切りが良いな。…年寄りが貧乏性で何でも取っておくって言うのは本当だな。こっちに帰って来て、休日にする事も無いから、家の中を片付け始めたんだ。こんなもの、何に使うつもりで取っておいたのだろうと思う物ばかり山の様に出て来てびっくりした。」
「きっと、私達もそうなるんだよ。」フフフと愛菜が笑う。「今度は霧河君が溜め込む番だね。」
「そうならない様に気を付ける。…結局今は、部屋の中に粗大ごみの山が出来てる。まだ途中だけど、整理が終われば、家の中はスッカスカになりそうだ。」
「良いな、広い家。整理が済めば綺麗になるね。ついでに私の家の整理もお願いしたい。ほんと片付かなくって。聖良が…、聖良って、私の娘なんだけど、その子の持ち物がいっぱい。私の若い頃はもっと持ち物少なかったと思うんだけどな。」
「女の子は、いろいろおしゃれに気を遣うから、持ち物が多くなるんだろ?」
「聖良は、おしゃれって言うよりも、スタイルを気にしているかも。私がフィットネスクラブに行ってたのも、娘が一緒に行こうって言ったから。私は先にやめちゃったけど、聖良はまだ通ってる。…今はそれより、娘が変な男に捕まらないか心配。」
愛菜は眉間に皺を寄せて如何にも心配そうな表情になる。
「娘さん、いくつなんだ?」
「今年成人式だった。晴れ着着せたけど、大変だった。」
愛菜の話は取っ散らかっている。ただ、彼女の娘に対する熱量だけが伝わってくる。
「女の子はお金がかかるな。」
「ほんと。…で、さあ、今年短大出て、就職したんだけど、変な男に捕まらないか心配で。」
いよいよ眉間の皴が深くなる。
「そうだな。会社って、いろんな奴がいるから。」
涼太の元居た大宮の職場は、北関東エリア担当の営業所だ。営業マンは、図太くなければやっていけない。大学出のスカした奴から、学生時代は散々悪さしただろうと想像させる様なオヤジまで、癖の強いキャラばかりが集まっていた。どこの会社もそんな奴等ばかりって事はないだろうが、新入社員の若い女の子が入ってくれば、男どもの視線が集まるのは同じだろう。
「そうだよねぇ。いつも気を付ける様に言ってるけど、あの子、私の話なんか、全然聞こうとしなくって。」
「桐岡の娘さんなら、きっと桐岡に似てしっかりしているよ。変な男には引っかからないさ。」
娘さんの事を知りもしないで、根拠のない断言をする。そうでも言わないと、不安のあまり、愛菜が病んでしまいそうだ。
自分の娘の話を始めたら、愛菜は止まらなくなった。次から次へと娘の話が出てくる。離婚した後、一人娘を小学校から短大まで通わせて、今年遂に成人させた事、母親たる愛菜と違って、娘は怒りの感情が無いのかって思うくらい、いつも冷静な事…。涼太は、顔も姿も知らない彼女の娘と愛菜との日常を想像してみる。
「あ、私降りなきゃ。」
話に夢中になってしまい、降りる駅のホームに電車が滑り込むタイミングになってから愛菜が慌てる。
「じゃね、またね。」
早口で言い捨てて、降り遅れまいと開いた自動ドアに向けて突進して行く。涼太は、その後ろ姿を淡い笑みを浮かべて見送った。
愛菜は自分の娘の話をしながら、今まで見た事もない母親の顔になっていた。何だか微笑ましい。自分の事よりも、娘の幸せの方が優先なんだろう。きっとずっと前から、娘がこの世に生を受けてから、ずっと。
彼女は、涼太の知らない世界を生きて来た。鎖国をしていた国が開国した途端、文明の遅れを痛感する様に、こうして愛菜と話す様になったら、これまで涼太の時間が止まっていたと感じるのは何故だろう。
つり革に掴まり、電車の揺れに身を任せながら目を閉じる。
〇 〇 〇
「もう、ちょっと、これからは…。」
香奈は、目を合わさずに、それだけ言って押し黙った。都心のイタリアンレストランのテーブルで、上田香奈と向い合せに座った涼太は、それ以上何を言えば良いのか分からなくなった。
会社の同僚の香奈と付き合い出したのは半年前。最近何となく、思い悩んでいる様な香奈の様子が気になっていたから、『ああ、やっぱり』という気持ちで驚きは無い。ただ、自分の中で何かがみるみる溶けていく感覚に襲われている。
「だから、もう誘わないで下さい。」香奈は怖々涼太の顔を盗み見る。「私、これで帰ります。」
香奈は急いでバッグからサイフを取り出す。
最後に借りを作りたくないみたいな仕草はやめてくれ。
「…良いよ。俺が払うから。」
涼太は、素早く伝票に手を伸ばして席を立つ。香奈に出て行かれて、レストランの中に一人残されるのなんてまっぴらだ。
香奈とはレストランの前で別れた。そのままでは帰り道が一緒になってしまう。香奈が真っ直ぐ帰れるよう、涼太は、暫く周囲をぶらつくからと、香奈の顔を見ずに背中を向ける。そうして足を踏み出せば、もう二度と二人が並んで歩く事は無い。ぶらつくと言ったが、適当に時間を潰せる行き先が思いつかない。このまま、一人酒を飲みに行けば、最後は醜態を晒すに決まっている。それは却って自分で自分を殴りつける様なものだ。何も急ぐ必要はないのに、何かに追い立てられる様に足を前に踏み出す。足元を見つめながら考えている内、こうして、気が済むまで夜の都会を歩き尽くそうと決める。
これで三度目だ。人生で初めて付き合った女の子は、大学の同級生だった。お互い親に生活費を仕送りしてもらっていた。今から思えば気楽な立場だった。思ったままを言葉にし、感情をぶつけ合った。結局、卒業より前に自然と疎遠になった。その次は、会社に入って暫くした時だった。まだ、社内の右も左も分からない涼太に、親切にしてくれた高卒入社の女の子。歳は一つ下だったけど、会社員としては三年先輩だった。今から思えば、涼太がもっと精神的に強ければ続いていたかも知れない。今風に言えば、会社はブラック企業だった。入社したばかりの涼太は、不慣れな仕事に追いまくられて、どんどん精神的に追い詰められて、彼女の事など考えられなくなった。そして、三度目が香奈。涼太が仕事に慣れて、周囲を見回せる余裕も出来て、勝手に二人は気持ちが通じ合っているものとばかり思っていたのに…。
長くて三年、一番短いのが、今回の半年…。何だか、付き合っている幸せな時間がどんどん短くなっている。それはきっと、涼太の中に原因があるのだろう。付き合い始めた時は上手くいく。ちゃんと好きだと言う気持ちが相手に伝わっているし、好いてくれていると感じられる。でも段々ギクシャクしてくる。きっと、少しずつ気付かない内に相手にダメージを与えてしまうのだ。それは何だろう?好きと言う気持ちは変わらない。確かにそれを口にする機会は、減っていくけれど、それだけで別れに繋がるのだろうか?もっと何か、決定的に相手を遠ざけてしまう何かを涼太は抱えているのに違いない。例えば、それは自分勝手な性格じゃないのか?二度目の時は、自分に精神的な余裕が無かったからだと言い訳しているが、一度目や三度目の時は、相手を思い遣れていたのか?つまりは、自分をコントロールするのに精一杯で、相手の事まで考えていないのじゃないか?それなら、思い当たる出来事は山の様にある。そんな人間に恋愛をする資格があるのか?どうすれば良い。どうすれは変われるんだ。何が足りないんだ。
涼太は結局その夜、痺れ切った頭と足を引き摺って埼玉のマンションに這い戻った。
〇 〇 〇
涼太は目を開けた。電車は減速し、B原駅のホームに着くところだ。人の流れに乗って電車を降りる。何者かに洗脳された集団の様に、誰もが押し黙ったまま整然と群れになって改札口へ行進する。流れに身を任せたまま、涼太の頭の中はまだ考えに囚われている。
愛菜は結婚した。涼太と違って、謂わば恋愛の成功者だ。それなら、涼太の何がいけないのか分かるんじゃないか?もう、恋愛はどうでも良い。とうに諦めたけど、人間として欠けている部分があるなら正したい。彼女は幼なじみだ。今更涼太との関係で忖度などしない。何か気付くなら、きっと率直に、正に思ったままを口にしてくれる筈だ。