3 数学
中学二年の学校生活が始まると、何だか本当に涼太が愛菜のお世話係になった様な雰囲気だった。涼太にそんなつもりはなかったし、別に気にもしていなかったが、愛菜の方は、勝手にそう見做している風だ。
「…こういう、証明する必要のない、予め決められているルールの事を何て言うのかな?誰かに答えてもらおう。」
数学の時間、川村先生は黒板に書いた証明問題を解説する途中で、誰かに答えさせようと、クラスの名簿に目を落とす。
「えーと。」
川村先生が思案している間、俄かに張り詰めた空気がクラスを覆う。誰も声を出さないが、誰もがそれを感じている。
「じゃあ、桐岡。」先生は顔を上げて、反応する生徒がいるか見回す。「桐岡。いないか?」
「あ、…はい。」
遠慮がちに声を上げて、愛菜はノロノロと立ち上がる。前にも増して教室中が静まり返る。居た堪れない嫌な感じだ。
「えぇ~。」
愛菜の口から困惑の意思表示が漏れる。暗に自分は分からないと白旗を上げている。涼太は後ろから、もぞもぞと居心地の悪そうな愛菜の制服の背中を見つめる。こんな曖昧な質問に答えるのは難しい。この感じじゃ、愛菜は答えに辿り着かない。と言って、こんなに静まり返った教室の中で、先生から見える位置で、後ろから答えを教える訳には行かない。第一、頭に浮かんでいる答えが合っているのか、涼太も半分自信が無い。
短いけれど、永遠に続きそうな沈黙。
「それじゃ、代わりの人に答えてもらおうかな。じゃ、同じ『きり』繋がりで霧河、分かるか。」
来たか。
涼太はギイギイと椅子を引き摺る音を立てて、ゆるゆると立ち上がる。
「…定義?」
涼太はぼそりと呟く。
「うん、そうだな。…よし。ふたりとも座って良いぞ。」愛菜と涼太が席に着くと、川村先生は説明を再開する。「前に教えたな。大元になる決まり事を定義と言って…」
「ごめんね。」
先生が黒板に向かっている隙をみて、愛菜が振り向いて小声で謝る。
別に謝ってもらう筋の話じゃない。順番で回って来ただけだ。
涼太は、右手の親指を立て、片頬を上げて、笑顔で応えた。
〇 〇 〇
「霧河君の会社は、B原駅から近いの?」
いつもの様に、並んでつり革に掴まりながら愛菜が尋ねる。
「近いと言うのかな。都会歩きで五、六分かかる。」
「何、都会歩きって。」
「都会の人は、のんびり歩いてないで、みんな跳ぶ様にシャカシャカ歩くんだ。」
「ふーん。…なんで、マイカー通勤にしないの?」
「会社の駐車場に空きが無い。それに、車を持ってない。」
「駐車場が空いてない事より、車が無い方が先だね。」
「ま、良いだろ。都会じゃ使う必要なかったから持ってないだけで、免許証はある。…最初は、会社の傍にアパートを借りようとも思ったんだが、慌てて選んで後悔するのも嫌だし、実家があるから最初はそこから通って、落ち着いてから、やっぱり通勤時間を短くしたいって思ったら、それから探そうと決めた。」
「ふーん。車が無いと、こっちで暮らすのに不便でしょ?」
「いや、原付あるから。一人なら原付で充分だ。」
「あ、霧河君、独身?」
愛菜は初めて気付いた様だ。まあ、自慢出来る話じゃないし、変に卑下して言うのもわざとらしい。別にその話題を避けていた訳じゃない。
「ああ。何故だか分からないが、若いうちにチャンスを逃した。今はもう、このままで良いかな。」
「そっか。じゃ、ご両親と一緒に暮らしてるの?」
「いや、どっちも続けて亡くなっちゃって、今は実家に俺一人だ。二階建ての家に一人は広過ぎる。ほんとは、処分するつもりだったんだけど、このタイミングで転勤になったから、勿体なくて使ってる。」
「そうだよ。アパートの家賃払うのなんて勿体ないよ。節約しなきゃ。」
節約か。考えた事の無い言葉だ。
「男一人で入るアパートだ。贅沢言わなければ安い所があるよ、地方だし。それに俺、これでも、それなりに給料貰ってるんだぜ。」
「あ、そうだよね。霧河君、頭良かったから、良い会社に勤めてるんでしょ。」
「頭良くはない。それに良い会社でもない。」
「中学の時、随分霧河君に助けてもらった。迷惑だったでしょ。憶えてる?」
「憶えてるけど、そんなに助けてない。」
愛菜が勝手にそう勘違いしているだけだ。
「ううん、私、随分助けられたんだよ。そのおかげで今の私があるって感じ。」
「そりゃ、大袈裟過ぎだろ。却って嫌みだ。」
「そんな事ないよ。…ほら、田中君の件もあるし。」
「…ああ。」
結局、またその話か。
「あれ、ほんとにお世話になりました。」
愛菜は電車の中なのも気にせず、ぺコリと頭を下げる。
「やめろよ。それも別に大した事してない。」
別に、二人が付き合うのを願った訳じゃない。
「そうだ、俺も助けられた。」
涼太は、無理矢理話を逸らす。
「何々?私、何か霧河君助けた事あったっけ?」
「毎日こうして電車の中で桐岡に会えるお陰で、退屈な通勤時間が潰せるし、何より転勤とかでかかっていたストレスが解消出来る。」
「あれ?そう。そんなんで霧河君の為になっているなら、お安い御用。」
「ああ、ありがとな。」
「じゃ、借りは返せたかな。」
「そんなもの、最初から無い。俺は気にしてない。」
「あ、そうだ。」愛菜が嬉しそうな顔で声を上げる。「霧河君が独身なら、今度は私が相手探してあげる。」
「遠慮する。お願いだから、変な気を回さないでくれ。そういうの、ほんと面倒臭いから。」
「え~、幾つになっても、良いもんじゃない?好きな人が出来ればきっと人生変わるよ。」
愛菜は嬉しそうに、涼太の肩を叩いた。