2 ノート
春、中学二年生は、新しい学年の始まりに合わせてクラス替えが行われる。昇降口の脇に貼り出されたクラス分けの掲示を見て、数少ない親友だった渡辺や鈴木と、自分だけ違うクラスになると分かって、がっかりしながら教室に向かったのを、涼太は今でも覚えている。今までと違う下駄箱、違う教室。初めて入る教室だ。席など決まっていない。登校した者から、早い者順で席が埋まって行く。早い時間に教室に着いた涼太は、窓際の後ろの方の、気に入った席を確保出来て、内心しめしめと思っていた。
朝は始業式が体育館である。そこで、クラスの担任が発表された。涼太達のクラスは、知らない名前の先生。新しく赴任された先生らしい。始業式が終わって教室に戻ると、見慣れない顔の先生がやって来た。痩せて背の高い、眼鏡をかけた若い男の先生。教壇の上から生徒を見回す。
「新しくこの学校に転任して来た、川村と言います。これから一年間、一緒にやっていく訳だけど、僕は君達を知らない。君達はお互い知っている者同士だろうけど、僕は君達と初対面だからね、出来るだけ早く顔と名前を覚えたい。当面は出席番号順の席にしてもらう。窓際の前から、一、二、三と行って、一番後ろまで行ったら、次の列の前に来ると言う具合に並んでくれ。席を移動してみて、黒板が見にくいだとかあれば、相談に乗る。…クラスの名簿は教卓の上に置いておく。自分の出席番号を確認して、席に移動してくれ。…はい、始め。」
やれやれ、折角良い席を確保したのに。
皆、ブツブツと文句を言いながら、クラス全員でフルーツバスケットでも始めた様に、右往左往し始める。やる気の無い男子生徒は、急いでも結果が変わる訳じゃないと達観して、騒ぎが収まるまで動こうとしない。仲良し同士で隣の席に座っていた女子は、無言の抗議のつもりか、いつまでも二人で固まっている。
涼太の席は、窓から三列目の前から三番目だ。一番先生の目につく所じゃないか。前は女子か…。でかい男子なら、陰に隠れる事も出来ただろうに、これじゃ無理だ。
不意に、前の女生徒が振り向く。
「霧河君、よろしく。」
へへへと、照れ隠しの様な笑顔を見せる。
初めて話す女子だ。出席番号順の名簿でさっき確認した、桐岡愛菜という奴に違いない。
「ああ…。」
女子から声を掛けられる経験など、ろくに無い涼太には、どう答えて良いか分からない。取り敢えず返事だけ返す。
「私、勉強出来ないからさ、分かんない所、助けてよね。」
「俺が分かるならな。」
答えが分からないで困っている愛菜を助けられる様なシチュエーションが思い浮かばない。テスト中は無理だ。授業中にもそんな機会はないだろう。第一、愛菜が分からない所がどこなのか、涼太が知る由もない。その時に分からないと宣言してもらわないと助けられない。それでも、愛菜は満足したのか、口角を一瞬上げて笑顔を作ると、くるりと背中を向けた。
これが、涼太の中では桐岡愛菜との最初の会話だった。一学級三クラスしかない。それも、小学校からずっと同じ集団のまま、持ち上がっている。だから、それまで愛菜の存在を知らなかった訳じゃない。だけど、運動会などの学校行事で見掛けたくらいで、こんな風に話す機会は無かった。
愛菜は助けろと言ったが、まあ、これは席が近くになった軽い挨拶代わりだろうと、涼太は軽く受け止めた。だが、決して単なる社交辞令でなかった事を直ぐに思い知らされる。
「あのさ、昨日の宿題。これ、どうやって解くの?」
休み時間、愛菜は数学の教科書を手に振り返ると、悪びれもせずに訊いて来る。
「え?」
急に言われても、話に付いて行けない。
「昨日、ここの問題、宿題に出たでしょ?この、最後の応用問題、どうやって解けば良いの?」愛菜は、教科書を涼太の机の上で、涼太に見える様に開いて、演習問題の所をペンで指し示す。「計算問題は出来たけど、これ、分からなくって。」
「あ~、これか。」
涼太は状況を理解する。愛菜には悪いが、そんなに難しい応用問題じゃない。
「これ…、こいつをXとして、こっちをYにするだろ。」
「それは、分かる。」
「だよな、そうすれば、最初の文章から、式が書けるだろ。」
涼太は自分のノートを取り出して、式を書こうとする。
「こっちに書いて。」
愛菜は急いで自分のノートを取り出して、書く場所を指定する。
「こういう式になるよな。」
涼太は、白いノートの上に躊躇なく式を書き込む。
「うんうん。」
「で、後半の文章から、もう一個、こういう式が出来るから、これで、連立方程式になるだろ?」
「あ~、そう言う事…」
愛菜は、涼太の書く式を眺めながら、分かったのか、分かってないのか、薄っぺらな反応を返す。
「後は式を解くだけだから、出来るだろ?」
「うん。」
大丈夫だろうか?
愛菜の返事の軽さに不安が過る。
「これだけか?」
「うん、ありがと。」
笑顔で応えながら、愛菜は、ノートと教科書を回収する。
「お前、何で俺に訊いたの?」
「え?迷惑だった?ごめんね。」
「いや、そうじゃなくて、俺に訊くよりも、もっと頭の良い女子の友達がいるだろ?その方が間違いないんじゃないか?」
愛菜は、数人のコアな仲間を作って固まる様な事をせず、広くいろんな女生徒と仲良くしている。その中には、如何にも勉強が出来そうな奴もいる。
「え~、霧河君だって、頭良いでしょ?」
はしゃいだりせず、いつも大人しい涼太だが、それだけで頭が良いと勘違いされては困る。
「そうでもない。」
「でも、私より良い筈。」愛菜はへへと笑う。「良いじゃない、次が数学の授業で、急に思い出したんだから。」
「ま…、良いけどな。」
涼太の応えに、愛菜はにっこり笑顔を返して前を向いた。
〇 〇 〇
月曜日の朝は、更に辛い。土日は早起きせずに好きな時間まで寝てしまったから、早起きして駅まで出て来るのがしんどい。涼太は、電車を待つホームの人の列に混ざりながら、眠気と闘っていた。きっとこれは、春の生暖かくてぼんやりとした陽気のせいだ。
「おはよ。」
いきなり声がかかる。緩み切っていた気持ちが、不意を突かれて跳ね上がる。振り向けば、すぐそこで桐岡愛菜が笑っている。期待していなかったと言えば嘘になる。もしかしたら、今日も会えるんじゃないかと心のどこかで待っていた。こうしてそれが現実になってしまうと、何だかざわざわして気持ちが落ち着かない。思わず涼太は視線を逸らす。
「おはよう。月曜の朝から元気だな。」
「霧河君は何だか眠そうね。休みの日に遊び過ぎた?」
「いや、朝だから眠たいだけ。休みの日はグダグダな生活をしているから、月曜日がいつだって辛い。」
「私もおんなじ。」
愛菜はケラケラ笑う。
「桐岡もこの駅から乗るのか。」
「うん。」
「先週、電車の中で声を掛けられたから、どこか途中から乗るのかと思ってた。」
むしろ同じ駅から乗る方が当たり前だ。元々同じ中学に通っていた同級生だ。今もこの町に住んでいる可能性の方が高いだろう。
「先週は、まさか同じ電車に霧河君が乗っているなんて思ってなかったから、途中まで気付かなかったの。先週、朝家を出るのが遅くなってばかりだったから、この時間の電車にあんまり乗らなかったし。」
「ま、考えてみれば、同じ町に住んでいて、電車で通勤しているんだ。遅かれ早かれ顔を合わせていたな。」
ホームに電車が入ってくる。電車に纏わりついてきた風と騒音が涼太の言葉を吹き飛ばす。二人は、人の動きに合わせて乗り込み、並んでつり革に掴まる。涼太は、電車に揺られながら、不意に中学二年生の始めの出来事が頭に浮かぶ。
「そう言えば、最初の時も桐岡から声掛けて来たろ?」
「え?何の話?」
「ほら、中学二年生の時、担任が転任して来たばかりでさ。出席番号順の席にさせられたろ。…あの時、前の席のお前が、いきなり振り返って話し掛けて来たじゃないか。」
「え~、そうだっけ?…でも、霧河君と話したの、それ、初めてじゃないよ。」
「え?初めてじゃない?」
「そ。小学校三、四年の時も同じクラスだったじゃない。」
「そうかぁ?全然覚えが無い。」
「そうだよ。憶えてない?あの時は、たまにしか話さなかったけど。…そうそう、四人くらいで班にさせられて、この町の事調べて、模造紙にまとめて発表したじゃない。憶えてない?」
憶えているかと言われても、思い出せない。今から思い返せば、小学校時代の涼太は、間の抜けた、いつもぼんやりした子供だった気がする。
「社会の授業か何かで、そんな事やらされて、発表した様な記憶はあるが、それ以上憶えていない。」
「そうそう、うちの班の発表、霧河君がしたよね。文句も言わずにそういうの引き受けて、凄いなって思った。」
愛菜はへへへと笑う。
「それは渋々だ。無理矢理押しつけられた時、どう言い返せば良いか分からないし、喧嘩は弱いし、そういう損な役回りは、いつも必ず俺に回って来てたから、自分でも諦めてただけだ。」
「でも、それで出来ちゃうんだから凄いよ。私の中では、それ以来、霧河君は凄い人ってなってたんだから。」
「凄い人ねぇ…、それが今じゃ、小さな会社の中間管理職だ。」
「ね、私の印象はどうだったの?」
愛菜の瞳は興味津々だ。そうノリノリで突っ込んで来られると答えにくい。
「俺は、その四年生の時の記憶が無かったから、中学二年生で初めて話したと思ってた。やけに馴れ馴れしいなと思ったけど、その前から知り合いだったんだな。今日、やっとわかったよ。」
「…それだけ?」
如何にも不満そうだ。
「ん…、それだけかな。」
「え~、もうちょっと、何か無いの?…私に関心無かったって事だね。」
「いや、別にそう言う訳じゃないけど。…そう言えば、桐岡、中二の時、分からない所があると、しょっちゅう後ろ向いて俺に訊いて来てたろ。」
「だって、霧河君は私にとっての凄い人だから。」
愛菜は、声を立てて笑う。
「俺は、お前のそう言う所が羨ましかったよ。」
「え?馬鹿なところが羨ましいのぉ?」
「そうじゃない。いろんな人と気さくに話せるところ。桐岡は、どんな男子とも臆せずに会話出来てたじゃないか。クラスの女の子の誰とでも仲良かったし。」
「え~、そんな事ないよ。それでも気を遣ってたんだから。」
「そりゃ、そうだろ。そうじゃなきゃ、誰とでも仲良くは出来ない。」
「あ、でも、霧河君には気にせず話せたけどね。」
「それは分かってる。」
そうじゃなけりゃ、田中への思いを涼太に話す訳がない。
「今はどう?」
「今?」
「そ、今の私。」
「今の桐岡がって、何?」
「だから、どんな風に見える?」
あらたまってそう言われると、答えに窮する。
「ん~、変わらないんじゃないか。昔のままだ。」
「成長してないって事?」
「いや、気さくで明るい桐岡のままだ。お前の良い所だろ。」
「ありがと。…でも、そうかなぁ。」
何でそんなに懐疑的なんだ。
「そうだよ。」
「うん…、じゃ、そうしておく。」
愛菜は、並んで電車に揺られる涼太を見て、くしゃくしゃの笑顔を作って見せた。