12 じゃあね
地元の花火大会は、七月の最後の土曜日の夜、市内を流れる川の河川敷で催される。高校時代の涼太は、仲間と待ち合わせて、河川敷まで自転車を飛ばして毎年花火を見に行った。夕暮れの駅前商店街に集まり、まずは用もないのに百貨店に入り込んで、汗が引くまでそぞろ歩く。頃合いを見て屋外に出れば、昼間憎らしいくらいに照り付けていた太陽はすっかり姿を消して、夜空が広がっている。それでもまだ蒸し暑い空気の中を、自転車のペダルをけだるく漕ぎながら、四、五人の集団で花火会場に向かう。
いつも学校で顔を合わせている友達と、いつもの様に一緒に遊びに行くだけの事だ。なのに何故だろう。花火や屋台の他に、特別な何かが待っている気がして妙に心が騒ぐ。少しはしゃぎ過ぎなテンションで冗談を飛ばし合いながら自転車を転がして行けば、会場に近付くにつれて人通りが増えていき、お祭り特有の浮足立った賑わいが溢れる。
河川敷のグラウンドに臨時で設けられる駐輪場に自転車を置いたら、両側に露天が並ぶ堤防上の一本道を当ても無く歩く。花火大会だと言うのに、花火が始まっても、最初だけ少し見上げるくらいでろくに見ていない。こんな特別な状況なのにも関わらず、友達との会話は、その時ハマっていたゲームの話や学校の事や噂話ばかりだ。いつもの会話と何も変わらない。それでも、浴衣を着た少女とすれ違えば、「あれ、南高に行った田崎だよな。」とか、男女で歩く同世代の姿を見付けて、「吉田と栗山、付き合ってるのかぁ!」と一頻り会話が盛り上がったりする。
ふと、人混みの中、後ろ姿が目にとまる。白地に淡い紫の花が散りばめられた柄の浴衣、黄色の帯。後ろで一つに纏めた黒髪にはシルバーの髪留めが光っている。何故かそこだけスポットライトが当たっていた様に思えてドキリとする。
桐岡?
直ぐに姿は人混みにかき消され、いくら目を凝らしても、もうその姿を見付けられない。一瞬見えた後ろ姿は、得体の知れない妖怪が面白半分で見せた幻影にも思えてくる。
愛菜だと直感したあれは、本当に愛菜だったか?ほんの一瞬だったから、他人を愛菜に見間違えたのじゃないか?いや、間違いない。僅かに見えた横顔は、愛菜そのものだった。中学二年の時、涼太がいつも見つめていた、前の席に座った彼女のあの横顔だ。
「おい霧河。」
思わず立ち止まった涼太に気付かず先に進んだ友達が、残された涼太に気付いて呼んでいる。
もし、今見えた後ろ姿が愛菜だったとして、お前はどうするつもりだ。追って行って、『やあ、こんばんは』と声を掛けるのか?それで彼女は何と答える?浴衣姿の愛菜が一人でいる可能性は低いだろう。友達と一緒か、もしかしたら田中と一緒かも知れない。声を掛けた後、お前はどうする?何をしようというのか。
友達は立ち止まり、振り向いて辛抱強く涼太を待ってくれている。人混みの隙間を縫って、涼太は彼等に向けて足を踏み出した。
〇 〇 〇
異変は、サッカー観戦に行った次の月曜日から始まった。その日、涼太はバスで駅まで来たから、いつもの電車には、発車ギリギリに飛び乗った。愛菜の姿を探す。いつものつり革の前にその姿は無い。周囲を見回す。彼女の姿はどこにもない。
今日は、遅い電車で行くのか。
涼太は特に気にもせず、動き出した電車の揺れに気を付けながら、戸口の傍から移動して、つり革に掴まった。
次の朝も愛菜は現れない。改札からの人の流れの中に彼女の姿を探しながら、ホームで電車を待った。結局その日も、涼太だけを乗せた電車の扉が虚しく閉まった。
どうしたのだろう?具合でも悪いのか?日曜日のサッカー観戦の日は雨が降った。とは言え、酷く雨に濡れた訳じゃないし、蒸し暑いくらいだった。きっとそのせいじゃない。何か愛菜が気を悪くする様な事をしてしまったろうか。あるとすれば、彼女の過去を教えてくれる様にせがんだ事だ。それぐらいしか考えられない。しつこく迫ったつもりは無いけれど、彼女にプレッシャーがかかったのは確かだろう。涼太が鰻を奢るって決めたから、代わりに何かしなきゃって考えたのか?まさか。
第一、あの後、電車でこっちに帰って来てからだって、別にいつもと変わらなかった。雨が本降りになっていたから、愛菜が車で家まで送ってくれるって言って、今回はお願いして、バイクを貸し駐車場に置いたまま、涼太の家まで送ってもらった。車の中でも楽しそうに会話していたし、別れ際には『じゃあね』って手を振ってくれたじゃないか。あれ?『またね』じゃなくて、『じゃあね』だったのは、もう会わないって事だったのか?いやいや、そんな感じの『じゃあね』じゃなかった。どっちかと言えば、甘い感じの…。
じゃあなんだ?単に二日続けて用事があったとか、寝坊したとか。愛菜ならそれも有り得そうな気がする。
涼太は、堂々巡りの思考をB原駅に着いたときに無理矢理やめた。
だが、何日経っても、愛菜は姿を現さなかった。遂に一週間が過ぎ、次の週の月曜日になった。涼太の気持ちは、ずっとさざめいている。
職場で部下からの報連相を受け、頭を仕事にフル回転させている内は忘れている。定時を過ぎれば、部下は一人、二人と帰り、いつの間にか職場は静まり返る。涼太は、残業で一人残った事務所の中で自分のデスクに向かい、手にしたスマートフォンの画面を見つめる。画面にはSNSのアプリが立ち上がっていて、過去に愛菜と交わしたチャットが表示されている。
なにも、悪い想像をする必要は無い。今まで何日も朝に顔を見なかった事なんか無かったんだから、一週間も間が空けば心配して当然だ。何かあったのかって尋ねるだけなら、何も変じゃないだろ。
一生懸命に自分に暗示をかける。何度もそう言い聞かせながら涼太はスマートフォンの画面とにらめっこを続ける。気付けば、もう八時だ。遅い時間になる程、連絡しにくくなる。
遂に意を決して、スマートフォンに入力し始める。何て打てば良いだろう。『最近どうしてる?』いやいや、そんな軽い感じじゃない。恩着せがましくならない程度に心配している事も伝えたい。
〈一週間、電車で会わないけど、何かあったか?〉
愛菜を非難している様に取られないだろうかと心配しながら送信する。暫く待ったが、返信が無い。どんどん不安が増してくる。このまま会社に居ても仕事にならない。涼太は、スマートフォンをポケットに押し込んで、職場の戸締りをする。
ホームで帰りの電車を待っている間にSNSをチェックすると、愛菜からの返信が届いている。
〈ごめん、心配させちゃったね。明日はいつもの電車乗る〉
トラブルがあった訳じゃなく、いきなりショッキングな言葉が返ってくる訳でもなく、いつもと変わらない調子の文章に安堵する。それでも気持ちのさざめきは治まらないままだ。
〈分かった〉
涼太は、スマートフォンを握ったまま、溜息をついた。
次の朝、愛菜はそれまでと変わらない笑顔で涼太の前に現れた。いや、むしろ、こんなに笑顔で近づいて来るのはおかしくないだろうか。
「ごめんねぇ、心配してくれたんだね。」
愛菜は、涼太の隣に来るなり、そう言ってへへへと笑う。
「いや、ま、そんなに気にしなくて良いよ。」
「涼太君の家の近所も町内会ってあるでしょ?」
「あー、こっちに帰って来たら、その週末に近所の顔見知りの小父さんが、早速町内会費を集金に来た。」
「ハハハ、そういうのは目敏いね。」
電車がホームに滑り込んで来る。俄かに人の列がザワザワと動き出す。涼太と愛菜も流れに合わせて、車内になだれ込む。
「それでさ、その町内会の事なんだけど。」愛菜は、つり革に掴まり、外の景色に視線を向けたまま話し続ける。「アパートの住人からも参加してくれって言われてて、アパートの中の人達で毎年持ち回りにして、班長決めて町内会に出てるの。今年はさぁ、私の番で、結構大変。」
「そうなんだ。」
「涼太君もその内、町内会から誘いがあるよ。」
「え?」
「今じゃ、どこも年寄りばっかりだから、私達くらいの年齢でも、若い人扱いだから。『若い人の力が無いと、祭りの準備も出来ない』みたいな事言われて、強引に引っ張り込まれちゃうかもよ。」
「そう言ったって、平日は夜まで仕事しているから、そんなに手伝えないよ。」
「土日だけで充分とか言われちゃうのよ。近所の小父さんや小母さんと顔見知りでしょ?」
「そりゃ、まあ。」
「それじゃ、絶対やって来るから。」
「そうかぁ。まあ、そうなったら、その時はその時かな。」
「あれ?涼太君、そういうの嫌いかと思った。」
「いや、好きじゃないけど、知らんぷりするのも気が引ける。親父やおふくろの葬儀の時にお世話にもなっているし。」
「ふーん、涼太君っぽいね。」
「そうなのか?」
「そうだよ。涼太君、小学生の登校時の交通安全を父兄がやってるのって知ってる?」
「小学生の交通安全?学校で自転車の交通ルールとか教えるやつか?」
「それは、おまわりさんが来て教えてくれるやつでしょ。そうじゃなくて、朝、交差点に立っていて、登校する小学生が横断歩道を渡る時に飛び出さない様に注意したり、青になったら、手旗で渡る時の安全確保したりするの。」
「あー、そう言えば、駅に来る途中の交差点で旗持ってる人が立ってるな。」
「そう、それ、多分。普通は小学校のPTAの父兄が当番でやるの。私も聖良が小学校の頃やったんだ。」
「そうか、子供を育てるのって、学校に通う様になっても手が掛かるんだな。」
「それが、最近じゃね、子供の数が減って、父兄の人数も減っちゃったから、朝の交通安全に立つ当番も直ぐに回って来ちゃうらしくって、自治会に応援要請が来たの。それで、自治会からも当番制で朝の交通安全に参加する事になって、私、当番で先週から出てるんだ。」
「そうなのか。それで、朝の電車に乗れなかったのか。…でも、乗る電車を一本遅らせたくらいじゃ、小学生の登校時間とうまく合わないだろ。」
「片親や共働きの親は、そうじゃなくても沢山いるから、やれる時間までで良い事になってる。…だから、涼太君には心配かけちゃったけど、一本遅い電車に間に合うまでやってたの。」
「なんだ、そうか。」涼太の中で何かが緩む。「すまない、俺の方こそ。何だかこの電車に乗るのを強制しているみたいになっちゃって。」
何も約束していない。何も確認していない。
愛菜は小さく首を横に振る。
「それでね、まだ暫く続く。だから、この電車に乗れないけど、良い?」
初めて愛菜が涼太の顔を見る。
何故そんな怯えた様な目をしているんだ。
「良いも何も」そうだ、自分には何の権利も資格も無い。「しょうがないだろ。」
「涼太君、こんな事の為に、乗る電車、遅らせたりしないでね。」
何だ?何故そんな事を言う。
「遅らせないよ。職場に早く行かなきゃならないから。」
「私がこの電車に乗れる様になったら戻って来るから。そしたら、また話そう。」
「ああ。」
『待っている』の言葉が喉から出て来ない。
「じゃあね。」
あの雨の日、車の中で挨拶した時と同じ様に、笑顔で小さく手を振って、愛菜はいつもの駅で降りて行った。




