11 合羽
当日の朝、空は一面厚い雲に覆われているが、何とか雨にならずに済んでいる。午後二時キックオフの試合に間に合う様に、二人は駅で待ち合わせた。愛菜は、毎朝の通勤と違い、明るい色使いの半袖シャツにパンツスタイル、それにスポーツシューズを履いている。まるで、ハイキングにでも行く様だ。
「雨、降らないよね。」
会うなり、天気を心配する。
「どうだろう。もし、試合中に降り出しても良い様に、二人分の合羽を入れて来た。」
涼太は、自分が背負っているリュックを指差す。
「お昼はどうする?」
「最寄り駅に着いたら、ファストフード店でも探して、簡単に済ませよう。」
愛菜は軽く頷く。
休日の電車は、平日の朝よりも空いている。二人は並んで席に座る。一緒に目的地に向かう者同士なのだから当たり前の行為だが、何だか気恥ずかしい。周囲の視線がこっちに向いていないか気になる。
「聖良がね、『残念です。また招待して下さい』って。」
「そう。」
応援をしているクラブの試合でもないのに誘ってしまって、聖良には却って迷惑だったんじゃないかと不安になっていた。例え社交辞令だったとしても、愛菜にそう言われて、何だか救われた気がする。
「夕食ご馳走になったお礼のつもりだったから、今日俺が行っちゃったら、お礼になってない。また、別に何か考えるよ。」
「いいよ、そんなに気を遣わなくて。それより、涼太君はJリーグ詳しいの?」
「いや、そうでもない。愛菜は?」
「私も全然。おかしいね、サッカーファンじゃない二人でスタジアムに観戦に行くなんて。」
愛菜は、へへへと笑う。
「良いさ。雨が降り出したら、早めに帰って来よう。」
「なぁに?さっき、雨合羽持って来たって言うから、どんな事が有っても最後まで見るつもりなのかと思ったのに。」
「いや、そんなつもりは無い。」涼太は照れ隠しの笑顔を見せる。「スタジアムから最寄り駅までの移動に困るだろ。」
「え~、スタジアムの中なら良いけど、街中の道を大人が合羽来て歩いているのって、何だか恥ずかしくない?」
「そうかなぁ、…そうだな。雨が降ってきたら、さっさと帰って来よう。」
「チケット代が勿体ないとは思わないの?」
「サッカーファンでもないのに、チケット代の為に雨の中で我慢する方が変だよ。それに、そんな事で愛菜が風邪でも引いたら、恩を仇で返す様になっちまう。」
「ふーん。性格だね。」
「そうかな。愛菜は、そう思わないのか?」
「え、私?私はあんまり拘らないけど、聖良が一緒だったら、絶対ゲームが終わるまで帰らないって言うなって思って。」
「そりゃ、サッカーへの思い入れの違いがあるからしょうがない。」
「ううん、それだけじゃなくて、あの子は何にしろ元を取らなきゃって感じ。」
「そうか、性格か。」
その性格の違いはどこからくるのだろう。涼太は浮かんだ疑問を飲み込む。
その後二人は他愛のない話をした。愛菜の家の夕食の支度は、本当は当番制だったけど、就職したせいで聖良の帰りが遅くなり、すっかり愛菜の役割になっている事や、週末の夜は、幹線道路を流すバイクの音がうるさいくらいに聞こえて来る事、聖良にも毎月幾らか出させて、やっぱりもう少し良いアパートに引っ越そうかと思っていると話した。涼太は涼太で、直したはずの原付のアイドリングが何だか不安定で、エンストしないか時々ひやひやすると話した。そうやって言葉を交わしている内に、気付けば二人は初めて来るスタジアムの前まで辿り着いていた。スタジアムと言っても、J1所属チームの物と比ぶべくもない、単なる市の多目的競技場だ。J2に昇格出来る実力があるチームなのか知らないが、この競技場のままでは、J2のスタジアム基準を満たせないのじゃないだろうか。
「ね、選手の名前知ってる?」
愛菜が悪戯っぽい目をしている。
「いや、誰も知らない。」
涼太は素直に答える。
「ツートップを組むのが、一人はブラジルからやって来た選手で…」
愛菜は得意気に×〇トレティーナの予想スターティングメンバ―について説明する。涼太は、黙ってそれを最後まで聞いた。
「凄いな。よく知っているじゃないか。さっき全く知らない様な事を言っていたけど、騙したな。」
「聖良に教えてもらって来た。どう?凄いでしょ。」
「うん、記憶力が凄い。」
「え~、感心するのはそこ?」
「ついでに、相手チームのメンバーも教えてくれよ。」
「無理。そっちは教えてもらってない。多分聖良も知らないんじゃないかな。」
「そうか、じゃ、スターティングメンバーの発表を待とう。愛菜の予想が当たるかも注目だな。」
「あ~、それは大丈夫。ね、もし、当たったらどうする?」
「え?当たったら?当たるのが当たり前じゃないのか?」
「そんな事ない。体調とか、戦術でメンバーの一部を入れ替える事は良くあるんじゃない?」
「そうなんだ…。ん~」涼太は腕組みをして考える。「じゃあ、愛菜の願いを一つ聴く事にしよう。」
「え!そんなの良いの?とんでもない事言うかも知れないよ。」
「常識的な範囲でな。億万長者になりたいとか駄目だからな。」
「え~、詰まんない。それじゃ、涼太君に叶えてもらいたい事なんて無い。」
「なんだよ。俺じゃ、何の役にも立たないのか。」
「そうねぇ、荷物持ちくらいなら役立つかな。それじゃあなぁ…。」
「良いから、もし違ってたら、俺の願いを一つ聴いてもらうぞ。」
「え~、一人くらいメンバーが違うのなんかしょっちゅうでしょ。それじゃ、ずるい。涼太君ばかり有利じゃん。」
「じゃ、三人違ってたら。」
「え~、駄目。五人違ってたら。」
「そんなに違うかぁ?十一人の半分だぞ。じゃ、四人。」
「んー、しょうがない。じゃ四人で。」
「さあて、何お願いしようかな。」
涼太は嬉しそうな顔を愛菜に見せる。
「まだ違ってた訳じゃないでしょ。」
「ん、じゃ、楽しみして待とう。」
「ベストメンバーで行け!そうじゃないと承知しないぞ!」
愛菜はピッチに向かって拳を上げて叫ぶ。涼太は気合の入った愛菜を見て笑った。
発表されたスターティングメンバーは、愛菜の予想と一人だけ違っている。ブラジル人とツートップを組む筈の日本人の名前が無い。愛菜は如何にも悔しそうにしたが、どうにもならない。試合開始直前まで口を尖らせていた。
一旦試合が始まってしまえば、たとえチームに思い入れが無くても、周りのサポーターの熱が作用するのか次第に力が入って来る。気付けば二人とも夢中になって応援している。試合に熱中している間は忘れていたが、ハーフタイムに空を見上げれば、灰色の厚い雲が覆い今にも降り出しそうだ。何とかもってくれという思いも空しく、後半が始まると、ポツポツとこちらの反応を窺う様に雫が空から落ちてくる。雨が降ったら帰ろうと言っていたくせに、涼太は雨合羽を取り出して、上だけを愛菜と二人で羽織る。幸い、雨はそれ以上酷くならずに試合が終わる頃にはやんでしまった。涼太は二人分の合羽を畳んでバッグにしまい、試合後、最寄り駅へのバスが出るバス停に向けて、他の観客達の流れに混じって歩いた。バス停には人の長い列が出来ている。臨時便を出して、ピストン輸送している様だが、涼太達が乗れるまでにどのくらいかかるか分からない。
「歩かない?駅までの距離、歩いても行けるでしょ?」
道に迷わずに歩けば、一時間かからずに着きそうだ。
「また、雨が降って来るかも知れないよ。」
「雨合羽があるじゃない。」
愛菜がフフフと笑う。つられて涼太も笑顔になる。
「愛菜が良いなら、俺は構わない。…じゃ、歩こう。」
歩道を並んで歩く。まだ、ゲームの興奮を引き摺っている。バス停の周りに集まる人の群れを離れて、運動公園の丘をゆっくりと下って行く。二人きりなら、サッカー素人でも周囲を気にせず、試合を振り返って気ままに意見が言える。
「今日は、どうしてワントップだったのかな。」愛菜は、いつもとシステムを変えてきた事に不満を漏らす。「そうじゃなきゃ、前半あんなに苦戦しなかったのに。」
「そうだな。前半終了間際のチャンスの時にペナルティエリアにもう一人居れば、得点出来たかも知れない。」
「結局、後半三十分から出場じゃ、あんまり活躍出来なかったんじゃない?勝てた試合だったかも知れないのに。」
試合は、一対一の引き分けで終わっている。
「それでも、後半追いついたんだ、頑張ったんじゃないか。」
「え~、勝たなきゃ悔しい。」
「それって、運動部体質なのかな。それとも、勝負事に淡泊な俺がおかしいか。」
「いつものスターティングメンバーだったら、私の勝ちだったのに。」
「そっちの勝負かよ。」
「勝ったら、涼太君に親子で鰻でも奢ってもらおうと思ったのに。」
「鰻か。それで良ければ、いつでも奢る。この前の夕飯のお礼だ。」
「お~、気前が良いね。じゃ、忘れないでね。その内、奢ってもらう。…やった!勝たなかったけど、一日分の夕飯ゲットした!…涼太君は、勝ったら何をお願いするつもりだったの?」
「え?…うん。ま、勝ってから色々考えるつもりだった。」
「え~、何だか変だな。」愛菜が目を細める。「何考えてた?言ってみろ。」
「いや、良いよ。」
「良いじゃん、良いじゃん。私だって言ってみたら、勝たなかったのに賞品ゲット出来たんだから、涼太君も言えば、叶うかもよ。」
「うん…。」
暫く涼太は黙って歩いた。何かを察したのか、愛菜もそれ以上、何も言わない。意を決して、涼太は吐き出す様に言葉にする。
「あのな…。俺は、愛菜が今までどうやって生きてきたのか知りたい。」
「…なぁに、それ。」言われた直後は、どう反応して良いのか分からない顔をしていたが、吹き出す様にそう言って笑う。「そんな大袈裟な人生送ってないですけど。普通に朝起きて、夜寝て、生活して来ただけ。」
「それで良い。それで良いから、知りたいんだ。」
ここまで言ってしまっては、後戻り出来ない。
「ねぇ、ちょっと変だよ。」
愛菜は困惑している。
当たり前だ。こんな気持ちの悪い事を言われたら、誰だって引いてしまう。
「…御免、変だった。」涼太は作り笑いをする。「忘れてくれ。」
「良いけど。そんな事教えなくても、涼太君、私の事昔から知ってるじゃない。そのまんまだよ。」
愛菜の笑顔が目に沁みる。
「うん…、確かに愛菜は昔のままだ。」
「なんか、そうストレートに言われると、恥ずかしいなぁ。」
「すまん。でも、そこじゃないんだ、知りたいのは。」
もうそれ以上、愛菜はこの話を続けなかった。月曜日のお弁当のおかずを何にしようかと言い出し、聖良が、愛菜の作る弁当だと量が多くて太ると言って、自分で弁当を作る様になった。愛菜から見たら、全然太ってない。もっと肉付きが良くても良いくらいだ、と一人で楽しそうに話す。
彼女がもう一度、元の話題に戻って来たのは、涼太が愛菜の語る弁当の話に相槌をうちながら、問われたからと言って、何故あんな事を言ってしまったのだろうと後悔し続け、漸く駅が視界の先に見える様になった頃だった。
「聖良はね、ほんと私に似てない。あの子、父親似なの。」
涼太は、思わず愛菜の横顔を見る。愛菜は前を向いたまま微笑む。
「私の好きなタイプは、田中君みたいな、爽やかな感じのスポーツマン。背は高くなくても良いから、痩せてスタイルの良い人。なのに、高校に入ってから付き合ったのは、大きくて、筋肉質で、がっちりした人だった。同じスポーツマンだけど、まるでタイプが違う…。おかしいでしょ?」
そう言われても、返す言葉が見付からない。
「高校卒業して、短大出て、就職してから、その人と結婚した。…何でも決めて、引っ張ってくれる人だった。とっても頼りになる人だったけど、付いてくのは大変だったかな。」
それが、梶間という男なのか。愛菜の言葉から、涼太は頭の中で男の姿を想像してみる。ラガーマンの様な男らしい男…。
「こんな話で良かった?知りたいのって。」
愛菜が涼太に視線を向けて、彼の表情を探る。
「そう。」
確かにその通りだが、こうして実際に聞いてしまうと、旦那さんの事なんか知らなければ良かったと思えてくる。
「別れたのは、聖良が二歳の時。…理由も知りたい?」
「いや、話さなくて良い。その後、ずっと一人で聖良さんを育ててきたのか。」
「そ。実家とは結婚する時にもめた経緯があったから、離婚しても誰にも頼らずにやって行くんだって決心したけど、結構大変だった。」
「養育費とかは、貰わなかったのか?」
こんな突っ込んだ事を訊いて良いのだろうか。
「貰ったよ。聖良が高校出るまで貰ってた。元の旦那も、それだけはちゃんと守ってくれた。真面目な人だから。」
「そうか。」
何だか複雑な気持ちだ。元の夫という人がどうしようもないクズなら、その方が涼太にはなんぼも気が楽だっただろう。愛菜が選んだ人だ。悪い人じゃない。きっとそうだ。だけど、心のどこかで、愛菜を騙したゲス野郎だったら良いのにと思っている。現実は、そんな愛菜の不幸を願う様な事を考えている涼太の方が余程クズだ。
「聖良も就職して、私がいついなくなっても生きていける様になったから、今は全然楽。」
変に明るい声を出して、愛菜が微笑む。
やっぱり自分に向けられるのは笑顔だけだ。本当の愛菜は手の届かない所に隠れている。それを望むのは、とんだ思い上がりだ。
もうすぐ、あと少しで駅という所まで来て、また雨が降りだし、本降りになった。




