1 つり革
中学校の卒業式は何の感慨も無く粛々と進んで行く。学校の体育館に集まり、並べられたパイプ椅子に座り、一人ずつ卒業証書を校長から手渡される。学校中で有名だった不良が、短ラン、ボンタンでキメ、髪を金髪に染めた上に、ヘアグリースでツンツンに逆立てて固め、校長から証書を受け取った後、大声で校長に頭を下げるハプニングがあったが、そのくらいは愛嬌レベルの出来事だ。式が終わって教室に戻り、担任と最後の挨拶を交わせば、放課となる。『放課』と言うのとは、少し違うかも知れない。もう二度とこの学校に登校する事は無くなるのだから。
親友と手を取り合って涙を流し合う、一部の女子生徒以外は、実にあっけらかんと学校を後にする。高校入学までの、自由で僅かな春休みに最早心は飛んでいる。霧河涼太も、同じクラスの友達数人と、昇降口から校門までの並木の脇に屯して、春休みに遊ぶ計画を相談していた。
ふと見れば、田中柊人が一人で校門に向けて下校していく。サッカー部のキャプテンだった。スポーツ推薦でサッカー有名私立高校に行くと聞いた。背は高くないが、均整の取れた体形と顔立ち。スポーツマン然とした風貌に恵まれている。これで、頭抜けたサッカーセンスでも持っていれば、周りはやっかみもするだろうが、幸か不幸かサッカーの才能は常人よりは少し上手い程度だ。分け隔てしない性格を見込まれて、周囲からキャプテンに推された。涼太は小さい頃から一緒に遊んだ幼なじみだから、彼の性格は充分理解している。運動神経も、性格の良さも、涼太が田中の足元にも及ばない事も。
あいつ一人で帰るのか。それなら、最後くらい一緒に帰りながら、あいつの行く高校の話でも聞いてみようか。
涼太達の輪の傍を通り過ぎる田中に声を掛けようとしたその時、田中の後ろから小走りに近付く女生徒が目に入る。ショートカットの黒髪をヘアピンで止め、ブレザーの胸元には、卒業生を示すピンクの造花を着けている。
あ、桐岡。
桐岡愛菜は、田中柊人に追いつくと、周囲を一応気にしてから、その背中をツンツンとつつく。つつかれた田中は、立ち止まって振り返る。二人はその場で、一言、二言交わすと、そのまま並んで歩き始める。
なんだ、あの二人、付き合えていたのか。
涼太は、田中に向けて上げかけた手を止め、喉に出かけた声をそのまま呑み込んだ。
今日で中学校生活はお終いだ。二人で並んで歩いていても、噂になって冷やかされる事はもう無い。涼太は、校門を出て消えていく二人の後ろ姿を目だけで見送った。
〇 〇 〇
地方都市の鉄道にも通勤混雑がある。二十数年ぶりに地元に戻って来て、最初に思い知らされた事実だ。駅前の商店街がシャッター街に変貌して久しい。小さい頃、母親に連れられて良く買い物に行った百貨店が閉店してしまうと、それがまわりに伝染する様に、見る間に商店街の店が潰れていき、街を歩く人の姿も消えた。道路には今でも、四六時中、数えきれないくらいの自動車が行き来するのに、何十年も修繕されず赤錆びたアーケードの下のシャッター街は、まるで何かの映画のセットの様だ。僅かに人の気配が残っているのは、駅前にあるコンビニとファストフードの店と、夜になればそこだけ活気付く、居酒屋チェーン店くらいだ。駅を利用する者達だけが、車でやって来て、車で去って行く。そんな状態だから、電車通勤する人など、数えるくらいなんだろうと高を括っていた。たとえ高校生達が電車通学するとしても、彼等は元気な若者だ。車内で立っていてもらい、四十を過ぎた涼太は、ゆっくり座席に腰掛けて通勤出来るものと勝手に決め付けていた。だがそれはとんだ思い違いだった。通勤する大人達も大勢存在する。立ったまま、四十分かけて通勤するのでは、時間が長い分、大宮で働いていた時より悪い。
霧河涼太は、つり革に掴まりながら、ぼんやり外の景色を眺めていた。周囲の乗客は、目を閉じて眠っているらしき者以外、殆ど例外なくスマートフォンの画面を見つめている。何だか謎の力に操られている集団の様に見えて、同じ仲間に混じる気になれず、電車の揺れに身をゆだねたまま、取り留めの無い事を考えて時間を遣り過ごす。四月一日付で転勤になり、新しい職場に出勤し始めて漸く一週間。早くも電車通勤を続ける意志が挫けかけている。
「霧河君よね?」
不意に背後から声を掛けられて我に返り、声を掛けた主を振り返る。中年の女性が涼太の驚いた顔を見て、口元に笑みを浮かべる。涼太より少し背の低い、痩せ型の女性。同世代の女性の中では、背の高い部類に入るのだろう。こげ茶色のショートボブで綺麗に整えた髪が、きっと彼女を実年齢よりも若く、溌溂と見せている。
知らない女性。いや、この顔、見覚えがある。
「あ、桐岡?」
涼太の口から、脊髄反射的に言葉が出る。涼太自身、その名前がすんなり口から出た事に驚く。
「おはよ。私、苗字変わっちゃったけどね。」
小中学校の同級生、桐岡愛菜だ。愛菜は、ほっとした表情になって、涼太と並んでつり革に掴まる。中学校を卒業してからは、ずっと愛菜と話す機会がなかった。涼太がまだこっちの高校に通っていた頃ですら、こんな風に顔を合わせもしなかった。別に避けていたつもりは無い。そんなつもりは無いけれど。
「あ、そう言えば」涼太は古い記憶を思い出す。「随分前に同窓会名簿が来た時に、桐岡が結婚したって知ったよ。」
「同窓会なんて有ったっけ?それ、いつの話?霧河君、出席したの?」
「二十代の頃だから、もう、随分前の話。その頃は…、と言うか、ついこの前まで大宮支社に勤めてたから、とても帰って来れなくて同窓会は出てない。でも、確かその後、同窓会名簿が送られて来たろ?」
「そうだっけ?」
「ああ、送られて来た。それで、桐岡の苗字が変わっているのを知ったんだ。」
「え~、それって、中学校の同窓会?」
「うん。」
「…そうだよね。まあ、小学校のでもメンバーは変わらないけど。」
愛菜はクスクス笑う。
「桐岡…、じゃないんだよな。それじゃ、何て呼べば良い?」
「え?良いよ、そのままで。それとも、それだと何か気になる?」
「いや、前からそう呼んでいたから、問題ないけど、そっちが嫌じゃないか?」
「ううん、そんな事ないよ。」愛菜はまたクスクス笑う。「あ、それより私、今度霧河君に会ったら絶対お礼言おうと、ずっと思ってたんだ。田中君との事、ありがとうね。」
「随分昔の話じゃないか。今更何言ってるんだよ。」
「ううん、私、ほんとに感謝しているんだから。霧河君がいたから、田中君と付き合えたって。」
「いや、それは、桐岡と田中の気持ちの問題だろ。俺が何か出来る話じゃない。」
もうやめてくれ。その話題はしたくない。
「この電車、よく使うのか?」
涼太は、強引に話題を変える。
「うん。でも、しょっちゅう寝坊しちゃうから、一本遅い電車の時の方が多いかな。」
「そうか。一本遅い電車は混んでるか?」
「え~、混んでるって言うのかな。この電車と同じくらい。」
「朝の電車が、こんなに混んでるとは想像してなかったよ。こっちに戻って来て、通勤し始めて一週間だが、もう、心が挫けそうだ。」
「なぁに?都会で楽してたんでしょ。今からでも遅くないから、体力つけなさい。」
「いや、都会の通勤ラッシュの方が酷いけどな。こんなに空間が空いていない。だけど、田舎ならきっと、座って通勤出来ると思って期待していたのが甘かった。裏切られてショックだ。」
「地元を馬鹿にするから。今は、どこまで通っているの?」
「B原駅まで。四十分こうしている。」
「そう、それじゃ大変かもね。スポーツジムでも通ったら。」
愛菜はまた笑う。
「御免だ。そのうち慣れるだろ。」
「スポーツジムも良いみたいよ。結構、私達の同級生も行ってるみたい。話に聞くよ。」
「いや、俺はいい。」
「なぁにぃ、お金が勿体ないとか?」
「別にお金は気にしないが」と言って、ジムに使う気はないが。「中学の頃、知ってるだろ。運動は苦手だ。」
「別にそんなの関係ないよ。私も前は行ってた。…今はやめちゃったけど。」
今度はヘヘっと笑う。
「今度の土日にしっかり休養して、気持ちを立て直すさ。」
最初に愛菜を見た時は、何を話せば良いのか不安になったが、こうして話し始めてしまえば、まるで昨日も会話していた様に自然に話せる。これが同級生というマジックなのだろうか。
そんな風に他愛のない会話をやり取りして、数駅過ぎたところで愛菜が切り出す。
「私、次で降りるから。」
「そうか。桐岡は、毎日ここまで通勤しているのか?」
「そ。駅で降りてから歩いて十五分。」
「どんな仕事しているんだ?」
「え~、何て言うんだろ。事務仕事?伝票の内容を打ち込んだり、コピーしたり。」
「そうか。」
聞き取り難い車内アナウンスとタイミングを合わせる様に、電車が乱暴に減速し始める。
「じゃ、私行くね。」
「ああ、仕事頑張れよ。」
「霧河君も。」彼女は涼太の肩を軽く叩いてその場を離れる。「またね。」
愛菜は小さくそう言って、人の隙間を縫ってドアの方へ遠ざかる。ドアの前に固まる群衆に混じり、開いた自動ドアからホームへと流れ出る。涼太は、後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから、視線を正面の車窓に戻した。
地元に戻って来たのだから、その内、古い知り合いに会うとは想像していた。思い浮かべたのは、高校時代につるんでいた悪友や、小さい頃から近所で遊んでいた友達の顔ばかり。最初に再会するのが桐岡愛菜になるとは想像すらしなかった。何故だか、声を掛けて来たのが愛菜だと分かった時、どう接すれば良いだろうと軽いパニックになった。だけど、愛菜は昔の愛菜だった。
職場に行けば部下たちから朝の挨拶が飛ぶ。涼太はそれにいちいち返事をしながら自分の席に着く。パソコンの電源を入れ、メールを開いて、新しく届いているメールをチェックする。まだ就業時間前だ。とは言え、部下たちの視線がある。彼等の士気を下げる様な姿を晒す訳にはいかない。ましてや、この部署に異動になってまだ一週間だ。涼太自身、精神的な余裕が無いうえに、部下は部下で、新しく来たリーダーが一体どんな人物なのか、興味津々で観察している最中だろう。今、部下達に離反されたら万事休すだ。新しい部署の仕事の仕組みも、勘所も、長く携わっている部下達の理解の方が数段上なのだから。
そんな精神状態で、出社時間を遅らせる余裕は涼太に無い。フレックスタイムが使えない|訳じゃないが、朝に自グループの定例ミーティングを設定している。部下との関係構築に欠かせない時間だ。毎朝神経を張り詰めさせて涼太は出勤している。
始業のチャイムが鳴る。何か言わなくても、部下達は各々個人用のノートパソコンを抱えて、フロアに設けられたミーティングブースへと移動する。その群れに混じって、涼太もブースに向かう。誰がどこに座るのか、不思議な事に自然と固定されている。席次など考えなくとも、一人一人が自分のポジションを自分で決めて、役割を演じている。涼太はテーブルの中央に座り、部下の顔を見回す。
「あらためて、おはよう。」
涼太の挨拶に、はきはきと返事をする者、ボソボソ形だけ応える者、何も言わず涼太の顔を見ている者、全く無視して自分のパソコンに視線を落としている者…性格が違うとは言え、ばらばらだ。こいつらは、腹の内で涼太をどう捉えているのだろう。前任のリーダーは、どうやってこいつらを束ねていたのだろう。
「まずは、昨日の実績報告をしてくれ。」
涼太の言葉を受けて、いつもの様に、一番のベテラン社員から昨日の実績報告が始まる。
涼太は、リーダーに昇進すると同時に部署を異動した。四十代半ばでのリーダー昇進はむしろ遅い部類に入るだろう。とは言え、最後までリーダーになれない社員はいくらでもいる。会社の中での涼太の価値は、重要ではないがお荷物でもないと言ったところか。これからは、それまで身に付けてきた営業スキルを投げ捨てて、中間管理職としてのスキルを身に付けて行かなければならない。今まで慣れ親しんだ部署を離れたから、さっさとそう腹を括る気持ちになれたのかも知れない。上の人間達が、『あいつは、そのまま同じ部署に置いておくと、管理職の仕事をせずに、実務に手を出してばかりいそうだから』と洞察力を働かせたのだろう。だが、おかげで逃げ道は無くなった。気の休まる時間が無い。仕事に慣れておらず、効率的に進まないのも手伝って、部下達が皆とうに退社した後まで残業し、涼太が事務所の戸締りをして帰る毎日だ。営業業務と違って、体を使っていないのに、退社する頃にはクタクタになっている。
その日退社したのも八時過ぎだった。朝程混んではいないが、電車は涼太の様に擦り切れた通勤客を駅毎に呑み込んで連れ去って行く。途中で降りた乗客に替わって空いた席に座り込めば、心地良い眠気が襲ってくる。こんな毎日を送っていれば、そのうち、降りる駅を乗り過ごしてしまう事だってあるだろう。もしかすると、気付いた時には、戻る電車が無くなっているなんて事態になるやも知れない。幸い、今日までは目的の駅の手前で目が醒めている。
駅からは、原付バイクを走らせて十数分。曲がりくねった細い道から更に空き地の脇の露地を入った場所に実家がある。涼太がまだ小学校の頃に、古い平屋の家を二階建てに建て替えた。両親が亡くなった後、空き家になった実家の処分をどうしようかと迷っている矢先に、今回の異動辞令があった。通勤に時間はかかるが、手っ取り早い解決策として、当面実家から新しい勤務先に通うと決めた。
農家の面影を残す広い庭。その隅にある納屋の中へバイクを無造作に停めた後、人気のない暗い玄関の鍵を開け、涼太は黙って照明のスイッチを入れた。