十三年前、八年前、五年前。
彼女居ない歴十九年にして、大学の二回生である僕は、現在、とある女性のお見舞いに来ていた。
その女性の名は、イヴ・イクシヴ。
彼女は線の細い印象をたたえた、快活さとは縁遠い人だった。
幼少の時分からの付き合いと言うのもあり、周囲からその関係をからかわれたりもするわけだが……、いやはや全く、冗談ではない。
僕はあんな奴のことなんか、憎からず思うどころか、不倶戴天ぐらいには思っているのだ。
確かにアイツは笑顔が素敵だし、良い匂いがするし、性格もしとやかで、この世に二人といない良い女だが……、嫌いなものは嫌いなのである。
この真実が揺らぐ事はない。
……尤も、嫌いとは言いつつも、お見舞いには行くあたり矛盾を感じるが、その実は様子を見に来た程度の事であるので──それがお見舞いなんだと言われれば、所詮、それまでの事ではあるのだが──、なんらおかしな点はない。
元気なようなら顔も見ずに帰るつもりだ。
わざわざ会話する必要はない。
……そんなような事を、取り留めもなく思考していると、
「お」
空中に映し出された魔法新聞──あくまで宣伝のために映されたものなので、普段は見出しくらいしか見せてくれないのだが、今回は奮発して結構文章が書いてある──から、気になる一節を見つけた。
『ロン・ドム事件で巷を賑わせた、身元確認中だった犯人、マヌレット・カヌレット(37)は、今日未明、勾留されていた刑務所から脱獄しました』
ロン・ドム事件とは、恐らくここ最近で最も人口に膾炙しているであろう殺人事件だ。
……尤も、未遂である為に、死人が出る事はなかったのだが……、未遂というだけあり、怪我人は歴として存在する。
そしてその怪我人こそが、
僕が様子を伺わんとしている、イヴ・イクシヴであるのだが。
……僕は続きが気になって、一意に読み進める事にした。
『明確な事は分からないものの、容疑者は脱獄後、現在意識を失っているイヴ・イクシヴさん(22)を、自身に不利な証言をする可能性があるとして、意識が戻らない内に──
──殺害し直そうとしている疑いがあり』
その一節を読んだ瞬間、僕は愕然としてしまった。
※
「ヤバい──ヤバいヤバい──ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい────」間断なく僕は言う。「ヤバい!」
このままでは大変な事になる。
そう考えた僕は、居ても立っても居られなくなり、パニックになりつつも、取り返しのつかない事になる前に、彼女の下に駆けつけんとして、勢いよく地面を蹴った。
「早くしないと!」
走りつつも、僕は彼女にまつわる記憶を回想していた。
小さかった時のこと。
大きくなった時のこと。
彼女が守ってくれたこと。
彼女を守ってみせたこと。
いろいろな記憶が脳内で瞬いて、現れては立ち消えるのを幾度となく繰り返すうち、彼氏ができたと笑う彼女の、花のようなまばゆい笑顔を思い出した。
僕はそれを直視できたのだったか。
彼女がその彼と別れて泣いていた時、そのことを嬉しいと思ってしまった記憶が嘘だと……僕は果たして、心から言い張れるだろうか。
「ここか!」
考えている内に僕は目的地に到着していた。
大きな病院だったので、総当たりするわけにもいかず、受付の女性に彼女の部屋を聞いた。
すると、
「……失礼ですが、患者とはどのようなご関係で?」
と聞き返された。
僕は少し悩んだ後、
「恋人です」
と答えた。
別に「友人です」と伝えても良かったのだが、それだと通りが悪いかも知れないので、ここはあえての行動である。
ここに皆が想像するような他意はない。
なにせ僕は彼女が嫌いなんだからな。
「イヴ!」
スライド式のドアを開けると、僕は彼女の姿を認めた。
見る限り意識は無いものの、どうやら無事らしい事がわかった。
(間に合った……! よかった……!)
ほっと胸を撫で下ろすと、僕は彼女めがけてナイフを振り下ろした。
※
彼女居ない歴十九年にして、大学の二回生である僕──同時に、新聞にも載った指名手配犯で、各組織から身柄を追われているマヌレット・カヌレット(37)は、イヴ・イクシヴが嫌いだった。
産まれた時から知っていたのもあり、幼少の時分からの付き合いだったのだが……、成長して美しい女性になると、周囲から「手ェ出しちまえよ」なんて下卑た事を言われる度、都度不快な気持ちにさせられた。
……今年で三十七だぞ、僕。
どんな歳の差結婚なのだ。
別にそれがきっかけで嫌いになった訳ではないが、その嫌いと言う感情を差し引いても、普通にあり得ないと思った。
というかその差し引いた嫌いと言う気持ちが話の本筋なのだが……、ともあれ、何故僕がここまで彼女を憎むのか、まずはそれを話したいと思う。
アレは十九年前の事だった。
当時の僕は受験期にあり、高校を卒業したら順当に大学に進学するつもりでいた。
その時期に、僕は運命の女性に出会ったのだった。
名前はリヴ・イクシヴ。
今は亡きイヴの母親である。
当時彼女は二十そこそこで、美しい妙齢の女性だった。
僕は彼女に夢中になった。
娘同様、線の細い印象をたたえた、快活さとは縁遠い人ではあったのだが……、しかし彼女には芯があった。
ただ儚さで唯一視している訳じゃない。
本質的な美しさを感じていたのだ。
だからと言っていいのかはわからないが、受験の大事な時期にある事も忘れ、僕は彼女に猛アタックした。
そしてそれが奏功し、見事彼女を撃ち落としたのだった。
正直、有頂天だった。
猛アタックにかけて受験で一番大事な数ヶ月を浪費してしまい、狙っていた大学を滑り止め含めて滑り倒したが、それでも良いと思えるくらいには、僕は彼女に参ってしまっていた。
……裕福とは言えない家の出だったので、来年にチャンスがもらえた訳でもないのだが、それでも。
僕は彼女の存在だけで、惨憺たる「今」を肯定できたのだ。
だが、所詮は泡沫、薄氷の上にある幸せだった。
彼女は別に男が居たのだ。
それが露見した瞬間、彼女は態度を急変させ、僕とは遊びだった事を宣言すると、けんもほろろで出て行ってしまった。
僕に残ったのは、受験で一番大事な時期に努力を怠ったと言う事実と、それまでの数年間、金のかからない国公立に行く為に身を窶した全ての努力を、完全に無に帰したという結果だけだった。
……サブオプションで周囲からの非難も付いてきたが、誰がそんな事を望んだと言うのか。
僕が「今」を肯定出来ていたのは、彼女の存在があったからなのだ。
その彼女はもう居ない。
ならばその「今」を、どうして肯定できようか。
僕は深い絶望感に苛まれた。
その後はもう金もないし、高卒として劣悪な環境で働くばかりの日々が続いたが、ここに関しては本当に語ることがなく、つつがなく十数年をドブに捨てた。
強いて取り上げるとするならば、金がないので両親が病を患っても見ている事しか出来きず、みすみす見殺しにした事くらいだろうか──両親はただの風邪で死んだ。
このことの滑稽さと言ったらなかった。
僕は生きている意味が分からなくなった。
そんなある日。
僕は彼女に再会した。
殺そうと思った。
殺しても良いと思った。
だがしなかった。
殺人は不履行とあいなった。
それは何故か。
理由はこの上なく単純で、
再会とは言いつつも、死体と言う形での再会だったのだ。
彼女は、のたれ死んでいた。
『おい……』
『起きろよ……おい……なぁっ!?』
『お、お前が──お前がお前がお前が──っ!』
『──お前が幸せに死ねないのならっ!! 一体僕は何のために不幸になったんだっ!?』
『僕はアレからすごく辛かったけれど、そうなる事で、代わりに君が幸せになれたなら──っ!!』
『……それでいいとさえ、思っていたんだぞ?』
『くそ……』
『ううう……』
『うう……ううううう………………っ!』
『僕の不幸は……』
『僕の苦しみは……』
『なんの意味も──なかった』
昔惚れた女は、あの時持っていた美しさを完全に失っていた──無論、本質的な美しさも。
このままでは死にきれないと思った。
僕を不幸にした幸せな奴を殺せないのであれば、せめてヤツが大事にしていたものを壊そうと思った。
あいにく彼女には家族がいた。
恐らく家庭からは追い出されたのだろうし、夫の事は恨んでいるかもしれないが、もし子供がいたら、大事に思っているに違いなかった。
だから、あらゆる手段を使って、僕は僕が振られた原因である男が、現在はどこにいるかを探った。
男がいる所に子供もいるに違いないと思ったからだ。
数年して、僕は男の居場所を探り当てた。
男は再婚して、幸せな家庭を築いていた。
瞬間、憤懣やる方ないといったような、途方もない怒りが体躯を貫いた。
だが、そうでなくては壊す意味が無いと、すぐに平静を取り戻した。
まず彼女の訃報を報せる形で接近を図った。
彼等はとても驚いていた。
それはとても無責任な表情だった。
幸せになる為に自分から切り捨てた立場のくせに、その結果を聞いて悲しそうに驚くなど、ともすれば他人事のようですらあった。
お前がやったんだぞ、お前が。
だが、その無責任さは彼女を彷彿とさせ──ここに僕が復讐すべきものがある事を、確かに確認させてくれた。
僕は彼女の子に会わせてほしいと願った。
要求は快諾され、廊下の奥まった所に通された。
その先に彼女は居た。
『──』
僕は完全に言葉を失った。
彼女は、彼女だった。
線の細い印象をたたえた、快活さとは縁遠いあの人だった。
彼女は笑った。
僕はまたも衝撃を受けた。
年齢相応のあどけなさがあるものの、その延長線上には、確かにリヴ・イクシヴが笑っていたのだ。
『こ、この娘の名前は?』
辛うじて僕は名前を聞いた。
『イヴ・イクシヴです』
名前すらそっくりであった。
僕は酷く混乱した。
だが、一通り混乱し終えると、僕は「しめた」とさえ思った。
リヴは不幸の中に死んだ。
自業自得とはいえ、幸せとはかけ離れた位置に居たのだ。
だから復讐できなかった。
復讐すべき相手が幸せでないなら、復讐する意味がなかったのだ。
死んでるとか死んでいないとか、そんなことは大した問題じゃない。
いや問題ではあるのだが──僕を不幸にした幸せな奴を不幸にする事が目的なので、主眼をおくべきはやはりそこなのだ。
だから、不幸なリヴは復讐対象にならなかった。
だが、イヴは違った。
彼女は幸せそうだった。
それでいてリヴと見紛うほどに容姿が似ており、彼女を彷彿とさせる雰囲気を備えている──ここまで条件が揃っているならば……、リヴの代わりに。
本来復讐したかった幸福なリヴの代わりとして、復讐出来るのではないか?
謂わば、形代リベンジである。
そんなわけで、僕はこの少女を、リヴが僕のことを振った年齢、つまり、二十二歳になった時点で、殺害することに決めた。
そして時が経ち、現在。
念願の大学生になって一年が経ち、僕が彼女いない歴十九年になる頃(リヴに振られて以来十九年間彼女が出来なかった)、イヴは二十二歳になっていた。
つまり、復讐の刻である。
※
魔法新聞を読む事で、自分の「イヴを殺害する」という狙いが露見している事を知り、僕は大変に焦った。
だってそうだろう?
このままでは色々と立ち行かなくなるなだからな。
だから「ヤバい!」し、「早くしないと!」なのだ。
……より正確に叙述するならば、このままでは警察にイヴが保護されてしまい、僕の凶刃は彼女に届かず、目的が叶わなくて「ヤバい!」し、だから「早くしないと!」いけない──なのだが。
ともあれ結論から言うと、コレは普通に手遅れだった。
イヴが元気なようなら、つまり、意識があるようなら、それはもう殺害による証拠隠滅の難易度は跳ね上がるし、もう既に証言し終えているかもしれないので、意識がない事が確認でき次第、事に及ぼう──みたいな事を、僕は結構細々と考えていたりしたのだけれど、警察は既に保護を終えていて、彼女はもうベッドには居なかった。
僕が深々と刺したのは彼女の身代わり、つまり、形代だったのだ。
僕は深い絶望に久闊を叙するハメになった。
膝を折り、項垂れていると、
「確保! 確保ォォーーーーッ!」
という掛け声が聞こえてきた。
なんと待ち伏せされていたのだ。
窓から脱出し、そのまま空路で逃走する。
僕は当てのない逃避行に出た。
「はぁ……」
ひとしきり焦り倒すと、かえって冷静な自分が居た。
なんかもう半生を振り返りたいくらい気分が落ち込んでいる。
「そもそもが良くなかったんだよな……」
確かに僕はリヴに振られたが……、土台、相手が悪かったのだ。
「僕も来世は男に産まれよう……」
レズビアンの僕っ娘である僕は、深く嘆息して、そう言った。
※
「……っていう、十三年ほど前に殺人未遂を犯した女が、八年ほど前から、この街に潜伏しているという情報を掴みましてね?」
「なんで叙述トリック調なんだよ、しかも二段階」
ザインのやる事はよく分からん。
「ああ、いえね?」と、ザインは言う。「ちょっとした憧れがあったんですよ、小説ってどんなものかなって」
「そういやぁ、アタシの過去を論った時も、知りようもないアタシのの心情について、結構克明に描写してたもんな」
神視点気取りかよ、と結んで、アタシはザインをからかって見せた。
「その節は申し訳ありません……」と、ザインは頭を下げた。「癖みたいなものなんです。この状況のこの人は今どういう風に考えているんだろう……って。今回もその癖で……。妄想が巧みになっちゃいまして、だから心情の部分に関しては、完全にでっちあげなんです」
「叙述トリックの部分は?」
「既に述べた通りです。なんか憧れるじゃないですか」
韜晦するようにザインはそう言った。
「あの後、アナタに色んな人を脅して回って遊んでいた過去を告発されて、現在は刑務所に収監されてしまったじゃないですか。ですから今みたいに面会でもなきゃ、基本的に暇で暇でしょうがないんですよ」
「無理をしてまで叙述トリックを仕掛けようとしなくて良いよ。全然外でバッタリ会ったから話しているだけじゃねェか、アタシたち」
面会室に入った覚えはない。
室外だぞ。
「つーか叙述トリックは読者だけが騙されるトリックだろ。本の登場人物じゃあるまいし、現実で仕掛けることは無意味だ」
「そうですよねぇ、失敗でした」
照れ笑いしつつ、彼は頭をぽりぽりとかいた。
随分と素直である。
「それにしても犯人は勿体ないことをしましたねぇ。この国では、同族殺しは重罪で、殺人未遂も殺人も、押し並べて極刑の死罪に当たるのに。どうせ同じなら、犯人も被害者を殺したかったでしょう」
「素直なら良いってもんじゃない」
ザインは「申し訳ありません」と笑った。「元の話に戻るのですが、この街にその女性がいるという噂はあるものの、証言がある時期から途絶えているんですよ」
「ある時期?」
やけに含みのある言い方だった。
一体どの時期だと言うのだろうか?
「五年前──《平和の会》が発足した時期、です」
「…………………………偶然だろ」
結びつきを見出すにしても、少しばかり牽強付会のきらいがある──流石に無理筋じゃあなかろうか。
「だと思いますよ。でも面白いじゃないですか」言葉通り面白半分で彼は言う。「偶然にしては、奇妙な符号だと思いませんか?」
「いやぁ」
十三年前に殺人未遂を犯した女が、八年前からこの街に潜伏していて、五年前の《平和の会》の発足と同時期の失踪を果たす。
五年前の発足と、
五年前の失踪。
確かにそれらしい時期の符号こそあるものの、しかし時期の符号があるだけで、そこからはなんのストーリーも見出せない……出せないに決まっている。
「多分、関係ないと思うぜ」
言葉とは裏腹に、アタシは殺人(未遂だが)犯が紛れ込んだ教会を想像して、なんだかぞっとしない気持ちになった。