30.アラベスク
ナリード伯爵に案内されて、伯爵家の絵画コレクションを堪能した後、広い廊下を歩いて玄関へと向かう。
「伯爵、1つ、提案があるのですが」
「何でしょう」
「バイオレット嬢と同じ病で苦しんでいる令嬢が他にもいらっしゃるなら、助けてあげて欲しいんです。食事が偏っているのなら、それを正せば治る可能性があります」
私の提案に伯爵は目を丸くする。
ふふん、どうよ。そういう形で、今回の罪を償ってね、みたいなこのカッコいい提案。
カッコよ!
私ってば、カッコよ!
「私では、貴族の方とコネクションはありません。でもナリード家なら情報も伝手もあるでしょう?」
「アンズ様は本当に慈悲深い方ですね、お噂の通りです」
「噂?」
「ええ、巷では有名ですよ」
「へー、そ、そうなんですね」
そこを掘り下げるのは何か嫌だ。
私の頭を、ナリード伯爵家に来る時に見た、芝居小屋の看板が通り過ぎて行く。
「アンズ様がお望みなら、もちろん、そうしましょう」
「ありがとうございます」
「ところで、アンズ様は、親指病、の事も何かご存知のようでしたね」
「ああ、その病は、お酒や脂っこいもの、卵を控えると予防出来る筈です。でも、私の知識はあやふやですし、こちらの世界でそのまま通用するかは不明です」
「ふむ、アンズ様の居た世界は随分進んだ世界だったのですね」
「そこには治癒魔法はありませんでしたので」
「治癒魔法がない?」
「ええ、その代わりに医学が発達したんです」
こっちの世界にも、医学、はあるけど、どちらかというと呪いに近いものが多い。
「興味深いですねえ」
ナリード伯爵は顎をこすりながら思案顔だ。
その時、通りがかった部屋の扉が開いていて、私はその部屋の中にあるものに釘付けになった。
「アンズ様?」
立ち止まった私に伯爵が声をかける。
「伯爵、あれは、、、」
サロン用の部屋だろうか、庭に出れるガラスの扉と窓を大きく取った明るく広い部屋の窓際に堂々と鎮座する、なまめかしいラインのそれは
「ピアノですよ」
私は、ふらふらと部屋に入り、ピアノに近付いた。見慣れた黒ではなく、艶やかな茶色のグランドピアノだ。
震える手で、屋根の部分を上げて、鍵盤の蓋を開ける。
慣れ親しんだ、白鍵と黒鍵。
並びも数も同じだ。
「弾いてもいいですか?」
「もちろんです」
私は、椅子に腰掛けると、ポーン、とまずは1音だけ鳴らしてみた。
知ってる音。
そろり、と両手を置いて、指ならしでよく弾く練習曲を奏でてみる。
4才から習い始めて、高校入学まで続けていたピアノ。その後は少し離れていたが、働きだしてからは、月に1回程度の大人向けのレッスンに通って続けていた。
よく弾く曲は、もう指が覚えていて、譜面なしでも弾ける。半年以上、弾いていなかったが、指は思ったよりスムーズに動いた。
ああ、この感じ、久しぶり。
「驚きました、お上手ですね」
短い練習曲が終わると、伯爵が褒めてくれる。
「ありがとうございます。手習い程度なのでお恥ずかしいですが。もう少し、弾いててもいいですか?」
「もちろん、構いません。私は馬車をゆっくり用意するように伝えてきましょう」
伯爵はそう言うと、部屋を出ていった。
1人残された私は、また、幾つかの短い練習曲を弾く。
外からは、馬車の為に連れて来られたらしい馬の鳴き声と蹄の音が聞こえてきた。
そろそろ行った方がいいかな、とも思ったけれど、ピアノに触れる機会なんてもうないかもしれないし(絶対高価だと思う)、伯爵は、ゆっくり用意させる、と言っていたし、もう少し弾かせてもらう事にする。
練習曲で指も温まってきた。
ふむ、これなら問題ないだろう。
私は、すうっと息を吸うと、大好きな曲に取りかかった。
アラベスク 第1番
アラベスク、とは、アラブ風の、という意味らしく、だからこの曲はアラブ模様を表現しているのかな、とは思うけど、弾きながら私が想像するのは、キラキラ光る水面だ。
沢山の細かな光が、不規則に揺れる様を想像する。
ああ、やっぱり、素敵だ。
弾きながら、その旋律の軽やかで繊細だけれども、どこまでも広がるような響きにうっとりする。
この世界で、また、この曲を弾けるなんて。
白米に出会えた時とは、また違う感動が押し寄せる。
半分ほど、弾いた所で、鍵盤が滲んで見え出した。
どうやら、泣いてるようだ。
目を瞬くと、ぽた、ぽた、と胸元や膝に涙が落ちる。
滲んで見えにくいし、そこからは目をつむって続けた。指が場所を覚えてるので、何となくは弾ける。
所々、音を間違うけれど、目に涙が溢れるのを気にするよりは弾きやすい。
ああ、本当に懐かしい。
もう弾けないと思ってた、もう帰れない世界、もう会えない人達。
こっちで会えた人達、こっちで認められた仕事。
もう帰れないんだなあ。
不思議だなあ、異世界に来たんだなあ。
寂しさと温かさと寂寞と安堵とがじわじわと混じり合う。涙が静かに頬を伝った。
柔らかく最後の音を鳴らす。
余韻が部屋に満ちて、少しずつ沈み、完全に消えた所で、私はゆっくりと目を開けた。
ピアノの譜面台の横に、カサンディオ団長が呆れた顔で立っていた。




