Day1(1)
急いでブレーキを踏む。全てがスローモーションに見えた。シートベルトに体が引っ張られ、フロントガラスにダイブする最悪のシチュエーションは、何とか回避した。目の前には横断歩道。停止線よりタイヤ一つ分越えた先に停止した俺の車は、ヘッドライトで横断歩道上の歩行者を照らしている。年の頃は五十代ほどの男性。左右の手に荷物がパンパンに詰まった紙袋を持ち、黒っぽいスーツを着ている。姿勢は悪く、髪の毛もきれいに整っている印象ではない。靴には皺と埃が目立つ。目尻が吊り上がり、全身から怒りが溢れているように感じられた。
「てめぇ殺す気か!」
暗闇に響き渡った声を聞くと同時に、俺は視線だけを移動させて信号機を見た。信号は青である。つまり、車が直進していいことを指している。当たり前のことだが、それと対比して歩行者用信号は赤。男が色盲でもない限り、これは代えがたい事実だった。
怒鳴りつけた男は、俺の車に唾を吐きかけて、鋭い眼光を浴びせたまま堂々と赤信号の横断歩道を歩いて行った。顔がほのかに赤かったから、酒に酔っているのだろう。彼のスーツは皺だらけで、ヘッドライトが反射して光っている。
俺は高鳴る動悸を落ち着かせるよう、深呼吸をした。落ち着け、落ち着け。
そうこうしている間に、信号が赤になる。後続車はいない。深夜の一時を回ったところで、人気はほとんどない住宅街。彼はこれからどこに向かうんだろうか。近頃の不景気で、公園や漫画喫茶を拠点に日雇い派遣で生計を立てている中高年も多いと聞く。彼もその類なのだろうか。
正義というのは、立場によって180度変わってしまう。彼は自分の中の何らかの正義を信じていて、それを貫いたに違いない。世の中のルールや世間体なんて、自らのルールの前には意味を呈さないこともしばしばある。間違っているが、何となくは分かる。ここは、分かることにしよう。
そんなことよりも、早くたどり着きたい。信号が青になる。俺は左右をしっかり確認して、ジワリとアクセルを踏む。俺も冷静さを欠いているのだ。落ち着かなくてはいけない。
電話が鳴ったのは、今から一時間ほど前だ。今日の仕事がようやく終わって、家で飲むか、外で飲むか考えていた時だった。
机の上に置いてあったスマートフォンが鳴り、画面を覗くと、埼玉県の市外局番からの着信だった。
俺はじっとその番号を見つめた。見覚えのない番号だ。昔埼玉に住んでいたが、知り合いでもなさそうだった。第一、知り合いが家の電話から掛けてくるとは考えづらい。眺めていると、着信が止まった。留守電にも何も入らず、音は静まった。
間違い電話か。要件があれば、留守電に入れてくるだろう。俺は気を取り直して、スマートフォンを手に取ると、後輩に電話を掛けようとした、非番だったら、一緒に飲みに行こうと思った。家で飲むという選択肢は、その後輩が誘えなかった場合の一割だけで、あとの九割は馴染みの店で一杯飲もうと考えていたのだ。通話ボタンをタップしようとしたとき、再度着信音が響いた。見ると、先ほどと同じ番号だ。
出るつもりはなかったが、何か引っかかった。昔住んでいた埼玉県からの着信であること。深夜の零時前という時間。こんな時間に迷惑電話をかけてくる者もいない。もしかしたら、依頼者からの電話という可能性もある。
悩んだ挙句、
「はい、大越探偵事務所です」通話ボタンを押していた。
「大越創汰さんの携帯電話でしょうか?」
「そうですが…」
年の頃は三十代。声音から、医療か福祉関係の職種だろう、と踏んだ。職業柄、相手の言動、容姿を観察してしまう癖が抜けない。電話の相手は、俺が出たことに感動しながら続けた。一度出なかったから、不安を募らせていたのだろう。
「私、埼玉中央病院の島水と申します。永見叶愛さんが当院に緊急搬送されました。大越さんが緊急連絡先になっていましたので、お電話いたしましたが…今からこちらに来ることは可能ですか?」
一瞬、心臓が跳ね上がった。その後にじわっとしたうすら寒いものが、体の中心から全身へゆっくりと拡散していく。それが頭のてっぺんまできたかと思うと、額からじわりと汗が滲むような感覚があった。俺の中に動揺が走っていることは、間違いなかった。
島水という女性は、電話がちゃんと繋がっている状態か気になったようで、電話越しにあれ?と言う声が少し遠ざかる。子機の表示でも確認しているのだろうか。通話中を確認できたのか、もう一度語り掛けてくる。「大越さん?聞こえていますか?」
俺はかろうじて、平静を装いながら声を発する。
「ええ、聞こえています」
島水という女性は安心したのか、先ほどより早口で続ける。
「永見叶愛さんのお知り合いでお間違いないですか?こちらに来ていただきたいんですが」
何度聞いても間違いない。この女性は確かに、同じ名前を二回俺に伝えてきた。それは理解したものの、言葉の意味がすぐに飲み込めるわけではない。俺は相手に悟られないよう深呼吸をしてから、
「――ええ、知り合いですが…」
知り合いだった、というほうが正しいのか。細かいことを電話越しの、まして初対面の相手に伝えるのは聊か面倒だった。嘘をつくわけではなく、誰もがそういう煩わしさを、知らないうちに回避しているものなんだろう。
俺の脳裏に、彼女の悲しそうな瞳が蘇った。最後に見せた、彼女の目だ。あれが五年経った今でも俺の中に鎮座していて、ふとした瞬間に現れる。
その答えを聞いた島水という女性は、また安心した声音で続ける。
「大越さん、これからこちらに来ることは可能ですか?詳細は来ていただいてから、先生より説明があると思いますが」
何で俺が…という言葉が喉元まで出かかったが、堪えた。彼女に言っても仕方がない。彼女は規定通り、
「緊急連絡先」である俺に電話をかけてきているだけだ。とにかくどんな状況なのか分からないが、なるべく冷静に考えてみると、叶愛が俺を頼ってきているのかもしれない、ということがぼんやりと、けれどどこか温かく、俺の中心から広がり始めた。それに触発されるように、
「はい、分かりました」俺はなぜかそう返事をして、電話を切ってしまった。
何故そう答えてしまったのか、自分でも分からない。
叶愛の名前を聞くのは五年ぶりだ。あれからお互いに連絡も取っていなかった。
しかし、忘れたわけではなかった。この五年間ずっと俺の中で燻っていた後悔が、これをきっかけにまた、小さな火花を散らし始めたのだ。
独身で親も亡くした身寄りがない人や、親類と疎遠になって頼る人がいない人が、随所で求められる緊急連絡先を、見ず知らずの人間や、ちょっとした知り合いに設定してしまうケースがある。普通の生活をしていたら、五年間も連絡を取っておらず、同意を得ていない相手を緊急の連絡先に指定することはまず、ない。
叶愛とは六年間交際していた。結婚を前提に付き合っていたが、大まかに言うと――価値観の違いというやつで、結果的に別れることになった。それについて、正しい判断だったと結論づけるには、俺にはまだまだ時間が必要だった。叶愛はどうだったのだろうか。新しい道を見つけていたのだろうか。
何せ、全て俺のせいなのだ。一生かかっても償っていかなければいけない罪悪感は、俺に死ぬまで付きまとうだろう。それくらいの十字架を背負って、俺は生きていかなくてはならない。当然の報いだ。
彼女は俺のことを相当恨んでいる筈だった。別れた後も定期的に現れる、あの目、あれが全てを物語っている。彼女があの目を俺に向けた瞬間、細く繋いでいた糸は切れて、俺たちは完全に終わった。俺は、その予兆にも気づけずにいた、とんだ阿呆なのだ。自分の事しか見えていない、自分の価値観でしかものを計ることができない、ただの自分勝手な男だった。今となっては、何の言い訳も思いつかない。
しかし、そんな彼女が今、俺を必要としている。何があったのかは分からないが、こんな俺しか、緊急の連絡先として思いつく人間が居なかったのだ。
前方に気を付けながら、アクセルを踏む。暗闇にエンジン音が響き渡る。あと三十分ほどで着くだろう。
まだ、間に合うだろうか。