陽だまりの中で
「人は届かない物にこそ憧れる」
ぽつり呟くと、くすくすと笑い声が聞こえた。
「ミヨリ君ってそればっかだよね」
助手席を見やると、妻が可笑そうに口に手を当てて肩を揺らしているのが目に入る。
目に涙まで浮かべたその様子に可愛らしさを覚えながらも少しムッとした。
「何もそんなに笑うことないじゃんか」
トウモロコシ畑の間をトラックが駆ける。
初夏の陽光はフロントガラス越しにしつこいほど照りつけ、ちりちりと肌を焼く。でもそれが、生きているという実感を色濃く伝えているようで俺は好きだった。
開け放った窓から時折吹き抜ける風が心地良い。
「ごめんごめん、でもミヨリ君に欲しい物なんてあるのかなって」
涼しげなノースリーブのワンピースに身を包んだ彼女は何やら探しながらそう言った。
彼女の言わんとしている事は何となく分かる。
多分、俺は運が良かっただけだ。勉強が得意だった訳でも運動が出来る訳でもなく、これといって自分の取り柄を見つけられないまま高校を卒業した俺がこうして生きていられるのは、前々から農場に誘ってくれていた祖父のお陰に他ならない。
特別稼ぎが良い訳ではないが、住む家とやり甲斐のある仕事があって平穏な暮らしを営めている。これ以上何を求める必要があろうか。彼女にも時折そんな話をしていたので、現状に充実感を抱いている事を分かっているのだろう。
それに──。チラと隣を見ると、広げた胸元をタオルで拭く妻──豊満な胸が少し顔を覗かせている。とっさに目を背けたがその一連の動作はキッチリ目撃されていた。
「あれー?欲しい物が無いって私の勘違いだったかなあ」
悪戯っぽく笑う彼女。いつもこうだ。
容姿も整っていてスタイルも良い彼女は自分の武器を理解しており、俺はこうして揶揄われてばかり。常々思うがこの表情はズルい。
「と、とにかく!俺にも欲しい物くらいあるぞ。ほら、この前クワが一本壊れたからそれとか」
「それは仕事に必要なものであって、ミヨリ君が欲しい物ではありませーん」
あまりの俺の慌てようがスイッチを入れてしまったようだ。面白がるように(いや確実に面白がっている)腕をつついてくる。
そうこうしている内にトラックはトウモロコシ畑を抜け、街を見下ろす丘の草原へと辿り着いていた。涼風を受けた草花たちが心地良さげに体を揺らしている。
「ほらほら、無駄な抵抗をやめて潔く負けを認めたら?」
このままでは良いように弄ばれて終わってしまう。妻のニヤニヤを横目に何とか反撃の手立てを必要に企てた結果、ある妙案が脳裏を掠めた。
俺は正面を向いたまま、なるべく平静を装って言い放った。
「こんなに可愛くてスタイルの良い完璧な女と結婚出来たってのに、これ以上欲しい物なんかある訳無いだろ」
我ながらなんと臭い台詞だろうか。勢いで口走ったことを少し後悔したが、言ってしまったからにはもう後には退けない。間髪入れずに飛んでくる彼女の反撃に備えて次の作戦を…………。何も飛んでこない。
どういう訳かやけに静かだ。静寂がいやに不気味で隣に目を向けられない。積荷のトウモロコシが擦れる音まで鮮明に耳へ届く。
「停めて」
静けさの間の緊張のせいで、必要以上に驚いた俺は弾かれたようにブレーキを踏んだ。大してスピードが出ていなかったので直ぐに停車出来た。
もしかして怒らせてしまったか。
妻の方に振り向いた瞬間、グイッと肩を引き寄せられ──唇に柔らかな物が触れた。
突然の事態に心臓が爆裂する程荒ぶる。
時間が止まる。猫は歩く。
腕の力を抜いて、俺を解放した彼女は耳まで薄紅色に染めながら潤んだ目で真っ直ぐこちらを見据えていた。
「さっきのはズルいよ……ばか。今のはお仕置きだから」
青々と茂る草原をバックに彼女はとても絵になっていた。
「やっぱり、欲しい物なんて何も無い」
最愛の人を優しく抱き寄せる。
「うん、私も。大好──」
いくつも染みの入った木の天井。
間違いなく見慣れた俺の部屋だった。
右手を持ち上げる。缶は軽くなっていた。
「ああ──終わっちまってたか」
いくつも散らばった缶の中へ放ると、中身の無い空は虚しい音を響かせた。
覚束ない足取りでキッチンへ向かう。築五十年のボロアパートの床が軋む。
冷蔵庫を開けて買い置きしておいたビールを取り出した。
「人は届ないものにこそ憧れる」
ぽつり呟く。
日曜日深夜一時半のことだった。
お酒は程々に