ビビリのヒズミ
「ヒズミはほんまに、弱虫やな!」
10年以上も前の話だった。
水色の髪をしたユークと言う名の少女は、一本橋を渡った先で笑っていた。
「だって、無理やんこんなの! 落ちたら死ぬやん! 無理やって! 無理無理! わいには無理や!」
一本橋の下は流れの速い深い川で、その先には滝がある。橋から落ちれば当然命の保証はない。とはいえ、足幅は人が寝っ転がれるくらいには広いし、普通に歩けばそこから落ちることはない。
この橋は、忍びの国と呼ばれたヒズミの故郷にある、度胸だめしの橋と名のつく中の1つ目の橋だ。橋は全部で3つあり、1つ目の橋は1番渡るのが容易い橋である。
当時ヒズミとユークは12歳。忍術初級学校に通う同クラスの皆は、度胸だめしの橋に挑戦しようと、その場に集まっていた。そしてヒズミだけが、その1つ目の橋を渡ることが出来ない。
「おいおいヒズミ! 嘘やろ? 1本目渡れへん奴なんておらへんで?!」
「普通に歩くだけやん! 何が怖いねん!」
1つ目の橋の先にたどり着いたクラスの皆は、ヒズミを馬鹿にしてケラケラと笑っていた。しかしヒズミにそんな笑い声などは聞こえていない。下を見るだけで足が震えるのだ。
「無理や…無理…!! 帰る!!!」
「ちょっと! 待たんかい! こら! ヒズミ!」
ヒズミは一目散に逃げ出した。ユークはその一本橋を渡って向こう側に戻ると、ヒズミを追いかけた。
「ほっとけやユーク〜…」
「ほんまにビビリやな〜ヒズミは」
クラスの皆はいつものように、ヒズミをビビリだとはやし立てた。
やっとのことでヒズミに追いついたユークは、彼の肩に手をやった。
「ちょお……待たんか! ハァ…ハァ…」
ヒズミを全速力で追いかけたユークは、ぜぇぜえと息を切らしていた。ヒズミも足を止めて、ユークの方を振り向いた。
「何で戻ってくるん」
「何でって、ヒズミが逃げるからやんか…。あんたほんま、足速いな…」
ヒズミは街のベンチに腰掛けた。ユークもその隣にだらりと座り込んだ。
街には心地よい潮風の香りが漂っている。人々は和装を纏い、瓦屋根の美しい和風建築が立ち並んでいた。
「落ちて死んだら嫌やもん。最初からあんな橋渡らんかったら、死ぬリスクなんてないやん」
「落ちるわけないやん。1本目やで? 2本目、3本目とちゃうで?」
「何本目でも、わいはやらへん!」
ヒズミは偉そうに腕を組みながら、断固として度胸だめしを拒否した。それを見てユークも呆れ顔だったが、2人は幼馴染、これまたいつものことだと、ため息を漏らすだけである。
「ヒズミは、忍術の成績は1番いいやんか。それがなんで、1本目の橋1つ渡られへんの? この前だってそうや。実戦練習の時、女子のリンカにも負けよったな」
「知らんがな。わいは戦うのとか嫌やねん。ていうか、女の子に怪我させられるわけないやんか」
「ちゃうやろ! リンカの火遁の術で火傷するのが怖い〜言うて逃げ回った挙げ句、何もせんと降参したんやろ」
「そりゃ、火傷したら嫌やん! 痛いし傷も残るやん。降参したら怪我も何にもせんで済むやん!」
「ん〜もう! そんなこと言うとったら何にも出来ひんやんか!」
「せやで! 何も出来ひん! わいはビビリのヒズミやからな! 皆にそう言われてんのも知っとる。でもええねん別に! 馬鹿にされても、見下されても、わいは誰よりも長生きする自信だけはある! あんたら皆は無茶ばっかりして、早死にするのが目に見えてるわ!」
ヒズミがそう言ってのけると、ユークは怪訝な顔をして怒ったように声を上げた。
「ヒズミのアホ! もう知らん! 一生逃げまわっとれ! この弱虫!」
そしてユークはヒズミの元から立ち去った。ヒズミもまた、仏頂面で去り行く彼女を目で追った。
(あーあ、またや)
またユークと喧嘩してもうた。
ユークは昔からそう。わいが逃げ腰になる度に苛ついて、いっつも突っかかってきよる。
でもわいは、そんなユークが好きやった。小さい時から一緒にいて、話すと楽しくて、気が楽なんよ。
でも諦めてる。前に聞いたんや。ユークが友達に話しとったの。
「あたし? あたしは、めっちゃ強くて頼もしくって、あたしのこと守ってくれる男の子が好きや」
それを聞いて、わいは諦めた。弱虫のわいは、ユークの好きなタイプから最も遠い存在や。わいみたいな男が、ユークは1番嫌いなんや。
でもどうすることも出来ひん。わいは変わられへん。だからもうええねん。
ユークは仲良しの幼馴染。それでもうええねん。
ヒズミの国は、海のすぐ側にあった。
ヒズミはビビリだったが、忍術も、頭脳も、運動神経も、学校の同級生たちの中でいつも1番だった。
どれをとっても優秀なヒズミだったが、その中でも1番得意でかつ好きなことがあった。それは、泳ぐことだった。
「ぷはぁっ!」
ある日ヒズミは朝から海水浴を堪能していた。その日に限らず、夏はしょっちゅう海を泳いでいた。
「ヒズミ〜!」
砂浜に座り込んだユークはヒズミに手を振った。ヒズミは海の遠くの方から手を振り返すと、泳いでユークの元に戻った。
2人の喧嘩は日常茶飯事だったが、それも仲がいいからこそだ。
「ようあんな遠くまで泳げるなぁ」
「あんなもん序の口や。まだまだ行けるで」
「海で溺れるかもとかは思わんの?」
「溺れるわけないやろ。泳ぐのが1番得意やねんから」
「それやったら1本目も渡れると思うけどな。落ちても泳いだらええやん」
「あれは別や。あの川は流れが速すぎる。大体な、あの高さから落ちてみ、水面に衝突するだけでごっつい痛い…!」
「わかった。わかったからもう…」
あっという間に昼時になって、レジャーシートの上でお弁当を広げた。ユークのお弁当はいつも豪華だ。母親と一緒に作ったという和食のメニューがずらりと詰まっている。ヒズミはいつも自作のおにぎりだ。父親は幼少の頃に亡くなり、母親は日中働いているためだ。
「美味そうやな〜」
うらめしそうな顔でヒズミが弁当を覗き込むと、ユークは仕方ないなと言った様子で、いつもその品々をヒズミに分けてくれる。
「このきんぴらめっちゃ美味いな!!」
「ふふ! それ、あたしが1人で作ったんやで」
「へぇ〜! すらすごい! ええ嫁になれるでユーク」
ヒズミがおかずをかきこむ様子を、ユークは嬉しそうに見守っていた。
ヒズミはそんなユークの優しいところも、実は女の子らしいところも、全部が大好きだった。
だけど彼女と結ばれることはない。そのために自分を変えようとは、ヒズミは思わないのだ。
「なぁヒズミ、この大陸の向こうに別の大陸があるって話、前にしたやろ」
ユークは言った。
「ああ、ユークがいっつも調べとうやつやろ。ほんまに好きやな。あるかもわからん大陸の話」
ヒズミはおかずを食べるのに夢中である。
「ほんまにあるんやって! 昔はおっきい大陸やったのが、天災で分断されたんや」
「それかて、ほんまかわからんやろ」
「だって本にそう書いとるもん」
ユークは外の大陸についての本をいつも調べていた。ヒズミは実在するかもわからない、仮に実在したとしてもどうせ行くことなど出来ない別大陸の話なぞには、あまり関心がなかった。
「なぁ、ジャカランダって聞いたことある?」
「何やそれ。食いもんか」
「ちゃうよ! 花や! 花の名前なんやて!」
確かその時だった。ユークがあの花の話をしたのは。
「見てみたない? 別名熱帯の桜。初夏が来ると、青紫色の花が、桜みたいに満開に咲くんやて!」
「別に花とか興味ないねんけど」
そしてユークが花が好きだという話も、聞いたことなどなかった。ヒズミが知らなかっただけか、それともその頃ハマっていただけなのか、今はもう知る由もないことだ。
「なぁ、その花を一緒に見た2人は、両想いになれるんやて」
「そんなん迷信やろ。しょうもない」
「しょうもなくないよ! 素敵やん!」
「はぁ……女は好きやんな〜そう言うの」
ヒズミがあまりにも興味がなさそうなので、ユークはぶぅっと口を膨らませた。
「ヒズミにする話ちゃうかったわ」
「そやで〜。そんな話は女同士か、好きな奴とし」
「……」
その話はもうそれで終わってしまって、ユークがヒズミに別大陸の話をすることもだんだんなくなっていった。




