ミジータ・レグライト
この3日で、ヒズミの中のヌゥ・アルバートの印象は大きく変わった。
ヌゥに抱いてやまなかった恐怖という感情は次第に薄れ、今は見る影もなくなっていた。
他人に話を聞くだけではわからなかった。人の印象というのは元よりそういうものだ。多少の噂話や先入観で左右されがちだが、それよりも大事なものは、この目で見たものだとヒズミは思う。
丸2日間を2人きりで過ごしたからといって、彼の全てをわかるはずもないが、彼から発せられる笑みや、言葉、振る舞いには、微塵の嘘もないように思う。
それには一切の証拠がない、だけど信じられる。信じたいと、強く思うのだ。それはつまり、直感ってやつだ。
友達と言うには気が早いだろうか。けれどヒズミは、それに近い感情を確かに抱いていた。
彼と話をするのが、楽しいのだ。
一緒にいることが苦でなくなったのはもちろん、それ以上に彼のことを、簡潔に言えば、気に入っていた。
「うわ〜! 見てみて! 天然温泉だよ!!」
岩山を登りにのぼった先にあった深い谷底には、湯気だった自然の温泉が存在していた。
その谷は普通の人間が行けるような深さではなかったのだが、壁の小さな突起になった岩々を足場に、ヌゥは軽い跳躍で降り立っていった。その俊敏な動きはまさに忍者のようだった。
「待たんかい! こんなところにジーマさんたちがおるわけないやんか」
そして本物の忍者は、壁行の術を用いて壁をゆっくりと降りていた。角度90度の坂道だ。術を解かない限り落ちないとわかってはいるけれど、気が抜けない。
「休憩だよ〜! だって丸2日もお風呂に入ってないんだよ! 毎日歩いて汗だくだしさ、ちょうどいいじゃない!」
「そりゃそうやけど…」
「こんなところに誰も来れないって! 貸し切りだよ! アジトの大浴場よりも大きいよ!」
「わかったわかった。黙って下で待っとけって」
ヌゥはあっという間に天然温泉の前までやってきた。自然の岩に囲まれた、巨大な温泉だ。上から見るとその全貌がよく見えていたものだが、一度降り立つと湯気の濃さにほとんど何も見えない。
ヌゥは温泉に右手を入れた。お湯は透明ではなく、白濁としている。
(最高の温度だ!)
アリマの気温にはちょうどいいぬるま湯だ。ヌゥは待ちきれず、さっさと服を脱ぎ捨てて真っ裸になると、ザブンとお湯に飛び込んだ。
(最高すぎ!!)
ようやくヒズミも温泉の前までやってきた。温泉特有の硫黄の匂いが漂っている。湯煙の向こうで、ヌゥが先に湯に浸かっているのが見えた。
「待っとけ言うたやろ」
ヒズミはきょろきょろと周りを見渡した。敵の姿を探そうにも、湯煙でほとんど何も見えなかった。恐らくこの深い谷底へ来れる人間はいないだろうと考え、ヒズミも温泉に入ることに決めた。
(はよ浸かりたい!!)
大きな平らな岩の上に衣服を置くと、ヒズミも早速お湯の中に身体を沈めた。
「極楽極楽〜」
空は目が眩むほどの、雲1つない快晴だ。ここが無法地帯アリマであることを忘れそうになる。
泳げないヌゥは、腕でお湯をかきながら、歩いて温泉の中を進んでいた。最初は浅かったが、だんだん進んでいくと、ヌゥの肩が隠れるくらいの深さになってきた。底には丸みを帯びた石が敷き詰められており、心地よい足触りであった。
(うん?)
あり得ないと思いながらも、人の気配を感じた。ヌゥがゆっくりと進んでいくと、湯気の向こうに誰かの影が見えた。
「誰?」
突然ヌゥの喉元に向かって、銀色の剣先が飛んできた。
「うわっ!」
ヌゥはサッと後ろに飛退いた。しかしそのままザブーンと温泉の中に倒れ込んでしまった。
(何をはしゃいでんねん)
ヒズミもその音は聞こえていたが、気にはしなかった。それまでもヌゥはバチャバチャと音をたてていたからだ。
(あぶぶぶっ!!)
ヌゥは一瞬溺れそうになっていたが、すぐに誰かに手を引かれた。
「ぷはっ! 助かった!」
ヌゥの手を引いたのは、紅い髪の女性だった。ウェーブがかった長い紅髪を、縛ってひとまとめにしていた。その女は、見下ろすようにしてヌゥを見ていた。
「うひゃっ!」
女が裸だったので、ヌゥは驚いた声を出した。しかし女はまるで動じずに無言のまま、その手を離した。
40代くらいの女だった。その表情に笑顔は一切なく、やたらと威圧感がある。その右手には銀色の剣が握られていた。ヌゥを攻撃したのがこの女であることは間違いない。
「異国人か……」
「あ、あなたは…?」
女はヌゥを一瞥した。その後何も言わずに、再び湯船の中に浸かった。
「……」
女は髪を耳にかけると、何事もなかったかのように温泉を堪能し始めた。
「あの…俺はヌゥ。ヌゥ・アルバート」
ヌゥは仲間以外には偽名を使うように教えられていたが、その時そんな事などまるで忘れていた。しかし生まれた時から無法地帯に住むその女は、ユリウス大陸のヌゥ・アルバートの大量殺人事件など知る由もなく、その点では全く問題はなかった。
「…えっと、どうして助けてくれたの? 俺を殺すんじゃなかったの?」
剣で攻撃を仕掛けた割には、女は溺れそうなヌゥの手を引いた。
ヌゥは女と少し離れたところで身体を浸かったまま、無視し続けるその女に話しかける。
「あなたはアリマの人でしょ?」
ヌゥは話を無視されるのは慣れている。動揺などしない。
「ねぇ、どうして殺し合いをするの?」
「早くここから立去りな」
女は口を開くと、再び剣先をヌゥに向けた。それはヌゥの額に当たるところまで迫っていたが、ヌゥは微塵も動かなかった。
しばらくヌゥと目を合わせると、女は剣を下げてため息をついた。
「私はミジータ。ミジータ・レグライト」
「え……」
(ミジータって……この人が……?)
たむろう先住民たちを見つけては、よく耳にした。ミジータというのは、このサバイバルゲームに存在する徒党の頭の名前だったはずだ。
「あなたが先住民たちを指揮して殺し合いをさせているの?」
ヌゥがそう尋ねると、ミジータは目を細めて、ヌゥを睨みつけたように見えた。しかしその後鼻で笑うと、彼女は言った。
「お前、人を殺したことがあるな」
「え…?」
ヌゥは大きく目を見開いた。ミジータは悪そうな笑みを浮かべた。
「何人殺した?」
「……」
「数え切れないほどか」
「ど、どうして…」
「どうしてわかるのかって?」
ヌゥが頷くと、ミジータは答えた。
「長年の勘さ。そいつの目を見ればね。人を殺したことがあるかないか、大体見分けがつくね」
「……」
「それに、お前が相当な手練であることもね。だからこんなところで真っ向勝負は挑まないよ。お前も今は温泉を堪能したいだろう?」
彼女は長きに渡って殺し合いを続けてきた。その事はヌゥにも最初から、よくわかっていた。
「ミジータさん。こんな殺し合いゲームをするなんて馬鹿げてる。今すぐ終わりにした方がいいよ。そうすれば剣を持ちながら温泉に入る必要もないよ」
「何だい。同類のお前がこの私に説教かい。笑わせるねぇ」
ミジータはそう言いながら笑っていた。しかしヌゥは真面目な表情で話を続けた。
「俺はあっちじゃ、終身刑を言い渡された凶悪殺人犯だ。確かに俺には、ミジータさんたちのことをとやかく言う資格なんてないのかもしれない。だけど俺、今は心から反省して、一生かけて罪を償うつもりでいるの」
「へぇ。そりゃ感心だ。でも肝心なところを履き違えている。ここは無法地帯。人殺しは罪ではないのさ」
「……」
「わかるかい? ここにいる奴らは、何も悪いことなんてしちゃいない。お前とは違う」
ミジータは淡々と言い放った。
「そうだとしても、人を殺して、何とも思わないはずがない」
「何も思わないさ。私達にとってはゲームと同じこと。ディラム率いる軍勢、そいつらを根絶やしにすることが、私の生き甲斐だね」
「そんなの……」
ヌゥはその後何か言いかけたが、言葉を飲み込んだ。そして首を横に振ると、ヌゥは言った。
「俺が終わらせてあげるよ。人殺しが裁かれるように、この国を作り変えてあげる」
「……!」
ミジータは大きく目を見開いた。これまでヌゥが何を言おうと強気で言い返していたものだが、その時だけは言葉が詰まってしまっていた。
「……無理さ、そんなこと」
「無理じゃない。こんなゲームみたいな殺し合い、もう終わりにしたいと思ってる人が必ずいるはずだ」
「……」
『僕はね、この国を変えたいと思ってる』
ミジータは思い出した。彼女がまだ幼い頃の、遠い昔のことだ。そんな風に言っていた、男がいたことを。そしてその男と同じように、彼女も強くそう思っていたことを。
しかし、彼女には無理だった。
そして今や、彼女の中にあったその強い意思はどこかに消えてしまった。
今彼女の胸にある思いはたった1つ。ディラムを殺したい、ただそれだけである。
「……どうやってこの国を変えると言うんだい」
「ここに法を敷く。君たちから全ての武器を回収する。反対する奴らは、全員俺が捕まえる」
「はっ……そんなの無理に決まって……」
「まずは君たちに武器を供給してる商人を捕まえる。俺は元々、そのためにここに来たからね」
「……」
ミジータが口をつぐむのを、ヌゥは見ていた。これまで幾人もの先住民たちを見てきたけれど、彼女はそいつらとは違う気がしていた。もちろん、ただの直感だけれども。
「ミジータさんも、本当はこの国を変えたいと思ってるんじゃないの?」
「……」
ミジータが否定しないのを見て、ヌゥは確信した。
(ミジータさん。あなたはやっぱり……)
「その前に殺されるのがオチさ」
ミジータは最後にそれだけ言うと、立ち上がった。ヌゥはハっとして目を反らした。
「この国に干渉するのはやめておけ」
「ミジータさん……」
「次会った時には、私もお前を殺す」
ミジータはそう言って、ヌゥの元から離れていく。湯煙が彼女の身体を隠すのはあっという間だった。
「ミジータさん! 俺が変えてあげるから!!」
ヌゥは叫んだが、彼女の耳に届いたのかはわからなかった。ヌゥはしばらくその場に立ち尽くし、拳を強く握りしめた。
(俺はやる……絶対……)
可哀想。先ほど、彼女に向かってそう言いかけて、言うのをやめた。
ヌゥの心を永遠に痛めつける、人を殺した罪悪感。罪の意識がない彼らに、それを植え付けることは酷だろうか。
それでもヌゥは、裁きに感謝している。裁きが与えられることは、幸せなことなのだと。
自分は人殺しだ。正義の味方にはなれない。
でも自分だからこそ、法が必要なものであると、強く思えるのだ。
「……」
バシャバシャと背後からこちらに近づいてくる足音が聞こえる。ヌゥはハっとしてそちらを振り返った。
「おい! いつまで遊んどんや」
「ヒズミ!」
その後すぐに、ヌゥとヒズミは温泉を後にした。