再会(※)
神様は、悪魔に言った。
「あなたは天国でも冥界でも、お好きな方にいけますよ」
人間になれる悪魔は、その赤い2つの瞳を神様に向けた。
「どちらでもいいさ。どっちに行ったって独りだろうから」
すると、神様は言った。
「独りが嫌なのですか?」
「いいや。独りは好きさ。俺はいつもそうだったが」
「そうですか」
すると、その悪魔の懐に入っている鏡に気づいた神様は言った。
「ああ、その鏡は貴方が持っていたんですね」
「は?」
「それは私の作ったものなんですよ。ほら、この世界を作るときにね、エサとなるプランクトンを繁殖させたり、色々便利に使ったんですよ。ですが、ずっと昔に天界にやって来た天使に貸してくれと頼まれて貸したっきりだったんです」
「て、天使…?」
「ええ。ここ天界に足を運べるのは天使だけでしたからね。ですが魔王に堕天使にされてしまって、ここには来れなくなってしまったんですよ」
「それって…」
「確か名前は、シェムハザといったでしょうか」
その悪魔は驚いた様子だった。
「シェムは…シェムは何処に……」
「もう死んだと聞きました。堕天使は成仏もできませんからね、冥界にずっといるのではないですか?」
「じゃ、じゃあ俺も…冥界に…っ!」
神様は冥界に続く扉を創りだした。
悪魔は足早に、その扉をくぐっていった。
「悪魔カルベラ、ご冥福を」
神様は最後にそう呟いた。
扉をくぐると、冥界の狭き街にたどり着いた。
そこには擬人化した魔族たちが、穏やかに暮らしている。
カルベラもまた、生前のように人間の姿になって、街をキョロキョロしながら歩いていた。
(シェムが…シェムがくれたんだ……)
しばらく探し回ったが、見つからなかった。
魔族たちはその昔と同じように、同じ種族で集まって群れていた。
その世界にも悪魔はおらず、カルベラはただ1人、冥界を彷徨う。
「……」
夜になると皆は種族ごとに何処かへ行ってしまった。
そして更に深い夜がくると、街は静寂として、物音一つ聞こえやしない。
「……」
カルベラは眠らなかった。
死んだというのに、ぐっすり眠れもしないのかい。
カルベラは空を飛ぶと、大きな木を見つけては、その太い枝に座った。
「クマがすごいじゃあないの」
後ろから声がして、カルベラはハっとして振り返った。
そこにはずっと探し求めていた彼女の姿があった。
「シェム……」
「やあカルベラ。長生きできたかい」
カルベラは涙が出そうになったが、ぐっと堪えた。
「よく俺だとわかったね」
「木の枝に乗って黄昏れてる姿が昔と全く同じだったさ」
「そうかい…」
「そういや、鏡はうまく使えたのかい?」
シェムハザは言った。
もう彼女は、白い衣服は着ていない。それは薄汚れた、灰色の地味なワンピースだった。
自慢の白い翼も淀んだ灰色をしている。しかし真紅の瞳は健在だった。クリーム色の猫っ毛も伸びて、その長さは腰の辺りまであった。
それが堕天使シェムハザの姿だ。
「何であの鏡を…」
「だって君は、いつも独りでいるからさ。子供も産まないというしね。だから友達の悪魔を作ってあげようと思ってね、神様に借りていたんだよ。だけれど、戦争が始まってしまって、鏡のことなどすっかり忘れていたのさ。だから冥界に来る前にね、君を探して鏡を置きに行ったよ」
「……」
シェムハザはにっこりと笑った。その笑顔は、あの子にそっくりだ。いや、あの子が母親に似たということなんだろうが。
「堕天使なんていう、はぐれもの魔族になった私は、成仏も出来なくってね。ずっと1人だったのさ」
先に死んだノアの父親は人間。同じところには行けなかったんだな…。
「まあでも1人も案外悪くはないんだね。楽だし自由だし、誰かに気も遣うこともないのさ。君がいつも1人でいたいと言っていた理由もわかる気もするよ」
「…ああ、そうだろう」
「だけれどね、それは誰かといる時間があるからこそ、そう思えるのさ」
そう言ってシェムは、昔の知り合いに会えて嬉しいといった様子で笑っていた。
誰かと話がしたかったに違いない。君は話をするのが好きだったからね。君の子供もそうだよ、シェム。
シェムハザは自分が死んだあとの世界を一切見ていないという。
戦争はどうなったのか、ノアがどうなったのか、何も知らない。聞かれもしないから、答えもしない。
俺の前に現れたあの鏡は、魔王の落し物なんかじゃなかった。
シェムが俺のために、何かしようとしてくれたんだ。
そのことがわかって俺は、嬉しさのあまり涙した。
シェムは俺が泣いたのを初めて見たから、ものすごく驚いた様子だった。
「そんなに私に会いたくなかったかい?」
「ああそうさ。シェムには二度と会いたくなんてなかった」
「ふふ」
俺がそう言うと、シェムは笑った。
「君はあまのじゃくで、いつも反対のことを言うんだよ、カルベラ」
シェムは楽しそうに笑っていた。
カルベラは堪えきれない涙を何度も拭った。
ああ、君は、君だけは、俺のことをよくわかってくれていた。
昔も、今もさ。
「私はまた会えて嬉しいが」
「俺は嬉しくなんかない…」
「話をしたいところだが、今日はもう遅いから寝ないか。君のクマが、やたらすごいからさ」
「悪魔は不眠症なんだ。眠れやしないよ」
「そうかい。だったらぐっすり眠れるように、話をしてあげるよ」
シェムは俺の隣の枝に腰掛けると、何やらつまらない話をし始めた。
俺はやがてシェムが何を言っているのかわからなくなって、気がついたら彼女にもたれて眠っていた。
20年後、アグはヌゥの介護の合間に、とある研究に明け暮れていた。
ヌゥが最初になくなったのは声だった。
そのあと目が見えなくなった。
数年して、聴覚がなくなった。
耳が聞こえなくなったヌゥと、話をするのは難しかった。
ヘレン・ケラーっていう、三重苦の少女の姿を描いた童話があったのを思い出して、それを真似してヌゥの手のひらに文字を書いた。ヌゥはフリップでスラスラと文字を書いていたけれど。
まあでもだんだん慣れてくると、俺が書く文字は早く書いてもすぐわかるようになっていったよ。
“ベーラさん、出産した”
“ええ! ほんとに! 良かったあ〜!!”
“双子、男と女”
“ベーラと一緒じゃん! すごいね! 遺伝なのかな〜”
“さあ……”
ヌゥはまだ笑うこともできたから、ケラケラよく笑っていた。
ある日、スノウが大きくなって文字が書けるようになると、俺と同じようにヌゥの手のひらに初めて文字を書いた。
“か”
俺はあえて何も言わずに、スノウに文字を書かせた。
(あれ? アグじゃない…?)
“あ”
(何だ…すごいゆっくりだな…)
“さ、ん”
(『母さん』! スー君?!!)
ヌゥはハっとした様子だった。
“スー君、字が書けるようになったの?!?!”
“もう4歳だからな”
“すごいねスー君! 母さんとお話できるねぇ!”
スノウはヌゥのフリップを見て、うーんと首をひねった。
「すごいねスー君、母さんとお話できるね〜だってさ」
「うん! できるね! もっと字覚えるね!」
スノウはにっこりと笑った。
俺はヌゥの手のひらに文字を書いた。
“漢字はまだ読めない”
“ああ、そっか!”
だけれど数年後には、嗅覚がなくなって、更に身体がほとんど動かせなくなった。
ヌゥは文字を書けなくなって、顔を縦にふるか横にふるかしか意思疎通ができない。
移動は車椅子に座って行う。
だけどまだ味覚と触覚は残っていたから、美味しいご飯をたくさん食べさせてやったし、たくさん手のひらに話しかけた。
そして毎日彼にキスをして、何度も彼を抱きしめた。
そして10年も経たぬ間に、神様の言った通り、五感が全て失われた。20年くらいだと言っていたのに、異常な速さだった。それほどノアとヌゥの身体が繋がっていて、スムーズに受け渡しができたということなんだろうか。
ヌゥはもう身体もほとんど動かせなくなって、ただひたすら呼吸をしている。
だけれど脳は、変わらずその思考を続けているのだという。
車椅子に座らせれば、移動することもできる。
食べられないから、栄養は点滴で与えた。
ベルに教わって、注射の仕方もマスターしたから、俺1人でもヌゥの世話はできる。
彼はもう、人間とは違う何かなのかもしれない。
ノアにすべてをあげてしまって、人間と同じことはもう出来ない。
だけれど、人間の身体を持って、脳を持って、息をしている。
そんな不思議な、存在になったんだ。
ヌゥの姿は変わらなかった。
1000年近くあるという寿命だ。ある程度大きくなるとその姿も歳をとらず変わらないらしい。だから20歳の姿でずっと止まっていた。
そしてそれは、俺もだった。
だけどヌゥはそのことを、まだ知らない。
それから何十年も経って、俺はようやく研究を完成させた。
正直ここまで時間がかかるとは思わなかったが…。
「出来た……」
アグはふぅ〜と大きなため息をついた。




