孕んで
ヌゥとカルベラとの生活は何日も続いていた。
その要塞は驚くほど広い。海の底にあるはずだが、この要塞に海水は一切入ってこない。キッチンがあってご飯も作れるし、簡易食堂のセットもあるし、風呂もトイレもある。何なら室内だけれど庭みたいな場所もあって、プールもあって、花も咲いている。
素敵な場所だった。生きていくのに何も困らない。外には、出られないけれど。
ここはカルベラが、いつの日かヌゥと生活することを夢見て作った城だった。
2人の生活は、思っていたよりも楽しいものだった。
「ほらよ、特製のパンケーキさ」
「うわあ! すごい! こんなに綺麗に焼けないよ!」
カルベラは朝食にパンケーキを数枚焼いて、1番上のそれをヌゥの更に盛り付ける。
「いっただっきまーす!」
ヌゥがそれを食べると、あまりの辛さに涙した。
「かぁ〜らぁーーっい!!!」
「へっへっへ」
ヌゥは急いで水を流し込む。
「もう! 何すんのさ!」
「特製だと言ったろう。ああ、おかしい!」
カルベラはいたずらが大好きで、ヌゥをおちょくっては楽しそうに笑っていた。
「ねえ、服こんなのしかないの」
クローゼットにあるヌゥの服は、どれも真っ白で、可愛らしいものだった。
「なんだ、不満かい」
「うーん…」
「シェムはいつも、白い服を着ていたから…」
「ふうん…。まあいいか」
ヌゥは白いワンピースを着ていた。
とても女の子らしかった。
その姿を見たカルベラは、彼女とシェムが重なって、胸が苦しくなる時もあった。
「すごい! 本がいっぱいある!」
図書室のような部屋もあった。読みきれないほどの色んな種類の本が並べられている。
「退屈にならないようにさ」
「へえ〜!」
「何か読みたい本あるかい」
「ああ! そうだ」
ヌゥは本棚を探し始めた。
しばらくして、それを見つけた。
「あった!」
「何だいこれは」
本には可愛らしい茶髪の女の子が描かれている。頭にカチューシャをつけて、レースのフリルのついた洋服を着ていた。
「秘密の国のアリスちゃん!」
「…俺は知らないが」
「友達がみんな知ってるんだよ。うわ、全部で50巻もあるの?!」
「時間はあるさ。ゆっくり読みな」
ヌゥは表紙の女の子をじっと見る。
(うわあ……本当にヒズミに似てる)
楽しそうに本を読む彼女を、カルベラは微笑ましそうに見ていた。
ヌゥは楽しそうに生活していたが、ふとした時に彼女は寂しそうに窓の外を見ている。
その日の夜もヌゥは、窓の向こうを見てたそがれている様子だ。
カルベラも心配そうに声をかける。
「寂しいかい」
「!」
ヌゥはカルベラの方を振り向いた。
「何だ、まだ起きていたの」
「不眠症なんだ、悪魔はさ」
「ふーん。でも寝たほうがいいんじゃない。目の下のクマ、すごいよ!」
「そう言ってもよ、眠くないんだ、眠れはしないさ」
「ったくもう…」
ヌゥはそう言って、また外を見ている。
「ごめんなヌゥ、会いたいんだろう。愛する人に」
「大丈夫。アグは絶対に俺を助けに来てくれる。俺は信じてる」
「そうかい…」
カルベラにはそのように強気で言ったのだけれど、本当は不安で仕方がなかった。
もしこのまま、一生、会えなかったら。
俺はあと何百年も、ずっとずっと長生き出来るんだろうけど、人間の君はもういなくなってしまう。
俺が死ぬ前に、君は死んでしまう。
そのあと俺は、どうやって生きたらいい。
会いたい。
会いたいよ、アグ。
1日が惜しい。
君と会えない時間が惜しい。
皆にも会いたい。
大好きな仲間に会いたい。
こんなところにいる場合じゃないのはわかっているのに。
カルベラもそんなヌゥの様子を見て、罪悪感でいっぱいになった。
ごめん、ヌゥ。
ごめんな……。
また次の日の朝が来て、2人の生活が始まる。
ヌゥもカルベラが、自分を閉じ込めたことを、酷く気にしていたのはわかっていたので、そのことにはあまり触れないようにして、楽しく過ごそうとしていた。
カルベラは、良い奴だった。
いたずらがすぎるけど、本当は優しくて、一緒にいるのは楽しかった。
俺はふとね、思うんだ。
お父さんみたいだなって。
俺は赤ちゃんの時にもうカルベラとは離れたから、彼との記憶なんてないのは当たり前なんだけど。
でもね、ノアは確かに、君とシェムハザに育てられた。
そんな3人の中には絶対に愛があったはずだ。
それはきっと、家族愛ってやつに違いない。
俺もね、カルベラと過ごしているとさ、それをちょっぴり、感じることがあるんだ。
そんな2人の奥ゆかしく平和な暮らしに、異変が起きたのは、生活が始まって2週間ほどたった日のことだった。
ヌゥは突然激しい吐き気に襲われて、慌ててトイレに駆け込んだ。
「うっ…ゔぅっ…おえっ」
「ど、どうしたヌゥ?! 大丈夫か?!」
「おえええぇ」
ヌゥはトイレに向かって激しく嘔吐する。
「おえっ…えっ……おええぇ…」
(何……これ……)
吐いても吐いても、吐き気が収まらない。
喉が痛い。苦しい。
胃の中のものを全てと言っていいほど吐きつくしたヌゥは、トイレから出てきた。
「み、水を飲むか?」
「ありがとう…」
見かねたカルベラはヌゥに水をくんで飲ませる。
ヌゥもそれを飲んで、落ち着かせる。
身体がだるい。
何もしたくない。辛い。
「ゔっ……」
ヌゥはまたトイレに駆け込んだ。
「おえええぇ!」
飲んだばかりの水を全部吐き出した。
(駄目だ……何も……受け付けない…)
ヌゥは何日も寝込んだ。
1日中激しい吐き気に襲われて、常に気分が悪い。
食べ物どころか水分さえも取れなくなってきて、ヌゥはやせ細り、非常にやつれた。
カルベラも突然のそれが何なのかもわからなくて、ただ心配そうに彼女の身を案じて励ますことしかできなかった。
それが2ヶ月ほど続いた頃には、ヌゥの状態も良くなってきた。
これまであんなにあった吐き気もだんだんと減っていき、やがてはなくなった。
しかし食べすぎるとすぐに気持ち悪くなったので、食事はいつも少食だった。
落ち着いた頃にヌゥはお風呂に入って、いつも無意識に見ないようにしていた自分の身体をまじまじと鏡で見ると、その異変の理由にやっと気づいた。
お風呂から上がったヌゥの様子がおかしかったので、カルベラは彼女の元に駆けつけ、訳を聞く。
ヌゥは、服をめくりあげて、少し膨らんだ自分のお腹をカルベラに見せた。
「ヌゥ、お前……」
「俺、妊娠してる……」
カルベラは驚いた様子で、そっと彼女のお腹に手を当てた。
少しそうしていると、お腹がぴくっと動いたのを感じた。
確かにこの感覚はこれまでにも何度かあって、気のせいだと思っていたんだけれど。
「胎動だ…」
「胎動って何?」
「赤ちゃんが、動いてるんだ…」
ヌゥもまた、自分のお腹にそっと手を当てた。
再びぴくっと、まるでお腹の中で魚がはねたような、わずかな振動を感じた。
「生きてるってこと…?」
ヌゥは驚きのあまり、開いた口が閉じなかった。
「誰の子か、わかるのか」
「え……」
「多分だけど、5ヶ月近くは前の相手だぞ」
「そ、そんなに前…」
5ヶ月と言ったら、俺の記憶がなくなるよりも、もっと前だ。
そしてその行為に覚えがないということは、相手はやっぱり彼しかいない。
「アグと俺の子だ……」
ヌゥは涙が溢れた。
「うっ…うっ…ぅぅ……」
カルベラはヌゥを抱きしめた。
「おめでとうで、いいんだろ」
「うっ…、うぅっ、…うん…ありがとう……」
アグ…俺…赤ちゃん…出来たよ……
君との…子供……。
アグ、喜んでくれるかな。
『でも女の方がいいか』
『やっぱり男だと嫌なんじゃん』
『ちげえよ。だってほら、赤ちゃんできるかもしれないし』
「っ!!!」
アグ…?
『アグにも1つあげる。ヒズミの形見』
『…ありがとう』
ヌゥは自分の左耳についた金色のピアスに手を当てる。
あの時見た、この世のどんな景色よりも美しかったオーロラが、彼女の頭にフラッシュバックする。
「ううぅ……」
ヌゥは目を閉じて歯を食いしばった。
(もう少し……もう少しなのにっ……)
駄目だ……全部は……思い出せない……。
「ハァ…ハァ…ハァ……」
「おいヌゥ、大丈夫か…?!」
「あぁ…ごめん……思い出せそうだったんだけど…」
「消えたって言ってたアグの記憶かい」
「うん…」
アグ…。
君に会いたい。
早く、助けに来て。
俺のところに、来て…。
ヌゥは顔を真っ赤にして泣きながら、お腹を優しくさすった。




