貧困の街
当時フローリアは、まだ10歳だった。城の裏庭で倒れていた俺を見つけて、部屋までこっそりと運んだのだという。
裏庭はフローリアが1人でよく遊んでいる秘密の場所で、警備の騎士たちもあまり目が行かないという。城の裏は高い城壁で囲われており、人間が簡単に越えられる高さではない。そこから誰か侵入するなんて、考えないからだ。
雨でびしょ濡れの俺を着替えさせ、暖かい毛布でくるんでくれていた。彼女が俺を助けてくれなければ、あのまま凍えて死んでいたかもしれない。とはいえライオンの俺には、彼女が命の恩人だなんてわかりもしなかった。
「レイン! 良かったらこれ、食べる?」
「ガルルル!」
彼女は雨の日に見つけた俺を勝手にレインと名付け、そう呼んだ。自分の名前がレインだとわかるまでに、少し時間はかかった。
フローリアは目覚めた俺に、暖かいシチューを持ってきてくれていた。美味しそうな匂いに喉がなった。当然スプーンもフォークも使えない俺は、出された食事をそのまま頭を下げ、口で食べようとした。それを見たフローリアは、食事を取り上げた。
「違うわよ! レイン! スプーンを使って食べないと駄目よ!」
「ガルルルル」
「いい? こうやって食べるのよ」
フローリアはお手本のようにスプーンを使い、スープを食べてみせた。腹が減っていた俺は、そんなこと知るかと言う思いで、フローリアから食事を取り返そうと体当たりをした。
「きゃあっ!」
シチューは床にこぼれてしまった。そんなことはお構いなしに、俺はそのシチューを舐める。
「もう! ちゃんとしつけないと駄目ね!」
フローリアが10歳なら、俺はまだ大体4、5歳くらいの体型だったんじゃないかと思う。俺はもちろん抵抗して、部屋から逃げようとも試みた。だけど彼女の部屋の窓には出られないように檻がついていたし、唯一の出口であるドアにはいつも鍵をかけられてしまうのだ。
フローリアが部屋にいる時に強行突破を試みたが、返り討ちにあった。情けないけれど、まだ人間の身体をうまく動かせなかったし、彼女の方が体格も良かったからだ。
俺は部屋から出ることを諦めた。どうやってもライオンに戻れないし、ここにいればフローリアがエサを運んできてくれることを学んだからだ。
フローリアと食事の攻防は何度も続いたが、観念した俺はある日ついに、スプーンを使ってスープを飲んだ。赤ちゃんがやるみたいに、スプーンをグーの手で握って、口に入れた。ほとんどこぼれてしまったけれど、フローリアはすごく喜んで、俺を抱きしめた。
「すごい! すごいわレイン!」
(あ……)
甘い花のような香りが、彼女の髪からふっと漂った。すぐにでも払い除けたいのに、俺は何故だか呆然としたままで。
「スプーンを使ったのね! 偉いわ!」
フローリアが何を言っているかはわからないのけれど、あまりにも彼女が喜んだので、俺は何だかすごくいいことをしたような気がして嬉しくなった。
「レイン、いい子ね」
そのあとフローリアは、俺の赤い髪を優しく撫でた。その時見た彼女の笑顔は、俺の心を確かに癒やしてくれていた。
「わっ! ちょっと! 何するの! くすぐったいわよ〜!」
俺は彼女の真っ赤な頬をペロペロと舐めた。俺はその日から彼女を、受け入れることにしたんだ。
これをフローリアと俺の2人だけの秘密にするっていうのは難しかった。すぐにフローリアのメイドのティナにバレた。
ティナは驚いていたけれど、フローリアの説得で、何とか俺を彼女の部屋で隠れて育てるってことになった。俺はその部屋から1歩も外に出ることなく、彼女と一緒にそこで暮らし始めたんだ。
フローリアは、人間としての生き方を俺に教えた。人間の言葉もその1つだ。完璧に読み書き出来るようになるまで、3年かかった。
「『レ』『イ』『ン』」
ある日フローリアは、紙とペンを使って、綺麗な文字で俺の名前を書く。
「あなたの名前」
「知ってるけど…。そういえば、どういう意味なんだ?」
「まだ教えてないエイ語って言葉があるんだけど、『雨』っていう意味よ。雨の日に見つけたから」
「ふうん。じゃあ『フローリア』は?」
「『花が咲く』っていう意味よ」
「ふうん…いい名前だな」
「そう? うふふ! ありがとう」
フローリアは、よく笑う女の子だった。その笑顔は確かに、花がほころぶように美しかった。彼女にぴったりの名前だと俺は思った。
いつしか俺は自分がライオンだったことなんてすっかり忘れていた。人間の食事にも慣れた。言葉も話せるし、2本足で歩けるし、ナイフもフォークも上手に使えるし、誰も俺がライオンだったなんて気づかないくらい、完璧に人間になっていたと思う。
俺が言葉を覚えてからの成長は、驚くほど早かった。フローリアは俺に城の図書室中の本を持ってきてくれた。フローリアが部屋にいない時、俺が出来ることといったら、本を読み漁ることくらいだ。
「これ、私の大好きな絵本なの!」
その日フローリアは、小さい時によく読んでいたという、お姫様と王子様のおとぎ話の絵本を、俺に差し出した。たまたま図書室で見つけて、懐かしくなって持ってきたのだという。
「童話だろ。もうそんなのに興味はねえよ」
「まあいいじゃない。とってもいい話なんだから。1回だけ読んでみて」
「ったく…。」
俺は渋々その絵本を読んだ。あんまりよく覚えていないが、姫が王子と不思議な冒険をした後、王子にプロポーズをされて結婚するのだ。まあ女の子が好きそうな絵本だなあと思うくらいだった。
「どうだった?」
「まあいい話なんじゃねえの」
「ふふ! そうでしょう!」
俺は適当に言ったけど、フローリアは嬉しそうにしていた。
「私も大きくなったら、誰かと結婚するのかしら」
「するんじゃねえの。姫なんだから、どこぞの王子とさ」
「見ず知らずの王子と結婚なんて嫌だわ」
「知らねえよそんなの」
フローリアは何となく寂しそうな顔をしていた。そして彼女は言った。
「レインが王子様だったらいいのに」
「はぁ……?」
俺はびっくりして、素っ頓狂な声が出た。
「ふふ。冗談よ」
「変なこと言うなよ…」
「うふふ。でももしかしたら、生まれは王子かもしれないわよ」
「んなわけねえだろ……」
ごめんな、フローリア。俺は本当は、人間ですらないんだ。
フローリアは俺が言葉をわかり始めると、ここに来る前はどうしていたのかと尋ねた。俺は自分が本当はライオンだなんて言えなかった。だから城に来るまでのことは何も覚えていないと、記憶喪失のフリをしていた。
彼女と暮らして、気づけば8年くらいの時が経っていた。男の俺はいつのまにか彼女の背を追い抜いて、身体付きもかなりしっかりとしていた。
俺はその頃には、心も身体も完全に人間のオスになっていた。そして俺は、フローリアのことを、好きだと気づいた。いや、本当はもっとずっと前から、彼女のことが好きだった。だけど、いつまでも彼女の傍で甘えて暮らすことが無理だということも、よくわかっていた。
「本当に出ていくの…?」
「ああ」
フローリアが18歳になる年、俺は城を出ることに決めた。いつかはこうしなければいけないと思っていた。やっと決断したんだ。
その夜俺たちはメイドのティナの協力も得ながら、こっそりと城を出る。
「それじゃあな、フローリア」
俺は彼女に背を向けて、城の外へと歩いていく。
「や、やっぱり行かないで…!」
「!」
フローリアは俺を一度引き止めた。俺の背に顔を当てて、腕を回して俺にきゅっとしがみついた。
「駄目だフローリア。いつかはこういう日が来ると、お前もわかってはずだろ」
これまでバレなかったのは、正直奇跡だ。でももう駄目だ。俺は君と…長く一緒にいすぎた。
「でも…でも……」
「フローリア…」
俺は彼女の手をどける。最後に振り返って、彼女に笑いかけた。
「今までありがとな」
彼女は泣いていて、そして俺も、同じように泣いていて…。
言葉はなくたって、俺にはわかった。俺が彼女を想う気持ちと、彼女が俺を想う気持ちは、きっと…同じだったと。
そして俺は、8年越しに、城の外へ出た。
フローリアは、当面の宿代と食事代として幾分かのお金を持たせてくれた。貴族らしい立派な服も何着かくれた。ティナのはからいで仕事場も見繕ってもらった。翌日から店に直接行けばいいという話だ。ここまでしてもらって、本当に頭が上がらねえよ。
「これが、人間の街…」
発展途上国、ガルサイア。夜の街のはずだが、まだまだ明るく賑わっている。城下町に住むのは貴族ばかりだ。綺麗な服を着て、美味しいものを食べて、誰もが裕福そうに暮らしていた。
俺は街を少しばかり散策した。貴族らしい服をまとった俺もまた街に馴染んでいて、街の住人も良くしてくれた。
その日は城下町の宿に泊まった。小綺麗な部屋で立派なベッドもあるが、城の寝床に比べれば大したことはない。
「はぁ……」
俺は息をついて、天井を見上げる。
(外に出たんだ……)
これまでとは違う暮らしが始まる。そう思うと確かに興奮もあったが、もう彼女に会えないという寂しさも同じように俺の心をかき乱した。
次の日、俺はティナに紹介してもらった仕事場に行き、生まれて初めて働いた。難しい仕事ではない。誰にでも出来るような単純な工場作業だ。俺は初日だったからか、貴族の男の先輩と個室で作業を教わって、少しばかり実践したくらいで終わった。
「なかなか手際が良かったです。お疲れ様でした。今日はもう帰っていいですよ。明日もよろしくお願いしますね、レインさん」
「こちらこそ…手とり足取り教えていただいて、ありがとうございました」
仕事を教えてくれた先輩もとてもいい人だった。そして俺も、フローリアに教えてもらったむず痒い敬語や礼儀作法のおかげで、初日のふるまいとしては問題なく終えたはずだ。
しかし俺が帰ろうとすると、先程の先輩が、別の部屋でまだ残っている他の作業員たちに声を荒げる様子を目にする。
「てめぇら貧民共!! まだこれだけしか終わってねえのか?! 死ぬ気でやれよ!! 殺すぞ!!!」
「すっすみません……」
(何だありゃ……?!)
俺は目を丸くしてその様子を遠目から見ていた。すると、他の貴族の男が俺に声をかけた。
「おい新入り。お前はもう帰っていいんだぜ?」
「えっと、あの人たちは……」
「あいつらは平民だからな。俺らの倍は働いてもらわないと」
男は平然とそう言った。どうやらいつものことらしい。
「………」
へこへこしながら働く平民たち。その身なりを見るだけで、貴族との差は歴然だ。貴族が平民たちに対する当たりの強さも、異常であった。
俺は不審に思いながらも仕事場を後にした。そのまま城下町を少し出ればすぐに、この国の現状をよく理解した。そこには平民たちの暮らす、城下町と正反対の町が広がっていたからだ。
「……」
その様子を見て、言葉もなかった。貴族でない平民は皆、貧困層で、ボロボロの服に乱れた髪の毛をしている。何人もの平民たちが、コンクリートの道端に寝転がっている。おそらくそいつらには、家がない。
町、と呼んでいいのかもわからないその場所で、子供はごみを漁って、そこに気持ち悪いほど虫がたかって、皆生きてるのか死んでるのかもわからないくらいの顔つきで、とにかく今にも餓死しそうなくらいやせ細っている。
お姫様の部屋で、美味しいものを毎日食べて、ふかふかのベッドで寝ていた俺には想像もつかないような暮らしだ。反射的に気分が悪くなってしまって、吐きそうにすらなった。
「何だよこれ…」
フローリアは知っているのか? この国の現状を…。いや、知るわけない。城の外から出ることも許されないお姫様だ。
フローリアもまた、かごの中の鳥と同じだった。彼女の部屋の窓に檻がついているのは、彼女が脱走するのを防止するためだと聞いた。王は見せたくなかったのだろう。この国の、本当の姿を。
「お兄ちゃん…どうしてこんな所にいるの?」
薄汚れた顔の男の子が、俺に寄ってきて声をかけた。
「どうしてって…」
「だってお兄ちゃんの服、キゾクでしょ?」
「いや、俺は…」
「ああ。お腹が、すいたなあ……」
そう言うと同時に、子供の腹がグーとなった。
そうだろう。これだけ痩せ細ってりゃ、今にも足が折れそうだ。
「こ、これで何か買ってこいよ」
俺はフローリアからもらった硬貨を袋から少し出すと、その子に渡そうと差し出した。しかし少年は首を横に振る。
「駄目だよ…僕なんかがキゾクの街に入ったら」
「何でだよ?」
「僕みたいな汚い子供が行くところじゃないんだ。僕の友達さ、街に行ったら、泥棒と間違えられて、貴族たちに追いかけ回されて、やっとのことで逃げてきたんだって」
「そんな…」
レインは歯を噛み締めて、硬化を持つその手をきゅっと握りしめた。
「じゃあ、ちょっと待ってろ…何か食い物買ってきてやるから…。ここから動くなよ」
「あっ、お兄ちゃん…」
俺はすぐさま城下町に戻って、ありったけの食料を買った。資金はなくなったが、そんなことはどうでもいい。あの子も、その他の奴らも皆、腹が減って仕方がないはずだ。
俺は両手いっぱいに食料を持って、平民の街に戻った。さっきの少年の前にやってくると、どんっと地面に食料を置いた。
「お兄ちゃん…」
「いいから食え!」
他の平民たちが、こちらをじっと見るのを俺は察する。
「お前たちも! さっさと食え! だけどここにある分しかねえ。皆で分けて食べろよ」
平民たちは驚いた様子で、レインのところに集まった。食料を順に受け取り、皆泣きながら彼にお礼を言った。食料はあっという間に底をついた。
(さすがに足りねえか…)
すると、食料をもらった平民たちが自ら、もらえなかった平民たちに、自分の分を半分ずつ分け与えたのだ。
「皆で分けて、いただきましょう」
「あ、ありがとうございます……」
平民たちは、意外にも皆穏やかだった。正直俺は感心した。平民は平民で助け合って、何とか生きているようだ。
俺が裕福な暮らしをしている間、こいつらは人間とは思えないような貧しい暮らしをしていた。どうして貴族と平民というだけで、ここまでの差があるんだ。貴族の街には余るほどの食べ物があったじゃないか。何でこんな…。
俺はこの状況が見過ごせなかった。城を出たばかりだが、すぐにフローリアにこのことを知らせたかった。
「誰だお前は。城に関係ない者を入れさせることはできない」
正門から入ることは無理だった。俺は城の裏にまわったが、城壁が高すぎてとてもじゃないけど登れそうにない。
城を出てしまった俺にはもう、フローリアとの繋がりはない。
「くそ…」
レインは諦め、平民の街に戻った。持ち金はなくなった。宿に泊まる金もない。
「お兄ちゃん!」
先ほどの少年は、レインを見つけるなり満面の笑みで抱きついた。しかしレインの服が汚れたのに気づいて、子供は慌てて離れた。
「ご、ごめんなさい」
「いいよ。別に」
「お兄ちゃん、さっきはありがとう。でももう夜なのに、何でまたここに?」
「家がねえからな。俺もここで寝させてもらう」
「そうなの? なら僕の家に置いでよ」
「……」
少年に腕を引かれ、俺はその子の家にたどり着いた。家があるということは、平民の中では恵まれた子ということか。
ふかふかののベッドなどはもちろんない。薄っぺらい布団だけだ。その他には机と椅子と、簡易なタンスのみだ。
すると、子供の母親らしき女がこちらにやってきては、俺に頭を下げた。
「先ほどはありがとうございます。この子に食べ物をくれて…」
「いや…それより、何で平民たちはこんな暮らしを?」
「今の国王が、貴族と平民を分けて暮らそうと言い出したんです。私達平民はガルサイア国の端のこの街に追いやられて、貴族たちは城下町で暮らしています。貴族たちはどんどん調子にのって、やがて私たちを奴隷のように扱うようになりました。金目になるものは全部取り上げられましたし、兵士も貴族に加担して、手の出しようもありませんでした」
「どうやって、生活を?」
「私の夫が、貴族の元で奴隷のように働かされています。しかし、何とか食べていけるだけの収入があり、それで暮らしています。ですが貴族の気分を害して仕事がなくなり、ホームレスになった方もたくさんいます…。中には病気や栄養失調で死んでしまう方も……」
「国からは出ていかないのか?」
「多額の通行料を払わないと出られません。私達には、到底支払えるような額ではありません」
「何だよそれ……」
レインは信じられなかった。でも実際に状況を目のあたりにし、信じざるを得なかった。
何とかしたいという気持ちは山々だが、フローリアと話もできない今、俺に出来ることはない。
しばらく俺はこの少年の家に居候させてもらいながら、ティナの用意してくれた仕事場で働くという生活を続けた。
仕事場では知っての通り、貴族と平民の扱いの差は歴然だ。新入りの俺は偉そうなことは言えなかったが、影で平民たちをフォローした。
稼いだ金のほとんどは食料に使った。出来る限り餓死寸前の平民たちに食料を分け与え続けた。
そんな生活がしばらく続いて、フローリアが20歳の誕生日を迎える年になった。