アネモネ
「ねえ姉さん」
ある日、弟のベーラはアイラに尋ねた。
「どうしたの? ベーラ」
「姉さんは、将来なりたいものあるの?」
会場が暗くなると、袖から出てくるハルクにスポットライトが当てられた。
白いスーツを着たハルクは丁寧にお辞儀をすると、ピアノの椅子に腰掛けた。
「は、ハルクのやつ、ピアノなんて弾けんのか?!」
「しっ! 静かに!」
会場も少しざわついている。
「…誰だ? あんなピアニスト見たことないけれど…」
「いつものバイオリン奏者はどうしたんだ?」
ハルクがピアノの音を鳴らすと、場は一気に静まり返った。
会場の皆が思わず圧倒するような、その指の動きから流れる美しく速い旋律に、開いた口が塞がらない。
(う、上手い……!! 誰だ? あの演奏者は)
(間違いなくプロのレベルだわ…!)
王族たちは息を呑んで、演奏に聞き入った。
1分ほどの短い前奏曲は、ハルクのオリジナルである。
ざわつく会場を黙らせるには十分だった。
ハルクは両手を鍵盤から離して、ひと呼吸置くと、その曲のイントロを奏で始めた。
すると、ステージはほんのりと明るく照らされ始め、端々から真っ白い花が咲き始めた。その花は眠り華に似てはいるが、ほんの少し違う形で少し大きめの、ベーラの創り出したレプリカだ。ただし、とてもいい香りを付加していて、ほんの少し吹かせる風にその香りは運ばれて、会場を包んだ。
そして真ん中からものすごく大きな花が咲き始める。その花びらがゆっくりと開くと、中から大変美しい女性が現れる。操られる風によって、紙吹雪のように白い花びらが舞う。
(べ、ベーラ…なのか……?!)
レインは顔を赤くして、あんぐりと口を開けていた。
「………」
ジーマもまた、変貌した彼女のその美しさに見とれ、目を見開いた。
ベーラの頭には、大切な2人がくれた、白い花の髪飾りがつけられている。呪術で作った地毛のウィッグがつけられ、その髪は腰のあたりまで艷やかに伸びていた。
ハルクは顔を上げて演奏をしながら、彼女を見てにっこりと微笑んだ。
そのイントロを知る者はいなかったが、誰も何も言わず、その演奏を聴いている。
そしてベーラは息を吸い込むと、歌をうたった。
その歌の上手さに、会場内は騒然とした。
透き通るような、それでいて芯の通った、美しい声色だった。
『姉さんは、将来なりたいものあるの?』
『そうね〜。私は歌い手になりたいかな』
『あはは、やっぱりね。姉さんはすっごく歌がうまいもんね! 素敵な夢があっていいなあ…』
「………」
部隊の皆もまた目を丸くして、その歌を聴き入っている。
ああ、これは…
恋の歌なのね…
シエナはベーラをじっと見つめていた。
ベーラは歌を歌いながら、その手を優しく動かして、花をゆっくりと咲かせていく。
花はやがて満開になり、サビに入る直前で照明が消える。
「うわぁ!!!」
思わず声が漏れるほどだった。
咲いた花たちが一斉に光り始めたのだ。その色は白を基調に、赤と紫に光り輝き、ステージを優しく照らす。
サビの切なく温かいメロディとあいまって、皆の心を強く掴んだ。
歌っている彼女は、優しい笑顔をしていて、まるで別人のよう。
ピアノの音は彼女の歌に溶け込むように、一切邪魔をせず、調和した。
「そういえばベーラさん、このRINEて人、誰なんですか?」
「ああ、それな…RINEは芸名でリネと呼ぶようだが、この子の本当の名前はRENI、レニというんだ。芸名は名前を並び替えてとったのだろう」
「レニ…? どっかで聞いたような……え? 前にベーラさんたちが倒したシャドウの名前じゃないですか?」
「そうだよ。彼女はシャドウになる前は歌い手を目指していたんだ。プロデューサーがどうしようもないやつで、その夢は断たれたみたいだがな」
「…そうなんですか。今まで名前すらきいたこともありませんでしたが、すごくいい曲でいい歌声だと思いますよ」
「ああ。私もそう思うよ」
「でも、すごく優しい曲なのに、切ない歌詞ですね」
「そうだな…」
レニ…あなたが歌い手になりたかったと知った時、私は他人事だとは思えなかったよ。あなたの歌はとても素敵で、他のところで頑張っていれば夢だって叶えられたんじゃないかって私は思うよ。
このレコードの曲も歌詞も、レニが作ったようだ。
タイトルは、アネモネ。
彼女の破滅の歌を聞いている途中、歌詞の中にアネモネの花が登場していて、レコードのタイトルを見た時ハっとして手にとった。まさかあなたのレコードだったなんてと、写真に映るあなたの笑顔を見て、驚いたよ。
赤、白、紫色の花を咲かせるアネモネ。
春の穏やかな季節に咲き始める花だ。
その花言葉は、はかない恋。
悲しい花言葉だけれど、赤白紫それぞれの花には、またそれぞれの花言葉がある。
赤は、君を愛す。
白は、真実、期待、希望。
紫は、あなたを信じて待つ。
レニ、あなたの辛い心を歌った破滅の歌を聞いて、私は悲しかったよ。
だけど、この歌をきいて、少し安心したよ。
あなたがしていた恋そのものはね、希望に満ち溢れていたんだってわかったから。
レニ、あなたに会えて私、彼に恋してる自分に気づいたよ。
私の誕生月日の花は、白いアネモネ…。
偶然かもしれないけれど、彼とシエナがこの髪飾りをくれた時、驚いたよ。
私の恋に他の誰かが気づいたら、はかないものだね、なんて言われるかもしれない。
まあそれでもいいよ。
私は彼が好きだよ。
きっと、ずっとずっと好きだよ。
彼が結婚して彼女と子供ができて、そのうち孫ができても、ずっとずっと好きだと思うよ。
そしてその子供も孫も私は大好きになって、親戚のおばちゃんみたいに美味しいものをたくさん買ってあげたりするんだよ。
ねえ、そんな風に、君に恋していてもいいかな。
この気持ちをね、わざわざ君に伝えたりなんてしないからさ。
君にバレないように、君のことを助けたり、守ったり、支えたりしていても、いい?
そうやって私、これからも生きていたいよ。
私にとってはね、悲しくも寂しくもないんだ。
不思議でしょう。
だってこんなにね、心があたたかいから。
こんなに他の誰かを、大切だなんて思ったことないから。
ベーラはふと、遠くで歌を聞いているジーマを見つめた。
ジーマもそれに気づいて、彼女と目を合わせた。
一瞬だったけれど、すごく長い時間のようにジーマは感じた。
最後にベーラはそっと笑いかけて、目を背けた。
「………」
ジーマはなんだか少し、胸を掴まれたような気持ちになって、その歌が終わるまでずっと彼女から目が離せなかった。
最後のサビは最高潮に盛り上がって、ピアノもまた違ったアレンジを加え、流れるように鍵盤を奏でた。
ハルクは自分の口元に置かれたマイクに声を出すと、ベーラの歌声に見事にハモってみせた。
重なる2人の歌声は、素敵なハーモニーになって、城内に響いた。
ベーラとハルクは顔を見合わせて笑い合う。
ベーラは最後のクライマックスで手を大きく掲げると、パーティー会場一体に花びらを舞わせてみせた。
花びらは各々光り輝いて、星屑のように飛び交った。
これまでのどの余興をも遥かに凌ぐ拍手と大歓声が上がって、幕は降りた。
幕の向こうで、ベーラは膝をおろし、手をついて深呼吸をした。
ハルクは彼女に駆け寄って、手を伸ばした。
「お疲れ様でした!」
ベーラはハルクの手をとって、立ち上がった。
「ふふ…こんなに大勢の前で歌ったのは初めてだったよ」
「しかも他国の王族たちですよ。凄い度胸ですね」
「お前もな。なんだあの前奏曲は。聞いてなかったぞ」
「ははは…すみません。騒がしかったんで、黙らせようと思って」
ベーラはふっと笑った。
「楽しかったよ。とっても。手伝ってくれてありがとう、ハルク」
「いえ…こちらこそ、あなたのような歌い手と演奏できて、夢のようでした」
ベーラとハルクはやりきった満足感と達成感でいっぱいになって、控室に戻った。
城内は騒然として、今の2人は何者なのか、何という曲なのかと、セントラガイトの国王や姫様のところに、王族たちが殺到していた。
部隊の仲間たちも、口があいたまま塞がらない。
「な、な、な、何なの今の?!?!」
「ベーラとハルク…で間違いなかったかのう?」
「さすがに別人てことはないでしょう!」
「か、感動しました…私…」
「そう…それな…やっばいわ…違う意味で鳥肌もんだった…」
「今も興奮してるもん…! ねえ! ジーマさん」
シエナに名前を呼ばれて、彼はハっとした。
「え? あ、うん…そうだね…」
すると、控室からベーラとハルクが衣装から正装に着替えて戻ってきた。
「お前ら〜!! なんじゃありゃあ!!!」
レインは2人の肩をガバっと抱きかかえた。
「緊張しましたよ」
「いや、全然してなかっただろ?! 最初からドヤ顔だったぞ?!」
「バレましたか…」
「おい、離せ」
「ベーラも! なんだお前あんなに歌上手かったのか? 何で隠してたんだよ!」
「隠してなどいない。聞かれなかっただけだ」
「す、凄かったです! お2人共!」
「めちゃめちゃ感動しました!」
ベルとメリは目を輝かせて近づくと言った。
また、シエナも彼女に駆け寄った。
「ベーラお疲れ様! あれ? あの髪飾りとっちゃったの?」
「無論だ」
「なんでよー! せっかく私が選んだのにぃ!」
「そういえばまだお礼を言っていなかったな。ありがとうシエナ」
「んもう! お礼はいいから使ってよ〜!」
「また今度な」
「とかいって、絶対つけないじゃん!」
ぶーぶー言う彼女の頭を、ベーラは撫でた。
「ちゃんと付けるよ。気に入っているから」
「ほ、ほんと?!」
ベーラは頷いた。
「腹が減ったから、食べ物とってくるよ」
「そっか。まだ何も食べてないもんね」
「王族の前だぞ、あんまり取りすぎんなよ!」
「わかってるよ」
ベーラはそう言って、パーティー会場の中に潜っていった。
あっという間にパーティーは終わって、片づけの手伝いをとしたあと、皆それぞれ着替えを済ませ、部屋に帰っていった。
ベーラは髪飾りを机の上にぽつんとおいて、大事そうにそれを眺めていた。
すると、コンコンとノックする音がする。
「入ってもいい?」
彼の声がして、ベーラは髪飾りをサッとしまった。
「なんだ」
ジーマがドアを開くと、化粧も落として髪も短いいつものベーラの姿があった。
ジーマは静かに中に入るとドアを閉めた。
「えっと…今日はお疲れ様。その…ありがとう。余興やってくれて。助かったよ」
「礼には及ばないよ」
「……」
「…どうした。それを言いにきただけじゃないのか?」
「いや、そうなんだけどさ…歌の途中で僕のことずっと見てなかった?」
「見ていたよ」
「え……」
ただジーマはその後なんて言ったらいいかもわからず黙っていた。
「腹が減ったから食事をよそっておけと訴えていた」
「え? そうだったの…? そんな風には見えなかったけど…」
「お前には私の気持ちがわからないんだよ」
「…ごめん。気が利かなくて…」
まるで表情の変えない彼女を見て、彼女が何を考えているかなぞまるで理解できるわけもなく、ジーマは首を傾げた。
「まあお前はそういう奴だからな」
「え…そんなに気が利かないかな…ごめん、これから気をつけるよ…」
ベーラはふっと笑って顔を上げた。
「いいよ、お前は、そのままで」
「あぁ…、そう…?」
「用が済んだならさっさと出ていけ」
「ああ…ごめん。あと、ベーラ」
「何だ」
ジーマは少し恥ずかしそうに、言った。
「今日の君は、すごく素敵だったよ。君も、君の歌も…。久しぶりにね、感動したよ」
「……」
「また…聴きたいなって」
「……」
「あはは…駄目か…」
「別にいいよ」
「!」
ジーマは了解してもらえるとは思わなかったので、少し驚いた。
「ただし何か、飯を奢れ」
「……だよね。わかったよ。いい店探しとく」
「……シエナも入れるとこにしろよ。行くときは3人だ」
「うん、わかった」
そう言ってジーマは苦笑すると、部屋を出た。
「………」
ベーラは少し赤面していたが、顔をバシバシ叩いて平常心を取り戻すと、ベッドにもぐってそのまま眠った。




